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廓雲と扇の剣士  作者: 実茂 譲
第四話 そっけない扇と大阪の恋
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四の三

 七月に時千穂道場に入門して以来、扇は毎日、朝餉を見世でとると、そのまま道場へ向かい、鍛錬をする。

 師範のりんと木刀で向かい合い、自分のなかの〈流れ〉を制するために心を鍛えるのだ。

 扇はここへは流術のために入門したつもりだった。だが、前日までなかった「時千穂道場御法度」なるものが出来上がり、名札かけの隣に額入りでかけられた。

 その御法度によると、


 一.流術のみの入門を禁ず


 と、ある。

 どうも、これは、流術以外の武術兵法を担当している師範代にして、りんの双子の姉すずの仕業らしく、どうしても自分も弟子が欲しくてしょうがなくての犯行らしかった。

 そこで扇は半ば強制されるように、これまで見世のカエシにある中庭で一人やってきた剣と手裏剣、体術の稽古を時千穂道場で行うことになった。

 これが七月半ば、扇が時千穂道場に入門してから二日目のことである。

 そして、その後も「時千穂道場御法度」は順調に増え続けた。


 二.師範代の万膳町参りにケチをつけることを禁ず

 三.師範代よりも速く走ることを禁ず

 四.師範代よりも高く跳ぶことを禁ず

 五.道場のくすのきを使った懸垂運動を禁ず

 六.逆立ち左片腕立て伏せを禁ず

 七.逆立ち右片腕立て伏せを禁ず


 師範代の権威を守るための恣意的な法度は次々と増えていき、八月に入るころには「時千穂道場御法度」は三十二ヶ条を数えた。懸垂運動や逆立ちした状態での片腕立て伏せなど、すずができない鍛錬は全て禁止された。もちろん、扇はそんな法度は屁とも思わず、自分のしたいように鍛錬をした。「時千穂道場御法度」の序文には法度にそむくものは切腹とわざわざ朱墨で書いていたが、扇を切腹させれば、弟子は零となる。また、入門者のいない暮らしがやってくるのだ。そのため、扇は平気で法度を破ることができた。

 また扇とすずが木刀で立ち合うと、五のうち三は扇が勝つ。これは師範代の権威の危機であったので、すずは「時千穂道場御法度」に、


 十三.弟子は師範代と立ち合うときは必ず二刀を用いること


 を、加えた。

 実際、二刀で木刀稽古をやれば、五のうち四はすずが勝った。

 プロシア拵えにした海心子秀清かいしんしひできよ作の二刀を日ごろから差しているのは伊達ではなく、すずは二刀を使わせれば、その太刀筋は恐ろしく冴える。普通の二刀術のように片方で受けて、もう片方で斬るのはもちろん、二刀一度で斬り、防ぎ、薙ぐという独特の剣も使い、それをこまめに切り換えて攻め立てられると扇でも対しきれない。

 こうして二刀流は、逆立ちと懸垂ができない師範代の権威を守る最後の牙城となり、すずは扇を見つけると、優越感にひたるために無理やり道場に引きずり込み、二刀で打ち合わせた。

 すずがいると、強制的に二刀流の稽古が始まるが、ただ、扇が時千穂道場にやってくる時間、すずは万膳町の食い歩きに忙しい。だから、扇は時間のほとんどを自由に使うことができた。

 八月七日。

 六代実篤が大夜を白寿楼に訪ねてきてから二日後の午前。

 その前の日は本降りの雨が降ったが、翌日は夏らしい暑い日で土も木も乾き、時千穂道場の門前ではプロペラから吹いてくる風でもう砂ぼこりが立っていた。

 扇はいつもどおり、道場にやってきて、白の道着と黒の袴に着替えた。りんはまだ道場の床を水拭きしていて、ちゃっかりしているすずのほうはいつの間にか姿を消していた。確か師範代と掃除、そして権威にまつわる法度が二十三個目だか四個目だかに載っていたが、誰もそれを気にしない。扇はすずが帰ってくる前に流術の稽古を始めたかったので、その乾拭きを手伝った。

 扇の掃除の技は天原に来て以来、着実に上がっていた。今でもときどき、自分のことを中郎と間違えるお登間婆さんによって、床拭きや見世の表の掃き掃除をさせられることがあった。お登間婆さんに彼女が勘違いをしていることを指摘し、自分は用心番だから掃除はしないと主張するよりは、黙ってうなずき素直に掃除をしたほうがずっと楽なのだ。

