四の七
大夜を前にした実篤の微笑は控え目だが、その顔には心情がもろに出ていた。顔は耳まで赤く、声も最初の一言が少し上ずっていた。身につけているのは薄茶に折り返しは焦げ茶のフロックコートに萌黄のクラヴァットを結んでいて、つばが反った中折れ帽と銀の握りのステッキを手にしている。天原で見たときよりもこなれた服を着ていたが、それも男女の機微に通じている友人に着るものを見繕ってもらったからだった。
実篤も大夜に負けず劣らず初心だった。二十三で大阪の政商になるということは、少年時代も青年時代も全て商いにつぎ込むということであり、すると、女性を連れての行楽に着てゆく服の見立てすらできなくなるのだ。
「本当に来てもらえるなんて夢のようです」
「ま、約束は約束だから。今日一日だけだぞ」
「ええ。わかっていますよ」
大夜と実篤の大阪遊覧ははやいところが食べ歩きだった。
天神橋の蛸安で関東煮をはふはふとやり、順慶町境筋の天狗汁で汗をかき、画馬堂で冷たいところてんをすすり、難波別院の穴門で買ったスイカをかじって涼を取る。豊国社を見物したかと思ったら、難波橋の下の屋形船から鰻を焼く匂いがして、そこでまたひつまぶしを三杯さらさらといただき、六丁目の構えが立派な西洋鶏舗ではチキンステーキを箸でひょいとやって、振り売りが飴粽を売っていたのでそれを買うと、瞬きする間に五つの粽が大夜の胃袋へと消えていった。奴蕎麦と銘打った蕎麦屋では黒漆塗りの小桶に浮く熱い蕎麦がきを箸で千切っておろし生姜をといたつゆにつけ、師範学校隣の立ち食い屋では教員に混じって天ぷらうどんのさいまきの天ぷらをさくりとやり、地蔵坂ではまたスイカを買い求めた。戎橋の川魚屋でヒレにたっぷり塩を擦り込んだ鮎の塩焼きの肝の苦さに口を結び、横根では脂の乗ったはまちの握りをひょいひょいつまみ、そして東堀の店でまた蛸を食べた。
大夜は食い気が色気を叩き殺してくれるだろうと思っていたが、実篤は大夜が食べれば食べるほど、まるで自分まで満腹になったかのように嬉しそうな顔をした。普通、男は大食いの女を嫌うものである。
それに背丈にしてもそうだ。大夜は女人にしては背は高いほうで、目線は実篤とほぼ同じ位置にある。小さなことだが、当世、男は自分よりも背の低い女を好むものだ。それにかよわいのを好む傾向もある。ところが、体力では大夜が圧勝している。大夜は大阪じゅうのうまいものを食べるべく、大夜は上をたすき掛けにして、走り回った。実篤も最初のうちはそれについていこうと頑張っていたが、ついに疲れて俥を雇った。だが、蒸気脚絆を履いた人力車の俥夫ですら、大夜の健脚についていくのは大変らしく、もう三台も俥を変えている。
もちろん、その後ろで二人の跡をつけている扇は走り疲れて、息も絶え絶えである。十里を駆けても息の上がらない体力と整息術を会得している扇でも大夜の足の速さについていくのは難しかった。しかも、あれだけものを腹に入れて、あんなに走れば、腹部に錐が揉みこまれるような痛みを覚えるものだが、大夜は平気の平左で走っている。
一方、当の大夜は食っても食っても、満足そうな顔を崩さない実篤に首をかしげていた。
へんな野郎だなあ。
大夜はもうこうなったら行くところまで行ってやろうと、さらに番場でどじょう汁を、門前町で蛤汁を、九丁目で焼き葱の味噌汁をすすり、備後町の鯛政では鯛めし、本町橋の切魚店では鯛の鮨、八百源では鯛田楽といった変わり種に舌鼓を打ち、これは天原でやっても流行ると思いつつ、その箸は既に当世軒の牛鍋に伸びている。南本町の夢浮橋で鴨せいろを、久太郎町栴檀木橋筋の西洋料理店で豚のカツレツを、心斎橋のたもとにある辻洋食では一銭洋食と呼ばれる小麦粉を水と卵でといて、キャベツの千切りを混ぜて、鉄板に薄く伸ばした焼いたものを食べ、最後に一杯三銭五厘の氷蜜柑を掻き込んでこめかみの痛みにきつく目を閉じたところで、ようやく人心地ついたようで茶屋に寄り、緋毛氈を敷いた縁台に腰を下ろすと、冷たいお茶で喉を潤した。
