四の四
「扇っ! いるんだろ、出て来い!」
やかましい声に邪魔された。
扇とりんが縁側へゆくと、声の主――大夜が浴衣一枚で大脇差を落とし差しにした姿でぷりぷりしながら、両手を腰に当てていた。
「うるさいぞ、今、鍛錬中だ」扇が迷惑そうに言った。「何のようだ?」
「何のようだ、じゃねえよ!」
大夜は顔を紅潮させて、かっかしていた。
「あいつ、まだ天原にいるじゃねえか!」
「あいつ? 誰のことを言っている?」
「あのヒョーロク玉! 実篤とかいうやつだよ!」
ああ。あいつか。
「それがどうかしたか?」
「どうかしたか、じゃねえよ! お前、きっちり断ったんじゃなかったのかよ!」
「ああ。断ったぞ」
「じゃあ、なんで、あいつが天原にいるんだよ?」
「おれが知るわけがない」
「お前、あんとき、きっちり追っ払うって――」
「いや、違う」扇が木刀を持っていないほうの手を上げて制する。「きっちり追っ払う、じゃなくて、きっちり断る、だ。だから、おれは言われたとおりにした」
あのときの扇の任務は大夜の気持ちを確かめた上で、返答を鏡屋の六代実篤に持っていくことだった。実篤を天原から追い払うことは命じられていない。もし、命じられていれば、きちんと遂行したが、命じられていないことは遂行する必要がない。それでこちらを責めるのはおかと違いというものだ。
大夜はりんが持ってきた竹筒入りの冷水をがぶ飲みしながら、扇を「頭がかたい」「融通が利かない」「ちょっと考えりゃすぐ分かるだろ」といろいろ言っている。
女がこういう状態に入ったらどうすればいいか。〈鉛〉だった時代なら斬っていただろうが、お登間婆さんを知っている扇はきちんとした対応策を知っている。
とりあえず、しゃべりたいだけしゃべらせて、落ち着いたところでこちらの言いたいことを言えばいい。それに相手に好きにしゃべらせるとそれなりに情報も集まるものだ。
現に今、大夜を見舞った問題の全貌が見えてきている。
六代実篤はどうやら扇の伝言を聞いた後、いったん遊廓を出て行ったらしい。ただし、それは遊廓がどんなに遅くとも翌朝の巳の刻、西洋時計でいうところの午前十時までには客が出て行かねばならないからだった。実篤はあれから宿を取るために万膳町へ行き、天原堤から三歩と離れていない貸座敷〈壷安〉に部屋を取り、もう一度、大夜と会うことを画策し、実際、つい今さっき、実篤が白寿楼に顔を見せに来たという。
大夜は何とか追い出そうと必死だが、相手は大阪随一の豪商であり、セッツ商業政府の若き実力者である。おまけに六代家の銀行が発行した預り証は畿内では英国ポンドよりも堅い紙幣として使われているほどなので、総籬株のうちの何人かは手荒い追っ払いに反対しているという。
「楼主はどう思っているんだ?」
扇の質問に、大夜は歯切れが悪くなる。
「大将は――ちぇっ、どうも面白がってる節がある」
「そうだと思った」
「他人事だと思ってんな、お前」
「事実、他人事だ」
「ちゃんときっちり言ったんだよな? あたしがどう思ってるか、あいつにきっちり言ったんだよな?」
「ああ、言ったぞ。あんたが、あほらしい、って言ったことも、くそつまらない冗談に付き合っていられない、って言ったことも、それにヒョーロク玉呼ばわりしたこともちゃんと伝えた」
「じゃあ、何で、あいつはまだ天原にいるんだよ!」
「さっきも言ったとおりだ。おれが知るわけない」
「あの、大夜さん――」
りんが恐る恐る手を上げた。
「これは前に姉から聞いた話なんですけど、男の人のなかにはけなされれば、けなされただけ恋してしまう人がいるらしいんです。ひょっとして、その方はそういう方なのでは?」
それを聞き、大夜はがっくりと頭を垂れた。おそらくどう対処していいのか分からないのだろう。これまで大夜は馬鹿な男たちに遭遇すると中庭の池に放り込むことで解決してきた。だが、実篤がりんの教えたとおりの男だとすれば、池に叩き込まれることは彼にとって、むしろご褒美なのだ。
すずや火薬中毒者、久助のせいでめちゃくちゃな目に遭ったときの自分もこんなふうに見えるのだろうと思いながら、扇は、
「そういえば、あんたがヒョーロク玉呼ばわりしていると教えたとき、どこか嬉しそうだった」
「お前、楽しそうだな」
「まあな」
「ん、待てよ。じゃあ、あたしが優しくしてやったら、逆にあきらめるってことか?」
「そこは普通に喜ぶんじゃないか?」
「だよなあ」
「それにあんたがあの男に優しくしたら、天原の男たちが向こう一ヶ月いい笑い話のネタにすると思う」
「……こりゃ、天原から離れて、ほとぼりを冷まさないといけないかな」
そうこぼして、懐に手をやり、手の平の小銭を数えた。
「うーん、逃亡資金が足りない」
大夜が横目でちらりと見てきたので、扇はぴしゃりと言った。
「おれは貸さないぞ」
「うちも、ちょっと――今月苦しいので……」
りんはぺこりと頭を下げた。大夜は、うーん、としきりに呻り、どうやってこの難局を切り抜けようか考えている。
そのうち、これはどうにもならないと思ったのだろう。
「やめた! 考えるのやめたっ!」
と、言って、今夜の用心番宴会のことだけを考えることにすると扇とりんを相手に厳かに宣言した。
「そういえば、そんなものがあったな」
扇が用心番宴会の話を聞いたのは、白寿楼の用心番になったその日であった。食い意地の大夜、うわばみの泰宗、甘味の半次郎らは天原の用心番が一番最初に知らねばならないことを教える、ともったいぶった態度で用心番宴会について説明した。
用心番宴会とは天原の治安を事実上守っている用心番たちが経師ヶ池の籬堂に集まって暮れ六ツから夜が明けるまで、大いに飲み、大いに食うという宴だった。見世で暴れる狼藉者やよその見世に馴染をつくった浮気者の成敗をまかされている用心番たちを見世の楼主たちが慰労するというもので、特別に籬堂を使うことを許し、費用は全部楼主持ち、酒は露雲から舶来のウイスキー、食べ物は屋台堤や万膳町から好みのものを取り寄せられるということで天原の用心番たちはその日が来るのを楽しみに生きている。この宴会、だいたい五ヶ月か半年に一度、開催されるのだが、その開催が八月七日と決まったのが、先月の終わり。扇がやってきてから初めて開催されることになったのだ。
「腹が縦に裂けるまで食ってやるぜ!」
と、言い残して、大夜はやってきたときと同じように騒々しく去っていった。
「この時期になると、姉さんは籬堂に忍び込もうとしてつまみ出されるんですよ」
りんは遠い目をして言った。その目線の先ではかげろうの揺らぐなかでどんどん遠ざかっていく大夜の浴衣がはためくのが見える。
そして、それとすれ違いにやってくるすずの姿が見えた。
「今日の稽古はこれまでか」
と、扇は柱によりかけてある、もう一本の木刀を手に取った。
「すいません。何だか無理に姉に付き合ってもらってるみたいで」
「あんたが気にする必要はないさ。それにあの二刀と立ち合うのも得るものは大きい。ただ――」
扇は苦笑した。
「もちろん、本人の前でそれを言うつもりはないけどな」
あはは、とりんが釣られて、ふわっと笑う。




