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廓雲と扇の剣士  作者: 実茂 譲
第四話 そっけない扇と大阪の恋
48/611

四の二

 若者の名は六代ろくだい実篤さねあつ

 セッツ国の銀行家であり、首府大阪の造幣寮運営において相談役を務めるなど、畿内で使われ始めた円や銭の流通に大きな影響力を持つ、いわば政商であった。

 六代家は代々大阪で両替商と米商いをしてきた家柄だったが、産業革命を経て、跡を継いだばかりの六代家の若き当主実篤は事業の一新を決断。これまでの両替と預金業務、為替発行業務に貿易用信用状発行を行う商業銀行と庶民向け貯蓄銀行、それに鉱山資源の開発を念頭に置いた投資銀行を開行。

これが成功し、若干二十二歳にして、大阪を代表する豪商となった。

 ところが、翌年、大阪で不平士族「武神党」による反乱が発生。商人に政治の主導権を取られた旧武士階級がヤマト=カワチ=ヤマシロ三国同盟の援助を得て挙兵したものだったが、大阪を中心とする商人は結束し、瀬戸内海諸国の協力を得て、これを鎮圧。その際、六代実篤はセッツがこれから商業国家として活動するには瀬戸内海諸国だけでなく畿内との通商が欠かせないと判断し、単身三国同盟の根拠地である京にゆき、ヤマシロの明治新政府に和議を提案。セッツの反乱鎮圧の迅速さに混乱していた三国同盟側もセッツを初めとする瀬戸内海沿岸諸国との通商に国益を見出し、武神党の反乱士族を切り捨てる形で和議を結んだ。

 この功を認められた六代実篤は商業国家セッツの商工会議員――天原で言うところの総籬株に任命された。

 その実篤がどこで大夜を見初めたのか、たずねてみると、ヤマシロ国の京都でのことだったらしい。天原白神神社建築のための大工や職人の雇用の際、白寿楼の用心番たちは休暇をもらい、京都へと降り立った。

 そこで大夜は清水寺の大舞台の欄干の上を軽業師のように歩いた。

 なぜ、そんなことをしたのかと言われても、本人もよく分からないが、昔の公家がこの欄干を蹴鞠をしながら歩いたと聞くと、公家なんぞという軟弱な生き物ができることを大見世の用心番ができないようじゃ天下の物笑いの種になる、と思って、やったらしい。

 それをたまたま京都に商用でやってきていた六代実篤が見て、一目惚れしたらしい。欄干の上を歩く女に惚れる心というのはよく分からないが、二十三にして大阪一の大財閥を率いるだけの人間はおそらく凡人とはものの捉え方が違うのであろう。あの女性は誰かとその場にいた人がたずね、その場にいた見物人は、あれは天原の白寿楼という遊女屋の遊女だと説明したのだ。

 さて、白寿楼ではこれは楼主に判断してもらわねばならぬということになり。事の次第が九十九屋虎兵衛に伝えられた。

「また、妙なもん背負い込んだなあ、大夜のやつも」

 虎兵衛が呆れるように言う横で、権蔵とお登間がどうしたもんでしょう、とたずねた。

「どうするも、こうするも、揚代は返して、引き取ってもらうしかないわな。大夜は遊女じゃない。朱菊のほうにはおれから機嫌を直すように言っておく。とにかく、その六代ってお人にはお帰りいただくことだ。ああ、帰る前に小田巻きは食べていってもらえ」

 大夜が遊女ではなく、用心番であり、座敷に用心番を呼ぶことはできないと断ると、実篤はせめて声だけでもあともう一度だけ聞かせてはくれないかとねばった。権蔵とお登間は遊女屋は遊女との時間を売る店だから、と言って、何とか実篤にその場は帰ってもらった。

