四の八
阪麗館というのは諸外国の貴顕紳士を応対するためにセッツ政府が建築した洋館で青銅屋根に金箔造りの鶴などをのせている。籬堂がすっぽり入ってしまうほど広い舞踏場の天井には五つのシャンデリアが下がり、舞踏場に通じる三つの出入り口の上は大きく窪んでいて楽士たちがそこで二十人ほどお互いの肘や弓がぶつかることを気にせずにのびのびと楽器を弾くことができた。
音楽はその三つの窪み部屋から舞踏場へ流れ落ち、百組近い出席者たちが燕尾服とドレスをまとって、いつ終わるとも知れぬワルツを踊っていた。踊るには太りすぎたり、歳を食いすぎたり、幼すぎたりしたもの、踊りの相手を異人にとられたりしたものはみな壁のそばの席で葡萄酒なりシロップなりを舐めていた。
同じ宴でも用心番宴会とはずいぶん違う。
大夜はあの気楽でくだけた宴会を思い出していた。
「あの――」と夜会服姿の実篤が心配そうにたずねる。「気分が優れないようですが、――やはり、ご迷惑でしたか?」
「は? いや、ぜんぜん。平気平気」
と、空元気をしてみせる。毛唐の考えた拷問具に負けるようじゃ白寿楼の大夜姐御の名がすたる。
「こんなんで参ってるようじゃ、まだまだよ――げふ」
「どこかに座れる場所を探します」
「いや、この場合、座ったほうがきつい。むしろ動き続けたほうがまだ凌げる」
「それでは――」実篤は大夜の手をとって、軽く頭を下げた。「ぼくと一曲踊っていただけませんか?」
「は?」
大夜は舞踏場の中心で男女一組になってくるくるまわる連中を見て、
「あれをあたしにやれっての?」
「だめですか?」
「だ、だって、あんなの踊ったことないし。踊りなんて阿波踊りくらいしか知らないんだぜ?」
「大丈夫です。ぼくがリードしますから」
実篤は手をとって、大夜はワルツの渦のなかへと導いた。大夜はぜってえに無理だと言っていたが、本人にとって意外なことに、最初の二歩をとちって実篤のつま先を踏んだだけで、あとは見よう見真似でなんとかダンスの格好がついてしまった。
「うまいですよ。本当に今日が初めてですか?」
「これでいっぱいいっぱいだ。でも、まあ、動きの呼吸さえ分かれば、棒術の足運びの応用で何とかなる。それにしても腹が減ったなあ」
「昼間、あれだけ食べたのに?」
「こちとら、万年成長期なんでね」
踊る二人の姿を大阪社交界の紳士淑女がひそひそと噂していた。趣味らしい趣味も持たず事業一辺倒で商売に打ち込んでいた実篤が阪麗館にやってくること自体珍しいのに、さらに女性を同伴してきた。まさか遊廓の女用心棒だと思わず、人々は相手が何者か想像をふくらませた――あれはヤマシロ国の堂上華族の娘に違いない、清国の西洋かぶれた皇族の姫君ではないか、いやきっとどこかの女大名に違いない――。
想像がどんどんふくらみ、ふくらみきった瞬間、
パン!
と、音がした。
ふくらんだ想像が破裂したのか、それとも誰かがシャンペンを開けたのか?
止まらない音楽とダンスの渦中で真っ赤な軍服を着た赤髭の異人がぴたりと足を止めた。その毛むくじゃらの手が相手の女性の体から離れると、異人は青い眼を大きく見開き、まるで自分の魂が空に昇っていくのをつかんで元の体に戻そうとするように弱々しく手をふりまわしながら、仰向けに倒れた。
異人の胸の勲章とメダルのあいだに銃弾がめり込んでできた穴が一筋の煙を引いていた。
絹を裂くような叫び声が上がり、楽士たちの音楽が途切れた瞬間、一斉射撃の銃弾が窓という窓を破り、舞踏場で右往左往する人々をバタバタと薙ぎ倒した。
大夜は間一髪で実篤を押し倒し、そのまま頭を低く押さえつけた。銃弾は二人の真上を飛びすぎていく。
大夜は身を低くしながら、舞踏場のほうへふりむいた。阿鼻叫喚とはまさにこのことで、数人の紳士とドレス姿の女性、それに給仕二人がぴくりともせず、嵌め木板の床の上に倒れている。まだ息のあるものも鉛むき出しの弾丸で手や足が皮一枚でつながっているような状態だった。
また一斉射撃の音がなり、胸を撃たれた楽士が階上席から舞踏場に落ちてきた。そのすぐ後にシャンデリアが落下してきて、テーブルが下敷きになった。
悲鳴と混乱。飛んでくる銃弾から逃れようとする人々が右へ左へ走る。
大夜は咄嗟にそばのテーブルクロスを引っぱった。葡萄酒の瓶やグラス、小海老のクリーム料理の皿がけたたましい音を立てて落ちてきたが、その音も銃声と悲鳴にかき消される。大夜は落ちてきたクロスのなかから、銀のフォークとナイフをかき集めた。
