二十九の六
「乗ってください! はやく!」
泰宗が都合してきた蒸気自動車は竹でできていた――ハンドルも、車輪も、座席も。機関はさすがに鉄でつくられていたが、限界まで酷使された汽罐はぶるぶる震えながら煤煙と赤錆をまき散らしていた。糸繰り車みたいな竹にゴムベルトをかけて蒸気機関と結びつき、個性的なつくりの車輪に推進力を与えていたが、その車輪のまわる有様は自暴自棄劇場破滅型のコンコンチキでこんな状況でなければ、乗車は御免願いたい代物だった。おまけに、この車に飛び乗ったとき、扇は致命的な過ちを犯した。泰宗がこの車のブレーキのかけ方を知っているかたずねるのを忘れたのだ。
追っ手である暗殺部隊の乗る蒸気装甲ガーニーは扇たちの竹細工よりもずっと大きく、ずっと速く、ずっと固く、乗員は良質の鋼に守られていた。その蒸気ガーニーが竹細工のカマを掘るたびに竹がばらけて飛んでいった。そこに散っていく桜の切なさのようなものを感じられないことはないが、それにはまず追っかけてくる装甲車をどうにかしなければならない。
爆薬筒は使えない。爆風でこちらがバラバラになる。つまり、扇にできることは何もないということだ。せいぜい一番吹っ飛びにくそうな竹につかまり、車から投げ出されないようにするだけだ。コウモリ傘を引っぺがし、刀をベルトに差すと、背中の銃嚢からネイヴィ・コルトを抜いた。割とこまめに手入れをし、きちんと油を差したその工業製品は信頼を裏切らないものだ。さっそく撃ってみろと言われた気がして撃ってみた。ちょうど、装甲車のハッチが開き、そこから暗殺者が飛びかかろうとしたのだが、弾丸が胸で弾けて、ぐるっと一まわりして頭から道路に落ちた。竹蒸気は人力車が川のように走る大通りへと合流した。すぐ装甲ガーニーも後を追ってきて、人力車が何台か弾き飛ばされ横転した。大通りは大混乱に陥って、ボルディーニ式辻蒸気が新聞の自動販売機械に突っ込み、自転車は急ブレーキをかけたせいで小さな後輪が持ち上がり、異人たちが顔から瀝青舗装の道路にぶつかった。乗合ガーニーが装甲ガーニーにもろにぶつかられ、乗客をばら撒きながらバタン式信号機を薙ぎ倒したため、交差点は地獄の釜もかくやの破滅的大混乱に襲われ、交通係の警官は蒸気乗合に危うく轢かれそこない、蒸気自動貨車の荷台から荷物の伝書鳩が何百羽と羽ばたいた。玉突き事故と鳩の糞を残し、竹蒸気は混乱を脱したが、追手は装甲板と強力な機関にものをいわせて、事故車を踏みつぶしながら追ってくる。
この窮地を脱するには何か新しい方法が必要だった。
竹蒸気は激しく車体を揺らしながら、異人街を目指した。泰宗の政治学によれば、独裁国家とは陰険であればあるほど英仏独米などの列強諸外国の干渉を嫌う。だから、異人が居住する街で派手な立ち振る舞いはできまいと踏んだのだ。事実、竹蒸気が洋館の並ぶ異人街へ走り込むと、暗殺部隊の蒸気ガーニーは急停止して、追跡をあきらめた。政治学というのは単なる座学で足踏みをしがちな学問だから、こうして外で実地に活かせる機会は少ない。泰宗は実用的な学問の徒らしく誇らしげに、悠々と車を駆った。扇と寿からそれ相応の尊敬の念を得てもおかしくないと思っていた。一方、扇はこれまで泰宗のことを煙草がきれると甘味切れの半次郎並みに落ち着きがなくなるケムリ呑みくらいに思っていた。が、こうして虎口を脱したのなら、相手が欲しがっている尊敬を与えることもやぶさかではない。
――が、それも最初に通り過ぎた洋館の窓から散弾銃をぶっ放されるまでのことだった。
異人たちには自分たちの居住区に許可なく入る人間を銃で撃つ権利が認められていた。だから、窓という窓が開いて、弾丸が飛んできても不思議ではないのだ。ちょうどプロシア人の歩兵連隊で盗みをした兵士が、二列になって鞭をもった仲間たちのあいだを鞭でぶん殴られながら歩かなければいけない刑罰があるが、竹蒸気が受けているのはまさにそうした仕打ちだった。行き過ぎた治外法権の弾丸は独裁国の暗殺部隊以上に竹の自動車を痛めつけた。もし、汽缶に一発命中すれば、水蒸気爆発で扇たちはくずれたシューマイみたいになる。シューマイになるか否かは泰宗のハンドルさばきにかかっていた。バッファローや灰色熊を一撃で倒すために設計された銃弾がか弱い竹をへし折り、一秒間に八発の割合で発射される機関騎兵銃の連射が煙突を穴だらけにした。
「出力が上がりません!」
「絶対に止まるな!」
「左! 左に曲がって!」
泰宗は右にハンドルを切ったが、それがよい選択だったのかは分からなかった。ただ、下り坂に入ったことで加速ができ、それで銃の狙いもつけにくくなるだろう。十九世紀的楽観主義の恩恵が三人と哀れな竹細工に舞い降りたかと思ったそのとき、坂の終わりの英国領事館の門が目の前に迫ってきていた。
熊の毛皮帽をかぶった赤い軍服の兵士が弾の入っていない銃をふりまわして、止まれと英語で叫んだが、次の瞬間には竹蒸気は晩餐会の長いテーブルの上を走っていた。ローストビーフや葡萄酒を蹴散らし、煙突で水晶のシャンデリアを引っかけ、テーブルクロスと大英帝国の矜持にぬぐいがたい油じみた車輪痕を残し、皮肉好きなフランス人外交官の「助かった! これでイギリス料理を食べずに済んだ!」という、この追跡劇始まって以来初めての称賛を浴びた竹蒸気はそのまま屋敷裏手のテラスへとガラス窓を割って飛び出した。そのテラスは〈谷〉に向いて立てられたテラスであり、その下は崖だった。竹蒸気はムガル建築風の欄干を飛び越えた。崖はほとんど垂直で凹凸が竹蒸気の車体に致命的な震動を連続して与え続け、竹材や機関の部品が次々ともげていった。汽罐は後輪と一緒にどこかに飛んでいき爆音を鳴らした。気づくと、寿も泰宗もどこかに飛んでいってしまったらしくハンドルは扇の手に握られていた。竹蒸気の最後の残骸が何かの出っ張りにぶつかると、扇はハンドルを握ったまま、頭上に〈谷〉の煤けた灯を見て、頭から落ちるのはまずいと体をひねった。
それから先のことは何一つ覚えていない。




