四の六
原則というものはあくまで原則であって、それは例外や特例という形で引っちゃぶけることがある。しかし、一度、引っちゃぶけると際限なく引っちゃぶけることは全ての原則に共通しているので、人はあくまで原則を守ろうとする。
八月十一日の朝、原則は破られた。
廓の遊女が見世の外に出て、引手茶屋や貸座敷などの別の場所へ客に呼ばれることは俗に「花魁道中」と呼ばれる。産業革命の当世では湯気若衆と呼ばれる蒸気人形に長柄の傘と箱提灯を持たせ、禿や新造、遣手を連れて、大名行列のごとくぞろぞろ歩くのだが、その際、花魁は目いっぱい自分を飾り立てる。「花魁道中」は晴れの舞台であり、そして、転んだり、着物を破いたりしたら、笑いものにされる。
花魁道中は花魁にとって命のかかった道中なのだ。
これが原則であり、それが八月十一日に破られたわけだった。
大夜は遊女ではないが、それでも白寿楼という妓楼から客に呼ばれて遊覧のために外出をするのだから、広い範囲で捉えれば、その外出は花魁道中の変種とされてもおかしくはない。
ただ、普通の道中はその身をきらきらと飾るのに、大夜はふくれっ面をして、いつものように髪を一本に編んで垂らし、苔色の小袖に裁着袴、黒の脚絆に赤の手甲、摂州住人俊重作の脇差一尺六寸を落とし差しにしている。
見世の入口、下駄箱の前に虎兵衛と扇がいる。虎兵衛は見送りであり、扇は大夜とともに大阪へ行き、大夜と実篤をさりげなく監視する役目を負っている。大夜は遊女ではないから、男女の一線を越えることはたとえセッツの大商人でも許されない、旗色がおかしくなったら、すぐに扇が援護に駆けつける――というのは、虎兵衛が大夜に説明した建前であり、本音は大夜がイギリス語でいうところの「でーと」とやらをすると、どんなふうになるのか、後で詳しく聞くためである。そもそも、実篤は床を急ぐような生野暮には見えないし、ただ大夜との時間を楽しみたいだけなのは虎兵衛もよく理解している。第一、相手が妙な気を起こせば、大夜は自分で対処できる。大阪はあちこちに水路が走っているので、放り落とす水場に困ることはないだろう。
「大将ぉ」大夜がジトッとした目を虎兵衛へ向けた。「恨むよ、大将。こんなマヌケたことになっちまって」
「だが、飲み比べを言い出したのはおれじゃない、お前さんだろう?」
図星をつかれ、うぐっ、と大夜は呻る。
「まあ、一日、大阪で羽根を伸ばすつもりで楽しんでこい。大阪は、まあ空気は少し悪いかもしれんが、うまいものはいろいろあると評判だ」
大夜は扇を見た。白いシャツに黒い吊りズボン姿、袖口や腰の後ろ、長靴の内側に棒手裏剣を隠しているが、刀だけは青の飾り帯差しにしている。
「あたし、あんたがついてくるのが、どうも分からないんだよねえ」
扇は黙って肩をすくめた。
見世の門口を出る際、妓夫太郎の権蔵がいつも遊女にやっているように「いってらっしゃいまし」と声をかけ、大夜のうなじに切り火をした。
「へーい、いってきます」
大夜は扇を連れて見世を出て、仲町を左へ曲がった。八月の陽光にまぶされた桜の花の眩さに目を細める。
この道中では供をするのは扇のみである。朝の静かな妓楼からぼちぼち帰る客が出始めて、遊女がしなをつくって未練がましく引き止める、一連の儀式が左右で行われていた。
惣門を出て、屋台堤のほうへ道を取ると、やはり帰る客に付き添う唐織姿の遊女たちの群れに出くわした。吉原では遊女の見送りは大門までと決まっているが、天原では飛行場発着場までと決まっている。
屋台のない屋台堤はいつもより広く見えた。柳の木立、小池と稲荷社、俥夫たちが寄り集まって住む家の集まり、温度計や湿度計を入れた白い百葉箱など普段は目につかないものがよく見える。
飛行場に向って左には天原白神神社の建築現場がある。参道の石ははめ終わり、石灯籠が並んでいる。青銅屋根の手水舎もほとんどできていて、拝殿ももう土台は完成していた。
「ったく、参っちまうよなあ」大夜は懐手に歩きながら、どうしたもんか、どうしたもんかとこぼしている。「男と遊びに行くなんて、いったい何をどうしたらいいんだよ?」
「それをおれにきくか?」
「そうだよなあ。分かるわけねえよなあ」
「あんたが自分で決めた勝負だ。しょうがない」
「あんなのに飲み比べで負けるなんて末代までの恥だよ、ほんと」
「あと一杯飲めば、おそらくあんたの勝ちだった」
「ほんと、ギリギリの戦いだったんだよ。飲めば飲むほど飯が食いたくなるけど、食ったら酒が胃袋に入らないときてる。我慢するのがつらかった」
「その分、今日、好きなだけ食べればいい。どうせ、費用は相手が持つんだろ?」
「まあ、そうだけど。でも、至れり尽くせりってのも、あたしには結びつかない言葉だよねえ」
「そんなふうに悩むなんて、あんたらしくないな」
「あたしも自分でそう思う。あのヒョーロク玉のこと考えると、調子が狂うんだよ。そういうこと、あんたもない?」
扇は顎に曲げた人差し指を寄せて、少し考えてから、
「ある」
と、答えた。
「相手は大将だろ?」
「それだけじゃない。すずとか、久助とか、火薬中毒者とか、いろいろいるんだ」
「りんは?」
「りん? そうだな……相手をしていて調子が狂うことはないな。静かに過ごせる」
それを聞くと、大夜は急にニヤニヤし出して、
