二十九の十二
仏蘭西取引所の鐘の声
生糸暴騰の兆しあり
英国ポンドの札の色
兌換絶対の理を表す
驕れる成金も久しからず
ただ吊り上る土地の時価の如し
御用商人もついに滅びぬ
ひとえに恐慌の前の株券に同じ
それはあまりに奇妙な平家物語だったので、自分はまだ夢の世界を漂っているのではないかと思った。
「産業手本平家物語。ここじゃよくきくわ」
「あれも琵琶法師が唄うのか?」
「他に誰が唄うっていうの? もちろん琵琶法師よ」
「ここは地獄か?」
「そうよ」
「あんたは誰だ。目が眩んで見えない……」
「人はみんなクチバシ先生って呼ぶわ。由来は良しとけばいいのに、いらんことにあちこちでクチバシを突っ込むから。ギリシラズから落ちてきたあんたたちを助けたのも良しておけばいいことの一つね」
「あんた、たち、か。じゃあ、あの女も一緒に落ちたわけだ」
「あれが誰だか知ってるの?」
「カブト団だろ」
「副団長で、団長の妹。斬り姫さまって呼ばれてる。その斬人履歴は神がかっていて、〈谷〉には斬り姫を生き神にして祀ってる神社があるくらい。ひょっとすると、〈丘〉にもあるかもね。娘義太夫でいうところのドースル連みたいなもんで、あの人斬り娘の家来になりたがるやつは数知れず。でも、あんたは違うみたいね。もし、よかったら、ギリシラズから斬り姫と一緒にドブ川に飛び込んだいきさつをきかせてくれる?」
「構わないが、目がまだ眩んでる。おれは失明したのか?」
「してないわ。まぶたを開けてないだけよ。ほら」
額を指で弾かれると、扇のまぶたが巻き上げ機にかかったみたいにぱっちりと開いた。白く清潔な病室。窓からはぼんやりとした光が差し込み、掛布団に勾配の影をつける。琵琶法師は犬に追い散らされたのか、奇妙な唄はきこえない。長身の女医が扇を覗き込むように体を傾けたが、扇の目を見て、本当に失明の確率がないかどうかを確かめているようだ。口にした仮説を事実に導かないと気が済まない経験主義者の医者はだいたい白衣ではなくフロックコートを好んで着るが、クチバシ先生も仕立ててからだいぶ経過したフロックコートのポケットに手を突っ込み、固めの襟に黒の蝶ネクタイをつけていた。
「ああ。それとあんたの刀。あれ、売ったから」
「な! あれは是永の――」
「治療費と個室代、それに口止め料。どこかのよそ者が独裁者のお気に入りの利き腕を切断して潜伏中ってことで、〈谷〉じゅうにこれまで見たこともないほどの兵隊が出張ってる。迷惑料と言ってもいいわね。とりあえず、十両をこっちがとって、残りの四十両で新しい服を見繕っておいた。だから、三十七両かそのくらいは残ってる」
「刀は誰に売った?」
「知らない。名前もきいたことのない行商人よ」
うそだ。そんな通りすがりの行商人が五十両の大金持ち歩くわけがない。
「取り戻そうとしても無駄よ。それに、さっきも言った通り、そこいらじゅう政府軍とツルギ党員だらけ。こんな状態であんな大きな人切り包丁持ち歩けないわよ」
「とにかく、試みるだけのことはする――うっ」
起き上がると、包帯にぴったりと覆われた背中に冷たい痛みが刺し込んだ。
「あんた、背中斬られてたんだよ? 手甲の肩のところがある程度刃が深く入るのを防いでたからいいけど、そうじゃなきゃ死んでるとこだよ」
「着替えさせてくれ。外に出たい」
「傷口が開くから、おすすめはしないけど、あんたたちみたいなのはいっぺん死ななきゃ分からないだろうしねえ」