「ふー、うまかった」
「本当によく食べましたね」
大夜は実篤の顔を見る。顔つきはおめでたいほど善良。どうやら皮肉で言ったつもりはないらしい。
大夜は茶碗の茶を飲み干すと、はーっ、と長く息を吐き、
「わっかんねえなあ」
と、三つ編みにした髪の根元を掻いた。
「わからないといいますと?」
「自分でいうのもなんだけどさ、あたしなんて、がさつだし、口より先に手が出るし、食い意地張ってるし、女としての色気っつうか、魅力っつうものがないと思うんよ」
「そうですね」
「そこで、そうですね、って言うか? そんなことないですよ、って言うだろ、普通」
「すいません。じゃあ、もう一度最初からお願いします」
「いいよ。とにかくさ、あんた、どうしてあたしなんかに惚れたわけ? あ、あれか。死んだ母によく似ているんです、って口?」
「いえ、母はまだ生きていますし、とても大人しい人です」
「ますます分かんないなあ」
「ぼくは女性に惚れたというよりは、大夜さんに惚れたのです。しいて言うなら、大夜さんはこの大阪に似ています」
「大阪に似てる?」
「元気で、賑やかで、騒がしくて、無限の可能性を持っています。ぼくはこの町が好きです。生まれたのもここですし、育ったのもここです。この町をもっと発展させて、いずれは商いを通じて、日本全土を同じように賑やかな町だらけにする。ぼくの目標です」
「また、ずいぶん大きな目標だねえ」
そして、大将好みだ、と大夜は思う。
「あたしもさ、一応、遊廓に暮らしてるから、女が花や蝶に例えられるのは聞いたことはあるけど、町に例えられるのは初めて聞いたよ」
「怒りましたか?」
「さあ、どうだろうねえ」
大夜は少しずるっぽく口の端を上向けた。
実篤が自分と重ねた大阪の町をゆっくりと眺めて、思い出してもみる。
大阪府庁や証券取引所、商工会議所は英国の金融街に見間違うかのごとき厳めしい洋風建築が居並ぶ大通りには赤い車体の路面電車が走っている。港は汽船が連なっていて、入国管理局の汽艇が淀川河口のあちこちを走り回っている。辻蒸気も盛況であちこちに車馭者を相手に商売する飯屋や機械屋がある。その一方で昔ながらの水路や掘割もまた大阪に住む人の暮らしと密接に関わっている。荷揚げ場が川や水路沿いにあるので、雑喉場の魚市や天満市場を初めとした大小の市はみな水のそばに立つ。道頓堀の橋角の石垣の上では芝居小屋や噺し家の寄席が集まっていて、青、赤、黄色の幟を立つ軒灯の下では役者や演目について一家言を持つ連中が熱心に贔屓の役者を推したり、大根をけなしくさったりしている。
そう悪い気はしないな。
本人に言ってやるつもりはないけれど。
太陽は海の向こうへ沈もうとしていた。薄暗い町の闇を払うようにガス灯が点り出して、水路沿いや橋の筋に夜店が出始めている。水路の上にかかった橋に提灯や手提げカンテラの灯が行き来するのが見えた。
あちこちの商店から仕事を終えた勤め人たちが現われて帰路を急いだり、同輩同士で居酒屋へ繰り出していた。梅田ステンションから空へゆく飛行船が数隻見えた。ひょっとすると、天原へ行くのかもしれなかった。
「今日一日の最後の締めくくりに付き合っていただきたいのですが、よろしいですか?」
「よろしいも何も、こっちはそう約束しちまったんだから、ハイって答えるしかない」
イイエと断れば良かった。大夜は後悔したが、そのころにはコルセットで体をおからを絞るようにぎゅうぎゅうにやられて、馬の尻みたいに後ろが出っ張ったスカートを穿いて、阪麗館の舞踏場に立っていた。