実篤が頭を上げて、まわりを見ようとしたので、大夜は耳元で、頭を上げるな、と大声で怒鳴った。
銃撃がおさまり、賊がすっかり弾丸に削られた窓枠を越えて入ってきた。侍らしい賊たちはてんでバラバラの装いで左肩に〈武〉の合印札をつけて白刃を閃かせながら、「天誅!」と叫び、燕尾服やドレスを着た人々に手当たり次第に斬りかかった。
身をかがめた大夜のすぐ前で、背にエンピール銃を負った紺絣の侍が踏ん張って大刀を上段にふりかぶっていた。
大夜は悲鳴を上げたり、逃げようと背を向けるかわりにがら空きの相手の懐に飛び込んで、銀製のフォークを頸に深々と突き刺し、さらにひねって、トドメをねじ込んだ。
西洋かぶれのドレス女が反撃に出ると思わなかった紺絣は信じられないものを見たように目を見開いたまま、仰向けに倒れた。その背が床につくころには紺絣の刀は大夜の手に握られていた。
とにかくここから脱出しねえと。
焦りつつも冷静になろうと呼吸を制した大夜は空いた手で実篤の腕を取ると、そのまま舞踏場を出ようと厨房の扉を目指して走り出した。尖笠にマンテル羽織の侍が剣つき鉄砲で行く手を遮るが、その切っ先は簡単に叩き落され、額に冠打ちの一撃を食らって、絶命する。
「ちっ、なまくらが」
帽子が折れた刀を捨て、死体の手からもぎ取ったヤタガン銃剣をつけたエンピール銃に持ち変える。敵の銃弾がかすめて、左から切り込もうとした侍の肩を砕いた。
「同士討ちになるぞ、銃は使うな!」
襲撃隊の長らしい鬚を生やした年嵩の侍が叫ぶ。そのあいだにも大夜に襲いかかった侍が一人、横殴りにした銃床で顎を砕かれて、折れた歯を吐きながら昏倒した。
ドレスが破けるのも構わず、仁王のように暴れまわる大夜を囲い討ちにしようとするが、大夜は包囲の鎖の一番弱い部分へ突破を仕掛ける。
「うわ、わ、わあ」
大夜の気迫に脅えた侍が顔、首、胸に立て続けに突きを食らい、血しぶきを上げて斃れると、大夜はまた実篤の腕をつかんで、走り逃げようとする。
野太刀をふるって追いつこうとする大兵の侍が腿を刺し貫かれて転倒し、メリヤスシャツに袴姿の侍の胸へ銃剣を突き通す。引き金を引いて銃の反動で銃剣を抜くと、大夜は実篤を厨房の扉へ突き飛ばした。
雑魚を相手にしてちゃあ、キリがない。
大夜は、囲め、囲め、と指示を飛ばす年嵩の侍のほうをキッと睨んだ。四十ほどのフロックコートに山高帽、剣吊りベルトを右肩から斜めにかけ下ろしている。
大夜の尋常ではない睨みと目が合うと、一瞬だが年嵩の侍がひるみに似たものを顔に走らせた。
大夜は屋島合戦の那須与一よろしく剣つき鉄砲を放った。七間の距離を跳んだヤタガン銃剣の切っ先が年嵩の侍の顎のすぐ下を見事に貫くと、ギャッと蛙を踏みつけたような声が上がり、年嵩の侍は剣つき鉄砲を刺したまま、仰向けに引っくり返った。
「あっ、藤林先生!」
侍たちが動揺しているあいだに骸から脇差を拾い上げた大夜は厨房に飛び込み、扉を閉めて錠をかけた。殺到した侍たちが激しく扉を叩く。大夜は実篤に手短に言う。
「あたしが防ぐから、そのあいだに窓から逃げろ。窓から出たら振り返らず、外まで走れ。いいな!」
「そんなことできません!」
「いいから聞け。うちンとこの用心番が一人、おそらく外にいるはずだ。そいつはあんたの顔を知ってるから、そいつと一緒に安全な場所へ逃げろ」
「ぼくも戦います」
大夜はいつの間にか実篤が握っていた包丁に苦笑いを浮かべる。
「刺身包丁で侍とやり合うってか?」
侍は扉を叩き斬りつけながら、わああ、藤林先生の仇だ、と甲高い声を上げている。
大夜は実篤の手から刺身包丁をもぎ取って、脇差と三尺帯、そしてどさくさに紛れて剥ぎ取った〈武〉の合札を実篤に押しつけた。
「これでやつらにまぎれこんで逃げろ」
「できません。彼らは間違いなく武神党の輩です。そして、ぼくはこの反乱を鎮圧する義務があるんです。だから、ぼくもここで戦います」
「そういうのを匹夫の雄っつうんだ。あんたは大将なんだから大将のできることをやれ。それに義務の話なら、あんたは白寿楼の客であたしは用心番。あたしにはあんたを守って無事ここから逃がす義務がある。だから、逃げろ。それとも惚れた女の言うことがきけないってのかい?」
実篤はぐっと拳を握り、息を詰まらせたが、すぐに、
「必ず助けに参ります」
「おう、頼りにしてるぜ。死なない程度に頑張れよ」
〈武〉の合札をつけた実篤が窓から外へ飛び出したと同時に厨房の扉が鎚で破られた。
大夜は逆手に持った刺身包丁一本で厨房に雪崩れ込む侍たちを迎え撃った。




