二十九の七
ビゼン国の首府、神戸湊には〈谷〉と〈丘〉がある。
〈谷〉は貧民窟であり、工業地区であり、独裁者の秘密警察ですら立ち入るときは細心の注意を払う無法地帯。
〈丘〉は逆に高級な街だ。貿易会社があり、鉄道駅があり、異人館の並ぶ通りがあり、飛行船の発着場がある。それに百貨店があった。勧工場が異人の笑いのタネになっていることを機敏に感じ取った終身統領は総合商業店舗が勧工場を名乗るのを禁じ、全て百貨店を自称するよう法令を出した。さらに終身統領はいみじくも百貨店を名乗る以上、出入り口に吹き抜けのホールがなければならないと法令を出したため、かなりの数の商人が店じまいをするハメになった。自分の雇人に密告屋がいるとも知らずに不注意な発言をして銃殺刑になった店主も少なくなかった。
だが、〈丘〉の住人はみな終身統領にこびへつらい、おこぼれで立身し財を築いた連中だったので、ある程度まではあてにできた。それでも油断は禁物だったから、どの屋敷にも必ず一人、密偵を送り込み、さらにその密偵を秘かに見張るための密偵を送り込んでいた。
終身統領官邸にある執務室には肉吊り用の鉤があり、そこに内臓を抜いてきれいに洗った豚を逆さづりにして、サーベルの鍛錬をすることを日課にしていた。人間、死んだ豚を切っているだけでは剣士にはなれない。終身統領がいい例だった。丸々太っていて、頭の毛はきれいさっぱり禿げてなくなり(かわりに白い髭が胸を隠すくらい生えていて、これについて何かダジャレめいたことを言った近衛士官が壮絶な拷問の末に死んでいる)、動きにキレがなく、長くサーベルをふるう体力もない。だが、部屋のなかで拍車付きの騎兵用ブーツを履き、シャツの上に勲章を二つ三つつけた上衣をボタンをとめずに軽騎兵風に羽織っているところを見れば、心は騎兵大将のつもりなのだ。
宇喜多大佐が執務室に現れたとき、終身統領はサーベルの切れ味が悪いといって騎兵連隊付き鍛冶屋に抜き身のまま投げつけた。危うく串刺しにされかけた鍛冶屋はかしこまってサーベルを下げ、新しいサーベルをそっと終身統領に差し出した。終身統領は指の腹で軽く触って切れ味を確かめると、豚を叩き始めた。
「閣下。ご報告があります。藤原是永の救出に来た天原のものたちですが」
「斬り捨てたのか?」
「いえ、取り逃がしてございます」
サーベルをふりまわす手が止まった。
「取り逃がしただと?」
「思ったより手強い連中です」
「そいつぁ、面白くないぞ、大佐。まったく面白くない」
「わたしも左様に感じます。閣下」
独裁者に悪い知らせをもたらさなければいけないものは普通、額が冷や汗のナイアガラ瀑布と化し、頬が急速にこけ、口が震えて、最後は言葉も出なくなるものだが、大佐はその端整な顔に微笑みめいたものすら浮かべ、平然と報告していく。
「閣下。悪い知らせはまだあります」
終身統領は竹蒸気の発進から壮絶な最期までのあいだに起きた出来事をきき、特に異人街へ逃げたことをきくと、怒りで真っ赤になっていた禿げ頭がいっぺんに蒼くなった。
「まさか、政府の車は後を追って、異人街に入ったんじゃないだろうな?」
「いえ」
「よし。全ての責任はその馬鹿どもにある。それにわしはそうした馬鹿どもを撃ち殺す権利を毛唐どもにくれてやった。その馬鹿どもを撃ち殺せなかったのはその馬鹿どもの責任だ。しかし、領事たちが抗議に来るかもしれん。あいつらときたら、何でもかんでもわしに責任をなすりつけ、こっちの関税収入を管理する機会を狙ってやがる。クソッタレ毛唐どもめ!」
渾身の刃がぶつかり、豚がぶらぶらと揺れる。
「毛唐の外交官が抗議にきたら、わしはコレラにかかったとでも言っておけ。それでその反逆者どもだが、まさか〈谷〉に逃げたんじゃないだろうな?」
「彼らは英国領事館の裏庭から落ちていったそうです」
「じゃあ、やっぱり〈谷〉に逃げたのか? くそったれめ。また秘密警察の密告屋どもが情報料を吊り上げるぞ。あんなクソいまいましいゴミ捨て場、住人ごと燃やしてしまいたいが」
「ですが、閣下。我が国の工業生産に〈谷〉の工場群は欠かせません」
「そうなのだ。なぜ工業はわしの力が及びにくいところでばかり発達するのか。クソいまいましい。もっと大勢の密偵を放ちたいが、なぜか正体がバレちまう。それにあのカブト団とかいうごろつきども。まるでこの国にわしなど存在しないように〈谷〉で幅を利かせているそうじゃないか。反逆者どもがカブト団と手を組むとは考えにくいが、かといってやつらがいる限りこっちも反逆者狩りの人手が出せない」
「そのことでしたら、閣下、よい考えがございます。以前より、〈谷〉に支配権を握りたがっている愚連隊がございます。名をツルギ党というのですが、これにいくばくかの援助を行えば、カブト団への牽制となります。ゴロツキにはゴロツキをあてるのです」
「よし、その手で行こう。それとサーベルのかわりをよこすように言え。まったく切れん」
大佐はそれを受け取って、親指の腹を軽く刃に押し当てた。すぐ血が短く赤い線となって、指の上ににじみ出た。
「閣下。サーベルの切れ味に問題はありません」
「じゃあ、問題は豚にあるわけだ。もっと切れる豚を用意させろ!」
「ただちにご用意いたします。閣下」