「扇さんが来てくれてから、お掃除がはかどります」

 そう言って、りんはうれしそうな顔でぺこりと頭を下げる。

「別に感謝されるほどのことはしていない」

 と、扇は二枚の雑巾を物干し竿に吊るしながら答えた。

「それに聞いた話じゃ、道場の弟子というのは掃除をしなければいけないものらしい」

「そうらしいですね。でも、まあ、うちはうち、よそはよそです」

 りんは姉と違って、権威に無頓着だった。

「じゃあ、始めましょうか?」

「ああ」

 道場には神棚はなかったが、質素な床の間にりんとすずの祖父の位牌がある。鍛錬や試合をする際は必ず、その位牌に礼をした。

 扇は赤樫つくりの木刀を手にし、正眼に構え、切っ先の向こうにりんを見る。りんは何も持たずに立っている。

 こうして向かい合っているだけで、扇は自分のなかの〈流れ〉が不吉に渦巻いているのを感じることができた。その渦のなかから心に暗い影が差し込み、扇を〈鉛〉に戻そうとする〈流れ〉が足から扇をさらおうとしている。

 それは氷のようにひんやりとしていて、扇をゾクリとさせる。自分は〈鉛〉だったころ、こんなものを知らぬうちに体のうちに宿していたのかとあらためて感じ、体がかたくこわばって、息がつまりそうになる。

「くっ……」

〈流れ〉が殺気に変じて、扇を喰らおうと顎を開いた瞬間、りんが気を解いた。ぱんっ、という扇だけに聞こえる音が扇をその〈流れ〉から引き戻す。

 どっと疲労が押し寄せる。木刀が手から離れて、床で硬質な音を立てた。扇は錘でも載せられたように前に傾いて膝頭に手をついて、大きく肩で息をした。額を流れる汗は、何も八月の暑さによるものだけではない。

「少し休みましょう」

 と、りんが言った。

 扇は首を横にふり、

「いや。まだやれる」

 と、木刀を拾おうとしたが、りんがそれを素早く取り上げた。

「駄目です。今の状態で〈流れ〉に逆らうのは危険です」

「今日はまだ、始めたばかりだ」

「だったら、焦る必要はありません。時間はあります」

 りんは木刀を抱えるようにして持ち、そのまま日陰になった道場の縁側に腰を下ろした。

 仕方ない。こうなっては休憩だ。

 扇は楠の下に行き、いつも懸垂に使っている枝を見上げ、両肩を脱いだ。衣が邪魔にならないようまとめて結んで、袴の裾を絞る。

 休むといっても、消耗したのは気力だけで、体力ではない。それに何もせずにいると、余計なことを考えて気力の休息にならない。

 扇は上に跳んで、枝を両手でつかんだ。そして、そのまま両足を上げて、枝に絡みつかせると手を離して、ゆっくり上体を下へ伸ばして、逆さにぶらさがった。そして、両手を頭の後ろにまわして組み、膝を曲げて体を持ち上げ、さらに体を曲げて頭を持ち上げる。

 逆さにぶら下がっての懸垂は膝を鍛えて俊敏性を上げてくれる。扇の剣は力か素早さかといえば、素早さを重視しているのでいい鍛錬になるのだが、頭に血がまわって目をまわすので、一度に二十回以上はできないのが、珠に瑕ではあるのだが。

 もちろん、この逆さ懸垂も「時千穂道場御法度」で禁止されている。

 ちょうど二十回を数えたところで、枝に絡みつかせた足を解く。次の瞬間には足と頭が位置を逆転して、きちんと着地している。

 諸肌脱ぎの上身は汗を噴き、しなやかな鞭のように引き締まっていた。鍛えた体幹が急な位置の反転や跳躍の際に流れるような動きを約束してくれる。

 井戸から水を汲み、柄杓でむさぼるように冷水を飲み、また道場の庭の表に戻り、楠の枝に飛びつく。

 一通り終えて、また水を飲むころには気力が戻ってきた。

「そろそろ大丈夫そうだ」

「わかりました」

 りんは汗を拭い道着を着直す扇に木刀を手渡し、二人はまた道場で三間の間合いで向かい合う。

 正眼に構えた木刀の先をりんの眉間に合わせて、また〈流れ〉に気を晒す。晒した自分が殺気に呑まれる前に、自分の力で〈流れ〉から引き上げられるようにするのが当面の目標だ。

 風や蝉すら沈黙する場が出来上がる。

 呼吸を深くする。もうすぐ自分を〈鉛〉へ戻そうとする〈流れ〉に身を晒すのだと心を強く持ったその瞬間――。

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