 ところが、四半刻もしないうちに大手の引手茶屋の鏡屋から白寿楼に大夜を呼んで欲しいという使いがやってきた。もちろん、実篤が頼んだのだ。

 使いの口上を聞いて、虎兵衛は、

「こいつぁ、よっぽどだな」

 と、思い、扇を呼んだ。

 間もなく、いつもの格好――襟が首にぴったりとした黒の上衣に灰のズボン、棒手裏剣と刀を一振り差した姿で扇がやってきた。

「用があるときいた」

「ああ。こいつぁ、お前さん以外にゃ頼めん仕事だ」

「何をすればいい?」

 虎兵衛は実篤が大夜にぞっこん惚れていることを説明した。

「なに、お前さんのそのそっけない言い方で、大夜は遊女じゃない、あきらめろ、と言い渡してきて欲しいだけだ」

「どうして、おれが?」

「お前さんが、天原で一番そっけないお断りがうまいからさ」

「なんだか、けなされてる気がする」

「そんなことぁないさ。ま。ちゃちゃっと頼む」

「大夜は?」

「ん?」

「大夜はどう言っている?」

「そういや、大夜の気持ちをきいてなかった」

「本人同士が好き合えば、それで問題はないんじゃないか?」

 虎兵衛は最初は分からなかったらしいが、そのうち埋蔵金でも掘り当てたような驚き顔をしてから、

「ほお、お前さんも言うようになったなあ。そう言われりゃ、そのとおりだ」

「本人がどう思ってるかきくか?」

「そうしてくれ。何だか、面白くなってきた」

 大夜の答えは簡単だった。

「んな、ヒョーロク玉、興味ないね」

 カエシ一階の用心番の控え部屋で小田巻き蒸しのうどんを手繰りながら、そう答えた。

 銃の分解掃除をしながら、泰宗がそう悪い話ではない気がします、と言う。

「結婚すれば、財閥の総帥夫人ですからね」

「で、口から内臓が飛び出るほど胴をぎゅうぎゅうに締める洋服を着せられるわけだ。あほらし」

「じゃあ、断るのか?」と扇。

「おう、断れ、断れ。きっちり断れ。そんなくそつまんねえ冗談に付き合ってられっかってんだ」

 扇はその伝言を持って、鏡屋へ向った。

 鏡屋は仲町に面する引手茶屋で白寿楼ほどではないが、店先に酒樽を積み、立派な朱塗りの柱を芯にした大きな構えをしている。当世風の直接妓楼にあがるのではなく、茶屋を通して大見世や中見世の遊女を呼び、座敷に宴を設ける古いしきたりの遊び方をしたい通に贔屓にされていた。

 白寿楼の使いだと、立ち番に話すとすぐに店に通され、二階へ案内された。時間が時間だけにどこの座敷も客と遊女と芸者と幇間でいっぱいで賑やかなことこの上ない。そんな店に一つ、笑い声も三味の清掻も聞こえてこない座敷があった。

 鏡屋の中郎がその座敷の襖の前に正座し、白寿楼からお使いの方が来られました、と言って、襖をゆっくり開いた。

 六代実篤がいた。御膳にある甘鯛の山椒焼きを箸でつつきながら、憂鬱そうにおちょこの酒をやっていたが、扇の姿を見ると、急に気もそぞろになったらしく、

「あの方はなんとおっしゃっられていた?」

 と、たずねてくるのだが、その姿がまた何とも哀れなものだった。

 確かに、大夜が評したとおり、体は少し細く頼りない。だが、特別目立った短所は少なくとも外見には見られない。押し出しも格別良いというわけではないが、決して醜男ではなく、目鼻立ちはどちらかといえばいいほうに属する。むしろ控え目に整った容姿は商売の世界で正直さ、廉潔さといったものを強く表し、彼の生業に貢献してきたに違いない。その善良っぽさが女への恋慕に絡め取られるととにかく哀れに見えてくる。人の心の機微に鈍感な扇でも分かるほどだ。

 ともあれ、私情はなしにして任務を遂行しなければならない。

「大夜はあんたの誘いを断った。あきらめたほうがいい」

 と、虎兵衛が太鼓判を押した扇のそっけない返事は虎兵衛の思ったとおり、些細な希望も与えずに実篤の心をグサリとやったらしい。

 だが、それでもまだあきらめきれず、実篤は、具体的にどんな言葉であの人が断ったのか、それを教えて欲しいとねばった。

 教えれば、気持ちも冷めるだろうと思い、扇は大夜が吐いた文句をそのまま教えた。

「あほらし」

「あほらし?」

「そう言っていた」

「そうか。他には?」

「そんなくそつまんねえ冗談に付き合ってられっかってんだ、とも言っていた。それに、あんたのことはヒョーロク玉と呼んでいたな」

「彼女はぼくのことをヒョーロク玉と呼んでくれたのか?」

 そう言うと、実篤はまるでいい夢を見たように表情を明るくした。扇には不思議なことであったが、どうやらヒョーロク玉呼ばわりは実篤にとって素晴らしいことであったらしい。侮蔑の文句であっても、少なくとも大夜が彼に注意を払ったことには間違いない。無個性な「その他大勢」から「ヒョーロク玉」に格上げされたことは彼にまだ脈があると誤解させてしまったのだ。

 もちろん、扇はそんなことは知らない。伝えることを伝えるとさっさと白寿楼に戻った。

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