二十九の九
そのマスクは戦国時代の面頬の口の部分に小型の除毒器をはめ込み、黒い樹脂の小札でつくった喉輪がついていた、面頬は武者というよりは白拍子のような面構えだが、これをつけて戦場で相まみえると、人はその表情の冷たさに冷や汗をかくと言われた代物。夜助のマスクのように蛇腹がついていない分、値は張るが、最低最悪の空気のなかで斬り合っている最中、蛇腹を引っかけられて致命的な隙が生じることを考えると、安い買い物ではない。
面頬は顔にぴったりくっつくようにゴムで内側をゴムで縁どられていて、二つの革バンドで顔に固定する。全部でセッツ国の一両紙幣を取られ、やけに値段が高いと思っていたら、煤で曇ったなかでも視界良好という丸いガラスをはめ込んだゴーグルが込みの値段だった。
扇は早速、マスクとゴーグルをつけた。視界は少し落ちるし、自分の呼吸の音が籠ってきこえて耳障りではあったが、息をすること自体はかなり楽になったし、しょっちゅう目に飛び込んでくる煤や炭塵の問題も解決した。
マスク売りの店を出ると、活気のある通りに出る。酒樽を積んだ荷馬車のまわりに人が集まっていて、マスクを器用にずらしながら、〈村正〉を胃の腑に流し込んでいる。その正体は炭塵そのものよりも有害な三級酒で工業用のアルコールを加工したものだ。これを飲んで失明したもののことに〈めくら村正〉と名をつけるが、それは哀れな酔っぱらいというより銘刀の号のようにきこえてくる。他にもフェルトの加工で使う水銀の蒸気を吸い込んだせいで震えた止まらなくなった〈帽子屋瘋癲〉、マッチ工場の労働者が黄燐を吸い込んだせいでなる〈顎くずれ〉など、産業時代ならではの新しい病気が煤の街路に毒花のように人を誘い込んでいた。
「で、ニイさん。次はどこに行く?」
「適当に街を案内してくれ。はぐれた仲間を探したいが、誰が役に立つか分からない」
「人探しなら、まずここから始めろってとこがあるぜ」
「じゃあ、そこを頼む」
粉塵病院は閻魔通りの七番地にあった。遠くから見ると、その家屋は煤けた空気のなかで屋根瓦をぎらつかせ、仕切り板みたいな扉が玄関にはまっている。病院の隣は〈顎くずれ〉に新しい顎をつくる義顎製造所で、クルミの殻も噛み砕けるほど丈夫な顎をつくることで知られていた。つくっているのは主に顎だが、料金を上乗せすれば、蒸気機関を搭載した義足や義手をつけることでも知られていて、五体満足な若者たちが世界的な蒸気流行に乗るつもりで健康な手足を斬り捨てて、ポンコツ機械を取りつけるという最高に贅沢で最高に愚かな交換をするために列をなしていた。左隣にはよろず屋があり、出目で月代をいいかげんに剃った男がとうもろこしに同情したくなるくらいまずそうなとうもろこし菓子をつくっていた。この不機嫌なよろず屋の売り物といえば、ビゼン政府の印紙が貼られた酒壜、紐を引くと目玉が飛び出す神戸人形の二つだけであったが、夜助に言わせれば、これでもまだ品揃えは豊富なほうらしい……。
粉塵病院の名の由来は人間の命を的確に表現する比喩を探し求めて、この言葉に落ち着いたらしい。マスクをしていてもツンとくる消毒液の臭いが畳に染みついた待ち合い室にはやはりガスマスクをした看護婦がいて、腰痛持ちも風邪引きもガスマスクをしていた。
「腰痛ですか? 風邪ですか?」白のメリヤスの高烏帽子みたいの帽子をかぶった看護婦がたずねた。
「死体置き場を見せてくれよ。ネエさん」夜助が言った。
「患者じゃないんですか?」
「おれたちは死体を見に来たんだよ」
「どうして?」
「理由なんてどうだっていいだろ」
「理由が言えないのなら、死体安置所に案内できません」看護婦はきれいだが冷たく、言葉もつっけんどんな調子があった。
「じゃあ、分かった。理由を教えてやるよ。おれたちは死体愛好家なんだ。死体置き場に置かれた身元不明の死体を見ると、ゾクゾクするんだよ。これでいいか?」
「ダメですね。あなたの言い分をきくと、死体にどんな悪戯をするか知れたものではありません。いいですか? 死体というのは人間の最後の姿、いわば終着点です。病院の死体安置所がみな冷たい石造りなのは死者への尊厳と死後の世界の予兆を表しています。それを死体が好きだ、見るとゾクゾクするなんて人にかき乱させると思いますか? 恥を知るべきですよ。一朱銀一枚、いただきます」
すっと伸ばされた手を見て、夜助が、
「は?」
「死体安置所への案内料です」
「死体の尊厳は?」
「それとこれとは別の話です」
長い下り階段を降りた末に死体置き場があった。窓はもちろん通気口もない部屋は肌寒く、炭軸灯を入れた白い提灯が場違いなくらい眩い白を発光し、担架の上にのせられた死体を照らしていた。
「解剖した痕がないのに、服が全部剥がされてるぞ」
「受け取った時点でこうでした。当院が盗んだわけではありません」
