二十九の八
鋭くも温かい太陽の光が差し、扇が目を覚ましたとき、目の前にはフグ提灯が転がっていた。これまでいろいろな宗教が唱える死後の世界とやらについて知る機会があったが、フグ提灯に迎えられるあの世の話はきいたことがない。そのうち、前夜の記憶が打ち身みたいにじわじわ甦り、あの自暴自棄な竹の車の最後の乗客だったことを思い出すと、フグ提灯を浮かべて三途の川を渡らせられる可能性なきにしもあらず――だが、やはり死んでいない。
というのも、ちょうど扇のポケットに手が突っ込まれ、紙入れを抜かれたところだったからだ。あの世にはフグ提灯はいても盗人はいないという奇妙な持論を展開してもよかったが、殺せる間合いに人を入れた危なさが扇の本能に激しい反撃を敢行するようしきりに呼びかけ、扇は盗人の手首をつかむと、背中へねじって、相手を地面、というより堆積したゴミに押しつけた。
つまり、ここはガラクタの墓場だったわけか。見渡せば、古葛籠、手桶、まな板、行灯、筆、鉄瓶、ふすまの金具、どろどろに溶けた屏風、欠けた植木鉢、鋲がすっぽ抜けた汽罐、腐った水がたまったどんぶり、茶箪笥、用途不明の金物、魚の形をしたガス噴射器、アフリカ黄金海岸でなら貨幣として通用しそうな石臼、古い仏像や神棚の壊れたものが斜面に転がっている。そんなゴミのなかを股引穿きの屑拾いたちが何かカネに変えられるものはないかと探してうろうろしている。
空を見ると、一応は朝らしいのだが、工場の煙突が絶えず注ぎ込む煤煙のせいで太陽は見えず、嵐の前の夕暮れのように暗い。扇の顔に陽の光が当たった気がしたが、あれは勘違いか、それども百年に一度の軌跡で煤雲が割れて、扇一人を起こすために差し込んだのなら――。
「ちょっと! 人の腕ねじったまま考え事するなよ!」
ああ、そうだった。おれは盗人の腕をねじって、塵芥の層に押しつけているんだった。盗人はまだ子どもだった。ぼさぼさに伸びた髪、着ているのは戊辰戦争の放出品らしい裾を切った砲弾上衣に〈だんぶくろ〉と呼ばれたズボンもどきで見た目や着心地ではなく、値段の安さ、あるいは盗みやすさで決めたらしい。
「他人様のポケットを勝手に探っちゃいけませんって学校で習わなかったのか?」
「死んでると思ったんだよ! 死人にカネなんていらねえだろ!」
「まあ、お前の言うことも一理ある。とったカネの半分を返せ。もう半分はくれてやる」
「カネ? なんのことだよ。おれが来たときには、もうあんたすっからかんで――」
ぱちん! 扇は口のなかで舌を巻いて音をはじき出した。
「肘から今みたいな音が鳴るんだ。これ以上腕をねじるとな。試しにきいてみるか?」
「靴! 靴のなかだよ、ちきしょう!」
扇は少年の靴を脱がした。垢まみれの足は放っておいて、靴をつかむ。大人用のボロ靴を分解しないよう縄で縛り、さらにぼろきれをなかに入れて、調整していた。扇の所持金だった十両分の紙幣と硬貨のうち、半分がぼろきれに包まれていた。それを取り戻すと、腕を放した。少年虫か何かみたいに素早く扇から離れると、ねじられた腕をしきりにぐるぐるまわして、まだ残る痛みを散らそうとしていた。
「あー、ひでえ目にあった。これで蒸気義手が入り用になったら、どうしてくれんのよ?」
「知るか」
扇はガラクタのなかのかろうじて歩けるところを選び、陶器がバキバキと割れるのを靴底の下に感じながら、ガラクタ置き場の坂を下っていった。そこからすり鉢状にへこんだ〈谷〉が見渡せた。見渡すといっても、重たい煤がずっと滞留しているので、空気は黒く濁っていたが、そのなかでも瓦葺きの工場、蒸気機関の塔、掃き寄せたような長屋の一群、ブリキ屋、蒸気自動車の走る道、川沿いのヤミ市、そして〈谷〉を二分するように走る高架線とタチの悪い獣のような装甲列車。
このどこかに寿と泰宗がいるのだろうか? まあ、殺してもしなないようなやつらだし、寿はほんとに殺しても死なないのだから、あいつらの心配をするより自分の心配をしたほうがいいに決まっている。
そのとき装甲列車が一発ぶっ放した。真っ赤に焼けた砲弾が黄色く輝く尾を引きながら飛んでいき、工場の煙突を一本へし折ってから、はるか遠くの掘立小屋の集まりをバラバラに吹き飛ばした。何か軍事上の必要性があったのか、それともただ撃てると証明するために撃ったのか。たぶん、後者だろう。やろうと思えば、独裁者はいつでもお前らの頭の上に砲弾をぶち込めるのだと教えておけば、〈谷〉の住人をある程度まで制圧できるのだろう。