瑞典是永を売って買った服は背に線の入った黒の砲弾上衣とシャツ二枚、肌着数枚、履物は青い綿布の義経袴だった。病院着を変えて、髪を後ろで縛ると、売られずに残った棒手裏剣と大ぶりの苦無を腰につけ、ネイヴィ・コルトを革の銃嚢に差し、足袋と草履を履いた。長靴は川のなかでなくしてしまった。だが、ゴーグルと面頬のマスクはきちんときれいにされて椅子の上に置いてあった。そして、残った金三十七両はしっかり紙入れに納められている。あの女医は寝不足で始終不機嫌な皺が眉間に寄っていたが悪い人間ではなかったのだ。
病室を出ると、奥が船着き場に通じる廊下を歩いた。クチバシ先生が言うには、手負いの扇が斬り姫を引きずって桟橋まで現れたということだった。
「どうせ、町に出るなら、お面を見つけてきてくれない?」カルテにドイツ語を書き散らしながら、クチバシ先生が言った。「あの子のお面、どこかに行ったらしいんだけど。この川に落ちたんなら流れ着いてる場所がある。対岸の闇市なんだけど」
「どうしておれがそんなことを」
「あんたがあの子を助けたんだから、あんたが最後まで面倒見なさい。面倒見られないなら、最初から助けない」
「あんた、医者なんだよな?」
「〈谷〉で医者をやるってのは生半可な覚悟じゃできないってことよ。ほら、行って!」
〈谷〉を横切る有馬川は煤と野菜くず、頭が二つある魚の死骸が浮かぶドブ川で、こんな川に背中を斬られて飛び込んでよく壊疽を起こして死ななかったもんだと自分で驚くほどだった。川底の汚泥が発酵してブクブクとあぶくを弾けさせている。平底船が水面をかき混ぜるたびに、我慢ならない臭いが川沿いの通りへぞろりと這い上がった。
橋を渡って右に曲がると、市場のハラワタたる売り物諸種が道の上まで流れ出していた。古い武家屋敷はすっかり市場に呑まれ、母屋と庭では大小の怪しげな商人が集まって、焦げた飯、甘辛そら豆、鯉の切り身、古い甲冑、固い餅、化け葛籠、南部鉄瓶、獣脂靴下、フランス式の古い軍帽、縁欠けどんぶり、沃化銀写真機を喉も破れよと大声で売り出していた。士官学校から買い集めたパンくずが味噌汁の具となって蘇生して一杯二文でふるまわれ、コマまわしの妙技とともに歯磨粉売りの祭文口上がぺらぺらとしゃべりつくされていた。扇の目の前で湯気を吹いたのは占い用の蒸気機関であり、真鍮の缶のなかで算木がカラカラと音を立てている。この市場で一番の売り物は十里離れた清い川から取ってきた一尾の大きな鱒で針打ち銃と出刃を呑んだ魚屋の兄弟が警備につく。大きな底引き網を乾かしている店で扇は斬り姫の仮面を見つけた。黒い鋼製で目のところには角ばった渦巻が描かれている。よく見ると、目の模様は切替が可能らしく、仮面のなかで瞬けば涙目や蛇の目、×の目などに切り替わる。
「これ、いくらだ?」
「一朱銀一枚でどうだ?」ゴミ漁をしている男が言った。
「札でもいいか?」
「セッツ紙幣なら」
半分の仮面を手に取ると、弾薬を売る店を探す。ネイヴィ・コルトは無事だったが、実包が水に浸かってすっかりダメになっていたのだ。鉄砲売りの老人が屋敷の裏手で大きな唐傘を差して、縄張りにし、茣蓙の上に様々な口径の銃を置いていた。
「三十六口径の弾はいくらだ?」
「何に込める?」
扇は銃を渡した。
「ネイヴィ・コルトか。一八五一年からほとんど変わらない頑固さがいい。最近の銃は何でもかんでも小型蒸気機関を使って、弾をあっという間にばらまきやがる。こいつの弾なら一発でお天保一枚、二朱銀一枚なら一発オマケで六発つけよう」
扇は上衣のカクシから二分金一枚を出した。
「これで三十発」
「おやおや。こいつは。よし、気に入った。一両出せば、実包三十発に加えて、わしのお宝をやろうじゃないか」
