一の五
天原遊廓は三つの巨大な船を横にくっつけて並べた形をしている。中央に見世が集まり、そのまわりには遊廓に必要なもの――三つの飛行船乗り場、料理屋や貸座敷が集まった万膳町、酒屋、電信所、ガス工場、襖絵師や簪職人などが住む町、使用人たちの住む町、機械工たちが住む町、芸妓たちが住む町がある。
これら全てに加えて住人一万を乗せた天原遊廓は巨大な蒸気機関の力で空を飛んでいる。巨大な回転羽根が何百とまわり、それによって浮力を得ているのだ。
半次郎は三つある飛行船乗り場のうち、定期船がやってくる飛行場のほうへ〈鉛〉を連れて行った。定期船乗り場と中央の廓町をつなぐ道は屋台堤と呼ばれている。石畳が敷いてあり、両側は火のない提灯やランプを吊るした屋台が並ぶ。西の空は夕日で眩いが、東の空では雲の底に夜が染み始めていて、じきに灯も入るのだろう。田楽や天ぷら、にぎり寿司、みたらし団子、大福もちに草餅、粗糖蜜を塗った食パンなど空いた小腹を満たすのに軽くつまめる店と土産用の箱鮨や巻き鮨、鰻飯、壜詰めの金平糖やきんつばを売る店がある。
ちょっとした縁日の態を成していた。道は飛行場のすぐそばで終わり、そこには蒸気脚絆をつけた人力車の俥夫たちが何十人といて、数人ごとに車座でかたまっている。
「まだ夕暮れも始まったばかりだからな」半次郎は、俥夫たちがちんちろりんにうつつを抜かしているのを見ながら言った。「暮れ六つを打った途端、客がやってくる。そうなると、メシどころじゃなくなるから、今のうちに食っておこう」
半次郎は〈鉛〉を促し、道を戻った。
「さて、何がいいかな」
とひとりごちながら、ゆっくり歩く半次郎の後ろで〈鉛〉は戸惑いを感じた。
わからない。
〈鉛〉にはさっぱり分からない。
この男はさっき殺し合った男なのか?
ついさっき真剣で殺し合いをした相手に、この男はやすやすと背中を見せ、何を食おうかと思案している。
あの中庭の廊下での殺し合いは夢だったのだろうか。
そうでなければ説明がつかない。
この場所は異常だ。
あの〈的〉といい、この男といい、普通とは違う。
普通?
じゃあ、おれの普通とは何だろう?
そんなことを考えていると、突然、半次郎がぐるっと〈鉛〉のほうを向き、
「お前、汁粉は好きか?」
「しるこ?」
「そうだ。汁粉だ」
「なんだ、しるこって?」
「ちょっと待て。お前、まさか汁粉を食ったことがないなんていう気じゃないだろうな」
「食べたことはない」
「ああ、あれか。汁粉のことをぜんざいって呼ぶ口か?」
「ぜんざい?」
「お前、ぜんざいも分からないのか?」
「ああ」
半次郎は呆気に取られた顔をしたが、それは〈的〉が〈鉛〉を生かすと決めたときよりも数段上の呆れっぷりだった。
「お前、これまで一体どんな暮らししてきたんだ?」半次郎は真剣な顔でたずね、ばちんと手を打った。「よし、決めた。汁粉だ。今日は汁粉を食いに行くぞ」
汁粉屋の屋台はちょうど道の中ほどにあった。向こう鉢巻をしめた汁粉屋の親爺は半次郎を見ると、今日も鍋かい?とたずねた。
「ああ、そうしてくれ。こっちの若いのには普通のを一杯でいい」
「見ない顔だな。新入りかい?」
「そんなところだ。親爺。嘘だと思うだろうがな、こいつは今まで汁粉を食ったことがなければ、見たこともない」
「汁粉を見たことがない? そいつは難儀なもんだ。蝉の幼虫みてえに土のなかで暮らしてたのかい、お若いの?」
「そんなわけで、親爺の汁粉でこれまでの人生をいかに損して生きてきたかを思い知らせてくれ」
「よし来た。特別にうまいのをこしらえてやる」
親爺が焼き台に四角い切り餅を十数個並べているあいだに半次郎のために新しい鍋を火にかけ、そこに皮をとった赤小豆と砂糖をどっさり入れて煮つめた。隣には普通の客用の普通の汁粉が煮立っていて、ごく普通の汁粉になっているが、半次郎の鍋は汁がどろどろになるまで砂糖が加えられた。
餅のほうはこんがり色がつき、ぷくぷくとふくらみ始めている。いい塩梅に焼けたところで餅を四つほど、小豆汁をたっぷり入れた椀に落とし、箸を据えて〈鉛〉の前に置いた。
「ほれ、食ってみねい」
親爺に促され、毒が入っている可能性があるにも関わらず、〈鉛〉は汁粉をすすった。
「どうだ?」
半次郎がたずねる。〈鉛〉は、
「甘い」
と、だけこたえた。
「そりゃ汁粉なんだから辛いわきゃねえ。それよりも、どうだ、うまいか?」
〈鉛〉はしばらくして躊躇いがちに小さくうなずいた。
半次郎が豪快に笑った。
「アッハッハ、そうだろう、あ? この世で一番うまいものはなんだってきかれたら、今度からここの汁粉だって答えるんだな。じゃあ、親爺。おれの分も頼む」
半次郎の前にはまず縄で編んだ大きな鍋敷きが、次に網の上の餅を全部どさりと落とした鍋が置かれた。串をさせば立つくらいに濃いどす黒の汁が余熱でぼこぼこと鈍い泡を立ててはのろくさと弾けさせている。このどろどろ汁を食べるのに渡されたのは箸ではなく、大きな木のさじで、半次郎は満面の笑みでいただきますというなり、その砂糖のどろどろしたものをすくって口に運んだ。
生まれて初めて汁粉を食べたばかりの〈鉛〉でも分かる。半次郎の汁粉は異常だ。
そのどろっとしたものを半次郎はひゃあ、うまいうまいと食べている。餅は一口でぱくり、そして、底の一番どろっとした汁をすくっては口に運んでばくりとやっている。
「ぶっちゃけた話――」と、半次郎はもぐもぐやりながら言った。「今日はやられたと思った」
一瞬何のことだか分からなかったが、〈鉛〉はすぐ二度目の襲撃の話をしているのだと覚った。
「でも、うちの親方はついてるんだな。何でも中庭の真ん中の亭がいつにも増してピカピカに磨かれてるのを見て、よく見ようと体が前へのめった。それでギリギリ頸が跳ばずに済んだってわけだ」
半次郎はさじで底のほうの汁をすくい上げながら、少し笑んで、
「お登間ばあさんにきいたら、あの亭を今日掃除したのはお前なんだってな」
〈鉛〉は最後のほうはもうきいていなかった。
おれは何をしているんだ?
