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廓雲と扇の剣士  作者: 実茂 譲
第四話 そっけない扇と大阪の恋
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四の十一

 その岩窟寺院が造られたのは天正八年以降のことだと言う。

 一向一揆で織田信長を苦しめた石山本願寺が十年がかりの戦いの末、信長に降伏した年だ。

 このとき降伏を拒んであくまで戦うことを選んだ信徒たちが摂津と和泉の境の山奥へ隠れ住んだのが始まりで、そのうち彼らは浄土真宗の教義から外れた秘密の儀式を行うようになり出し、江戸時代になってキリシタンとともに邪宗とされた。

 弾圧が厳しくなり、信徒たちはますます山に篭り、世間との接触を断った。自給自足は困難で、おそらく何かの疫病が流行ったのだろう、隠れ念仏の宗徒たちは全滅して、岩窟寺院は誰にも知られぬままのがらんどうとなり、それを今度は失脚した武士たちが利用するようになり、今に至っている。

 扇は筒袖の上に赤銅色の長手甲をつけ、裏に鎖を編みこんだ袖なし羽織で胴を守り、裁着袴を穿く旅装姿に着替えた。目当ての岩窟寺院があるという谷を目指して街道を西へ走った。一定の速さで走ればよいので、大夜の大阪食い歩きの後を追うよりもずっと楽に、息を乱さず走ることができる。途中で立ち寄った宿場町ではすでに反乱鎮圧の報が知らされて、大きな動揺もない。大阪の賑わいは街道や鉄道、電信柱を介して小さな町に染み込んでいるらしく、反乱勃発の報に触れて、急遽結成された自警団や志願兵部隊がろくに戦いもしないまま祝杯を挙げていた。

 セッツ国も大阪を離れれば、緑が目立つようになり、水から煤っぽい塵芥の臭いが消えていく。分厚い樹の幕に刺し込むような清水のきらめきやそよ風になぶられた森のざわめきが次第に人家を圧倒し始めて、産業革命の恩恵を受けることなく茅葺きを頭に戴きながら暮らす素朴な村落に出くわすようになった。村で唯一の瓦葺の屋は郵便局であり、週に一度、緑の車体に安っぽい模造金箔が〈郵便〉と貼りつけられた。蒸気郵便車がやってきて、手紙を十数通ほど落としていく。これがこの村人が見ることのできる唯一の蒸気機関だった。

 そうした村落の道を西へ取ると、そのうち森に入って、道は熊笹に飲まれて消えてしまう。残党の数は三十か四十ときいていたが、さすがに一塊になって隠れ家へ逃げはしなかったらしい。もし、そうしていれば、道に熊でも通ったような獣道のような足跡を残すことになる。

 ただ、こちらはすでに岩窟寺院への道順を吐かせている。符号が刻まれた岩や苔を貼りつけた網代で隠した秘密のくぐり道、地下水の流れる音が奇妙に反響する切り株の洞といった目印をきちんと追っていくと、土地が鋭い切れ込みを見せ、崖が谷底のか細い白流へと落ちていた。

 深さ三十丈はある谷の岩壁には巨大だが風雨にさらされてのっぺりと彫りが取れた阿弥陀如来像がめり込むように刻まれている。谷自体は決して小さなものではないが、谷の左右に生える樹々が樹冠を重ねて、うまい具合に谷を閉じこめていた。これなら空から見ただけでは谷があることなど到底分からないだろう。

 岩壁に刻まれた階段を降りて、岩窟寺院のなかへ入ると、外からでは分からないほどの広大な洞窟が広がっていた。岩を削ってつくった回廊がいくつも重なり、天井の岩盤のいくつかには裂け目が生じていて、陽の光すら差し込んでいた。武神党の侍たちは暗闇を恐れているのか、道の脇や壁龕の仏像の前に寸胴な獣脂蝋燭が集まって火を揺らしていて、ガラス製の洋灯も通路や部屋の支柱にかけてある。

 ざっと見た感じでは牢屋の数には閉口させられた。竹で作ったものを天井から紐で吊るしたり、岩をうがって格子をはめこんだりした牢屋ががらんとした空間に何十とある。その牢屋のほとんどにはボロ切れが絡みついた白骨の骸が転がっている。隠れ念仏もヤマトの機関と同じで脱走者の対策に相当な労力を払っていたようだ。

「嫌なものを思い出させてくれる」

 扇はつぶやくと、見える範囲に生きた人間が閉じ込められた牢屋がないか、目を凝らした。力なく銃を担い、岩壁の回廊を見回る侍たちがうろうろしているのは見つかるが、大夜の姿は見えない。

「まだ生きていればいいが――」

 そうつぶやく扇の顔に憂いが差していた。

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