死体は老若男女どれも全裸で、死後に盗まれたのか腕や足がないものもいたが、その死に顔は奇妙なくらい満ち足りた顔をしていた。骨と皮だけの女や肥満の男、小役人風の顔の男、右腕と左足がない男など五十体以上の死体を見たが、泰宗の満ち足りた表情に出会うことはなく、もちろん寿もいない。
「ここにいないってことは」と、夜助。「ニイさんの探してるやつはまだ生きてるってことだ」
「死体が見つからないように埋めたのかもしれませんよ」
「あんた、おれが前へ前へ押し進めてるのに、後ろ向きなこといいやがるなあ」
「川に沈んだのかも。くくりつけられた石が漬物石五、六個なら一週間で浮き上がります」
「ニイさん、行こうぜ。ここにゃ、ニイさんの探してるやつはいないよ」
「ああ」
また階段を上る。階段の出口は廊下に通じていて、右に行けば待ち合い室、左に行くと、医院の裏手へつながっている。
「夜助。靴をもってきてくれ」
「へ?」
「ここにおれの靴を持ってくるんだ。はやく」
扇の目は左手の廊下の奥に見える蔵の、鋳鉄製の扉に向いていた。そこに辿り着くにはいくつかの病室を横切り、看護婦の制止をふり切らなければいけない。
「ほいよ、ニイさん。持ってきたぜ」
「医者の蔵、破ったことあるか?」
「あるぜ。なんで?」
「ここの蔵を破る」
言うと同時に、扇は看護婦に当て身を食らわして気絶させた。塩素剤の臭いがする。靴を履き、土足も構わず、廊下を進み、庭にある蔵の前に辿り着いた。夜助は薄くて折りたためる革に錠前破りの道具を差していた。早速、錠前に小さな鉤のようなものを二本差し込む。扇はというと、そのあいだにまた医院に戻った。病室のあいだの廊下に上等の絨毯が敷かれていた。そのまま絨毯に導かれ、破裂寸前の安物な蒸気浴治療器やすぐ阿片チンキの処方に頼る医者が使うと裁判沙汰になりかねない調薬用計算機関のある部屋を通り過ぎた。やがて院長室へとたどり着くと、扇は紙が震えて破れるほど勢いよく障子を開けた。院長はさっと机の裏にぶら下げたアメリカ製の銃嚢をまさぐった。その俊敏さを見る限り、彼の治療のせいで余計に病気がひどくなって怒り狂った患者の逆襲は頻繁に起こるらしい。だが、早撃ちでは扇に軍配が上がった。ネイヴィ・コルトの弾丸は院長の巨大な蒸気ピストルを弾き飛ばした。床に落ちた蒸気ピストルは行き場を失った蒸気のせいでガタガタと震えていた。扇は院長に飛びかかると、そのまま腕をねじ上げ、地面に倒した。院長の目の前には破裂寸前の蒸気ピストルが転がっていた。
「頼むから、殺さないでくれ。もっといい医者を紹介するから!」
「おれが死体置き場で感じた〈流れ〉が正しければ、あそこに白い髪で年齢がおれと同じくらいの男があそこにやってきたはずだ」
「ま、待ってくれ。わしは何のことか分らんのだ」
「あんたはここに運び込まれた死体の持ち物を剥いで小遣い稼ぎをしているだろ? だから、あんたはあいつの短刀も盗んだ。違うか?」
「蔵に短刀なんてない。本当だ」
「そうだ。だが、お前はそれを売り払った。ここじゃ刀を長く保管するのはいろいろと面倒を引き起こすからな。おれの推測は合ってるか?」
「全部、当て推量だ!」
「確かにその通りだ。だが、このままいけば破裂した蒸気ピストルがあんたの顔をズタズタに切り裂く。それだけは当て推量じゃない。事実だ」
院長の目の前では蒸気ピストルが局地的な地震に襲われたみたいに震え、アラビアの苦行僧のようにぐるぐる回転し始めていた。それはアメリカ南部連合の払い下げレマット蒸気回転式拳銃で、九発の拳銃弾と焼夷薬を染み込ませた霰弾一発が発射可能な極めて破壊的な武器であり、アメリカでは白人に向かってこの惨い武器を使うのが禁止され、インディアンや逃亡奴隷、メキシコ人に対してのみ使用が許可されていた。
おそらくこの銃を人に向けて撃ったことが最低一度はあったらしい。院長は白状した。白い髪の少年が〈谷〉の斜面に転がされていたので死んだものと思って、持ち物を全部奪った。そのなかに高価そうな短刀があったので、ツルギ党に売り払ったらしい。
「ツルギ党?」
「政府の後ろ盾をもらった愚連隊だ! ギリシラズやレンゴクの管理を請け負ってる! あああ! もう、ダメだ! 爆発する!」
扇は院長を放り出すと、銃を蹴っ飛ばした。ガラス窓を破って外に落ちた銃はたちまち吹き飛び、弾の一部が部屋のなかへ飛び込んで壁と刺激剤の貼り紙をズタズタにしてしまった。マスクをつけていたので分からなかったが、院長は漏らしてしまったらしい。
「ニイさん! 大収穫! ここの連中、死体の持ち物を全部剥いで、って、うわ、どうしたの、こりゃ?」
「ちょっとした事故があったが、別に問題はない。ここを出るぞ」
「出る、ってどこに行くんだい?」
「ツルギ党、ギリシラズ、レンゴク。このどれかにぶつかれれば、どこでもいい」