〈的〉を仕留めるかわりに掃除などして、しかもそのせいで〈的〉を仕留め損なった。
何かが崩れていく気がした。
恥じ入る気持ちが湧いてきた。
おれは、馬鹿だ。
「〈せん〉だ」
半次郎が言った。
「え?」
〈鉛〉はゆっくり顔を向けた。
「そう辛気臭い顔をすんな。親方がお前にとりあえずの名前をつけた。それが〈せん〉だ」
「一体、何の話だ?」
「お前、まともな名前を持ってないんだってな。それじゃ不便だってことで、お前の名前を親方が考えた。扇と書いて、せんと読むそうだ。これから、せん、と呼ばれたらお前のことだと知っておけ」
「何の意味がある?」
「ん?」
「そんなことに何の意味がある?」
声に悔しさのようなものが滲んでいることに自分でも驚いていると、半次郎がさじを鍋に刺した。
「金偏に屯所の屯の字の鈍り。口にくっつく訛り。金物の鉛。どれも見世にゃあ持ち込めねえ」半次郎は餅を食って、ハフハフと冷ましてから言った。「廓にはな、廓言葉ってのがある。花魁たちもあっちこっちの国からやってくるから、お国の訛りも持ってくるんだが、こっちで廓言葉ってのを覚えさせてその訛りを取っちまうんだ。それとうちみたいな大見世はそれこそ腕や知恵が鈍っていちゃあ、つとまらねえ。だから、鈍りも禁物だ。そして、鉛だが、こいつは鉄砲玉の材料で、こいつが一番の悪党だ。ここじゃあ、戦争してる国同士のもんが顔を合わせても、知らんぷりするのが掟だ。浮世のゴタゴタは全部お国に置いてきて、精いっぱい楽しんでもらうのが、天原遊廓一番の役目だ。だから、お前の名前が扇になった。それより汁粉を楽しめ。冷めちまうぞ」
半次郎は一心不乱に鍋汁粉を掻き込み始めたので、〈鉛〉も自分の汁粉を食べた。
気のせいか、さっきほど甘くもなく、うまくもなくなった気がした。
そのとき暮れ六つの鐘が鳴った。
「おう、来やがった」
数十隻の飛行船が空に浮かんでいる。気嚢がフグに似ていたり、サンマやカジキマグロのようにほっそりとした快速飛行船もあり、二尾のサバ型気嚢に吊るされたゴンドラ船もあった。そして、その飛行船の頭や尻、左右に伸びた翼についてる何千というプロペラがまわっている。
「まったく洒落た影を夕空につけるもんじゃねえか」
半次郎が幾千のプロペラが残照を背にして回転するのを見ながら言った。
「あのプロペラがたくさんぐるぐるまわってるを見ると、まるでこれからお祭りが始まるような気になって、わくわくするんだよ。たぶん縁日の風車を思い出すんだな」
そのうちの何隻かがゆっくり高度を落とし飛行場へと着陸する。客が現われるや、まず俥夫たちが客を取りあい、妓楼に上る前に軽い腹ごしらえはいかがと屋台が声を張る。
「便利商いは屋台で売るよォ。天原の銘酒露雲をちょいと引っかけるなら一合二十文、がっつり飲むなら一升一九〇文から」
「旦那、俥はいかがで? 椅子はビロード張り、安くしときますぜ」
「料亭は万膳町、追松へおこしなせえ。なに、遠回りしても花魁は逃げやしません。うちのすっぽん鍋は精がつくこと天原一でございます」
人一人通っていなかった石畳の道に人の鉄砲水がやってくる。和装、洋装、髷を結ったもの、山高帽をかぶったもの、近隣の国から集まる粋客や馴染みのなかには廓遊びのイロハも知らぬ浅葱裏も混じっているし、目の青い異人の一団もいる。
芸妓、幇間がどこからともなく現れ、一朱金、二朱金の祝儀が飛び交い、お気に入りの芸者を半玉もろとも連れて料亭町や貸座敷町へと繰り出す通もいる。
だが、やはり人の波は中央の遊廓へと押し寄せている。今ごろ、大見世の並ぶ仲町では張見世に遊女たちが並び、仕出し料理屋が大風呂敷ほどの大きさのある膳を五つ重ねたものを頭に乗せて器用に歩き、小さな火の見櫓のような辻ガス灯や見世提灯に灯が入る。ぼんやり赤い光に包まれた遊廓へ人は流れつづけていった。