坂はハラワタみたいにねじれた路地につながった。蒸気を送る鉛管が壁や頭上でのたうちまわり、菜っ葉半纏の労働者たちがその蒸気漏れをトンカチ一つで直していた。だが、鉛管はそもそも工場の蒸気圧に耐えきれるほどの強度がないので、ある漏洩箇所を補修すると、今度は別の場所から蒸気が漏れ、それを埋めると、また別の場所、そして、最初の場所へと戻る。それはまるで〈谷〉が生きることは刑罰と変わりないのだと必死に教えようとしているようだった――突然降ってくる装甲列車の砲弾を正当化できるとでもいうように。
障子を立て回した屋台が道のほとんどを塞ぎ、スルメ鮨や糖蜜食パンを商い、五十集屋は戸板を横にして、塩鮭や串柿と一緒に機械部品――鉄製、石製、木製、竹製――を並べている。値切る声と吹っかける声が空中で殴り合い、請負師らしい男が機械製の手をふって、価値の死に切った政府紙幣を拒絶する空では電信線が秘密警察の密告を伝えるべく遭難者のように震えていた。
「ニイさん、どうだい?」売り物と同じくらい目が濁った濁り酒売りがしつこく扇を誘った。「一杯十七文。品質は保証付き」
「いらない」
「じゃあ、食い物はどうだい? 煮物がいろいろあるよ。臓物の串はどうだい? トリは?」
「必要ない」
「じゃあ、女かい? まだ寝てると思うが、でも、何なら、叩き起こして――」
「それも必要ない」
「あんた聖か何かかい? 飲みたくねえ、食いたくねえ、別の意味でも食いたくねえときたら、こっちはお手上げさ」
「行きたい場所がある」
「そうこなくちゃな。旅券なら偽造できるぜ」
「長船千軒に行きたい」
「おっと。そういうことなら、面倒はごめんだ。カブト団に目をつけられるちゃ、命がいくつあっても足りねえ」
「なんだ、そのカブト団というのは?」
「ここいらを縄張りにするヤバいやつらの集まりだ」
「そいつらは秘密警察か何かなのか?」
「冗談じゃねえよ。そんなことやつらに面と向かって言ったら、八つ裂きにされるぜ。やつらは秘密だろうが公だろうが警察嫌いで通ってる。暗殺部隊の凄腕だって、ここでやつらに見つかれば、生き残れるかどうか。やつらは政府の刀狩りに反抗しているが、他のどの組とも組まないし、長船千軒に行きたがるやつはみんな秘密警察だと思ってる。だから、ここじゃ長船千軒に行きたいだなんて、気軽に言うもんじゃねえんだ」
「そうか。いいことをきいた」
それから扇はあちこちで長船千軒に行きたいと触れてまわった。扇の目的は七代目藤原是永を救出することだし、是永は、まあ、いろいろあるが、それでも刀工には違いない。刀狩りに反抗するカブト団とやらが、是永救出に向かう扇を支援しないはずはないのだ。まあ、多少のゴタゴタはあるだろうし、すぐには信じてもらえないだろうが。
坂を下り、真昼でも提灯が必要な煤っぽい通りに出る。土蔵造りの工場が並び、木の歯車が軋み、煙突が吐いた重い煤は空で雲を捕まえて、地上へと引きずり下ろしている。手巾を口と鼻に当てるが、それでもまだ不十分で口のなかがざらついていた。
「ここを歩くなら二本の足と同じくらい、マスクが必要だぜ。ニイさん」
振り返るとさっきの盗人小僧がいた。その顔を覆う狐の面から一本の蛇腹管が伸びていて、肩から下げた真っ赤な除毒器につながっている。
「マスクってのはおれが今つけてるような面で、これで毒を除ける。あんたのその布切れじゃ、一日ともたずにお陀仏さ」
「何をしに来た?」
「ずいぶんな言い方じゃねえか。せっかく人が親切にしてやってんのによ。いいさ、そういうことなら、知ったこっちゃねえや。勝手に歩いて、煤でとびきり悪い病気をこさえりゃいいんだ」
見れば、まわりの人間は防煤面をつけて歩いていた。荷車を曳く馬ですらマスクをつけているのに自分は持っていないというのは、何というか人間社会に対して面目が立たないような気にさせられ、焦らせられる。
扇は少し考えてみた。この街について知っていることといえば、気まぐれに砲弾が降ってくるくらい。案内役が必要で、それも長船千軒に行くなら案内役は抜け目のないほうがいい。
「まあ、待て」と、扇。「気を悪くしたなら謝る」
「そうそう。そういうふうに言ってくれりゃあ、こっちだってうまく運ぼうって気になるもんさ」
「じゃあ、マスクが手に入る場所まで案内してくれ」
「いいとも」
「そうだ。名前をきいてなかったな」
「夜助ってんだ。よろしく頼むわ」
「夜助か。おれは扇だ。よろしく頼む」