「へえ」
「なんだ?」
「へええ」
「?」
飛行船発着場には定期の客船や郵便飛行船の他に、旦那衆が個人で所有している船もある。そのなかでも一際目立ったのは六代実篤所有の飛行船〈浪花風〉だった。長さ四十間はあるであろう薄緑の気嚢から左右に翼が生え、二機のプロペラ機関が据えられている。気嚢の前方は切り落とした後にくっつけたようなガラス張りでそこが乗客のための室となり、寝室や食堂のほかに実篤が移動しながら仕事をするためにつくった書斎がある。お仕着せを着た給仕や女中たちが紅茶ポットやはたきを手に蒸気昇降機で忙しそうに移動しているのが見えた。
乗客室の上には操縦室があり、フロックコートに西洋短剣を下げた船長や水兵服を着た船員たちがそれぞれの配置――西洋船風の舵輪や温度・風速を正確に測る計器、胡桃材の握りがついたレバーを動かすだけで機関室に命令を伝えることができる速力令達器の前について、いつでも出発できるよう控えていた。
大夜と扇はそこで分かれることとなった。扇が尾行をするのは念のためということになっていたから、彼は別の船で大阪に行くことになっている。
大夜は一人、この大伽藍のような飛行船と対峙することになったわけだったが、まもなく飛行船底部のゴンドラから折り畳み式の階段がカタカタ鳴りながら伸びてきて、黒いフロックコートを着た二人の男が早速やってきた。一人は白い制帽に短剣を下げた船長で、もう一人の初老の男は執事の清川と名乗った。
「このたびは、社長のわがままにお付き合いいただき大変――」
「いいから、いいから。はやく行こうぜ」
「そんなにはやくお会いになりたがっていると知れば、きっと社長も喜びましょう」
本当はその場にいると、まわりの遊客や遊女たちの視線が集まり、恥ずかしさで肌がちくちくしてきたからなのだが、大夜はもう説明も挨拶もすっ飛ばして、さっさと階段を上って、飛行船の内部へと入った。
ガラス張りの部分の一番上は操縦室になっていて、上から二番目は食堂兼広間、三番目の階層は書斎が一室、寝室が四室、そして一番下は厨房や掃除道具置き場、召使いたちの部屋など外から見えないようカーテンが引かれていた。
食堂兼広間は完全な洋風で、栗梅色の絨毯は踏めば深く沈み込むほどふかふかしていた。部屋を区切るのは障子や襖ではなく、樫をニスで仕上げたドアで、そのドアにも磨かれてピカピカになった真鍮の握りがついていた。食堂はちょうど巨大なガラスの舳先にあり、見上げれば空が青く、見下ろせば海が青い。そこに形のかっきりした雪山のような雲が船の左を通り過ぎたり、あるいは船が雲のなかに突っ込んだりした。雲から出ると、必ずガラス窓は水滴をつけているのだが、それも一瞬のことで船に当たる風があっという間に小さな水の粒をさらっていき、空を映す幾千の水滴が一度に消える。
――と、立勝った空の景色に目もくれずに背を向けて座った大夜は、滅多に食べられそうにないジャマンビーフやヲムレツといった洋食を給仕たちに注文してはそれらの料理を質屋の蔵のようにどんどん飲み込んでいった。大夜は〈浪花風〉号に乗って、四半刻も絶たないうちにちょっとした伝説をつくった。手の開いた船員や女中たちは大夜の驚異的な食欲を開きっぱなしのドアからこっそり見て、それを仕事場に戻り、その食の大なることを大いに語った。
「以上でよろしいでしょうか?」
タレまでパンでぬぐった皿やシチユ鍋が重なって塔をなしているのを見ながら、給仕がたずねた。
「ああ。もう、いいよ。今日はあまり食欲がねえんだ」
首を鳴らしながら、一面のガラス窓へ寄る。飛行船は瀬戸内海の上を飛んでいた。島と港を行き来する数百の船は紺色の海に白い航跡を残している。それぞれの船が売るか買うか運ぶかの目的を持って動くことで、瀬戸内海の貿易という緻密な織物が完成していた。
この島と港と船を散らした反物のような海の奥に大阪がある。空から見ると、薄く煤っぽい靄がかかっているが、周囲の鉄道や航路、それに飛行船がこの町に集中していて、天下の台所はなお健在といったところだった。寺の屋根が淀川沿いに並んでいるが、海に近いほうでは洋風建築が目立ち、赤煉瓦の学校、白い病院、裁判所の塔が見える。世に名高い造幣寮の煙突群や陸軍が駐屯している大阪城跡のそばには瓦屋根が集まっていて、その町は縦横に走る水路で区切られていた。
「あのヒョーロク玉がここの領袖を張ってるってんなら、まあ、大したもんだと認めないとな」
大夜は独り言で評した。彼女は相手の実力はきちんと推し量り、感服すべきものであれば、素直に感服する。
もちろん本人の前で言ったりはしないのだが。
〈浪花風〉は建物が隙間なく詰まった市街地を飛びぬけて、鉄道駅〈梅田ステンション〉の飛行船発着場へと降りていく。高度を下げていくと、発着場の赤や青の気嚢が徐々に大きくなり、鉄道駅から流れる煤煙が〈浪花風〉のゴンドラをかすめた。大阪人がその威信をかけて完成させたガラスと鋳鉄の宮殿〈梅田ステンション〉はのびのびと横たわっていて、改札の外では人力車や辻蒸気が警察からもらった営業鑑札を車のよく見えるところに貼りつけて、客を待っている。
〈浪花風〉が着陸し、折り畳み階段が伸びきった先には、まるで測ったように六代実篤が待っていた。