「お宝?」
ちょっと待て、といって、老人は自分のすぐ脇にある大きめの箱――その蓋の上には弾を込めた二連発デリンジャー銃が置いてあった――から革製の弾薬ベルトを取り出した。
「こいつはワイルド・ビル・ヒコックが使ってたもんだ。本物だぞ」
「誰だ、そのなんとかビルっていうのは?」
「アメリカの宮本武蔵みたいなもんさ。アメリカって国は刀のかわりに銃を使うだろう。このワイルド・ビル・ヒコックは文句なしに宮本武蔵なわけだ」
「ベルトならもう持ってる」
「お買い得だと思うんだけどなあ」
扇が弾を込めた銃を銃嚢に戻し、屋敷跡の表へまわると、独裁者の兵隊たちに出くわした。兵士たちはビゼン紙幣を乱暴に押しつけて、好き勝手に品を取り上げていた。兵隊たちはその上衣やズボン、平らな帽子に市街戦迷彩を彩色していた。灰色と青を基調とし模様の輪郭は屋根瓦を意識したこの迷彩もズボンの横に走らせた黄色い筋と白い革のゲートルのせいであまり効果はなくなっていたが、ドイツ製のライフル銃を愛おしげに手入れするその姿を見ると、その力を見くびるのも危うい。少なくともこうした兵士たちは連携を組んで戦う。軍事理論上は剣付鉄砲五人が円陣を組めば、どんな剣豪が斬り込んでも銃で撃たれるか銃剣に突き刺されるかして落命するということになっていた。
商人たちは兵隊たちを地震や火事同様の災害と思ってあきらめていたが、その兵隊たちが鱒の魚屋へと近づくと一波乱起きた。魚屋の兄弟と兵隊たちが剣呑なやり取りを交わした。漬物樽のなかを泳ぐ鱒は紙切れ同然のビゼン紙幣で手放すにはあまりにも美しすぎた。兄弟は金銭ではなく、生きた鱒と同じくらい美しいものと交換するつもりだったのだ。独裁国家の貧民窟ではそれはあまりにも危うい試みであり、そしてその心は美しかった。
兵隊は六人で髭だらけの軍曹が一味を束ねていた。そのうち乾いた銃声がすると魚屋の兄のほうが銃を取り落とし胸を押さえながらよろめいた。軍曹が手をふると、すぐにまた銃声がして、魚屋の兄は頭から地面に倒れていった。弟はまだ十四、五だった。だが、出刃を抜き、兵士たちに斬りかかった。兵士の鉄砲の先の銃剣がぎらついた。弟もまた倒れた。
扇は十間の距離から引き金を引きっぱなしにして、撃鉄を弾き続けた。軍曹を除く五人の兵士が次々と倒れたが、あるものは肩に命中した弾が体のなかで跳ね返って内臓を破裂させ、あるものは咄嗟にかざした手のひらに弾丸が命中して、貫いた弾に額を砕かれたものもいた。扇は最後の軍曹目がけて跳んだ。軍曹は古参の兵士らしく、担い革を握ると素早く銃をまわして、冷静に扇の体の真ん中を狙うようにして撃とうとしたが、扇の苦無が一閃、喉が切り裂かれて、ゴボゴボと音を鳴らしながら尻もちをついた。
商人たちはこれから起こること――逮捕、拷問、銃殺刑に巻き込まれることを恐れて、慌ただしい店じまいとなり、我先にと市場から逃げ出した。扇はそんな騒ぎは気にせず、漬物桶のなかで泳いでいる鱒を見た。小さな鱒でこの鱒を生かすための水がこの周囲三里以内に存在しないことが悲痛ですらあった。あとで市場の商人たちは魚屋の兄弟の強情さを笑い、ひょっとすると、頑固な商人が独裁者に歯向かうとどうなるかを示すことわざか何かになったり、狂歌が詠まれたりするかもしれない。ある種の美しいものが人間を破滅にもたらす好例として誰かの講演に使われるかもしれない。それでも扇は忘れなかった。この儚いものに守る価値があり、そのために避けられない悲劇へと陥っていった兄弟の真摯さを忘れなかった。




