四の一
真夏の天原は上方の空を飛んでいた。
富裕な商人の多いこの地域で、遊郭は新しい馴染みの客を得ようとせっせと呼び込みにいそしんでいる。
そんななか白寿楼にやってきた一人の青年。上客になると踏んで、見世は朱菊太夫との座敷を用意する。ところが、青年はつぶやく。「この人じゃない」。
青年が惚れた相手はなんと……。
ガス灯に浮かび上がる見事な枝ぶりの夜桜に蝉が鳴く。
本家吉原の仲町を越えたといわれる天原仲町の景勝である。
この常咲きの桜をもたらした神体を祀るため、京で宮大工と桧皮師、石工を雇い、天原堤と屋台堤が交わる場所、遊廓の目と鼻の先ではもう神社の工事が始まっていた。大工たちはしばらく万膳町の貸座敷に住むことになり、朝から暮れ六ツの半刻前まで働く。手水舎のために水が引かれ、唐金の明神鳥居はビゼン国の鋳物工場へ電信で注文され、参道に使う敷石や石灯籠、狛犬のための石材はイズモ国の石商人から買い取って既に石工たちが鑿を打って刻んでいた。大工たちはまず神楽殿と寿が住む社務所を造り、そのあいだに桧皮師たちが屋根に葺くための桧皮を用意した。
神社の名前は「天原白神神社」と決まり、アワの漁村の道から扇が持ち帰った白い鳥居を拝殿に安置し、本殿は造らず、天原全体を依り代とする。十月の半ばまでには完成する見込みとなった。
天原は八月に入って、瀬戸内海の上を航していた。元々、セッツ国の首都大阪から西の商業が強い地域だったが、蒸気機関の伝来とともにその商業的性格は強くなり、いくつかの国は商業国家として存在していた。
当然、登楼する客の羽振りはよい。そして、遊廓が賑わう夏の暮れ六ツを過ぎた灯ともし頃、呼び込みを仕切る妓夫太郎たちはいいお客をつかもうと見世の門口の妓夫台に陣取り、賢しくあちこちに目を配る。妓夫太郎のなかには見世の前をゆく客の顔をちらりと見ただけで、その出自や身分、懐具合からどの花魁に惹かれているかまでピタリと当てるものもいて、そこを遣手と息を合わせて、見世にどれだけの金を落とさせるかの算段をつけるのである。
白寿楼の妓夫太郎は権蔵という齢が四十にもうすぐ届こうかという男で、いい客筋をつかむことに定評があり、楼主の虎兵衛の信頼も厚い。権蔵には「筒袖権蔵」という通り名があったが、それは袖の下を受け取らないことからつけられたものだった。なるべくいい花魁をつけてもらおうと、客が妓夫太郎に心づけを送ることがあったが、権蔵は一度もそれをもらったことがない。というのも、どうせ登楼すれば遣手のお登間にうまい具合に言いくるめられて、遣手の用意した敵娼を当てられるのだから、どの道、妓夫太郎に心づけなど贈っても無駄なのだ。
ほとんどの妓夫太郎はそれを承知の上で廓遊びのイロハを知らぬ田舎者から心づけを巻き上げるのだが、権蔵はそれをしない。
なぜかと問われると、権蔵は肩をすくめ、
「おれには敵娼は選べん。自分のできないことでもらったカネというのは、どうも使う段になってもつまらん」
と、言うのだった。
少し奇妙な男なのかもしれない。
だが、そんな権蔵が初めて登楼しようとする客から心づけをもらうこともある。それはその客に太夫をつけようと思った瞬間である。
見世番は権蔵が客から心づけをもらうのを目にすると、すぐさま二階へ飛んでいき、遣手のお登間婆さんにそれを伝える。敵娼を決めるのは遣手の職掌だが、それでも権蔵の目利きには狂いがない。朱菊太夫には多くても三人くらいしか客がつかないわけだから、新しい馴染みを太夫につけようとするとなれば、これはもう年に一度あるかないかの大仕事である。よほど金回りのいい客ということなので、お登間婆さんも筒袖権蔵が心づけをもらったと聞くと、本腰を入れる。
八月の瀬戸内、散っても散ってもなくならない桜の花びらが天原の夜を飾る。どこかの町の花火大会の音が天原の地の底からずうんずうんと響いていた。
権蔵はいつものように妓夫台から目を配る。この時期の瀬戸内の客は富裕な商人が多く、各見世の妓夫太郎たちもいつもよりも念を入れて、客筋を見極めようと必死である。
権蔵も仕事に励んで、油断無く見世の前を行く客を観察していた。というのも、瀬戸内では見てくれだけは商人風に立派にしているやくざものがまぎれることがあるのだ。その手のやくざたちは年々、見破りにくくなってきていて、大見世のいくつかがそんな厄介者をうっかり見世に登楼させてしまったという話をまれに聞く。だから、権蔵はどんなに羽振りがよさそうでも、歩き方に渡世人ふうのところがかすかに出ていたり、顔つきの温和さに違和感を覚えたりした客は通さない。富商の多い場所だけに焦って、しくじることのないようにしなければいけない。
その日、権蔵は二人ほど新規の客を呼び込んでいた。そのどちらとも張見世の昼三、小藤と夕顔を気に入ったらしく、これは間違いないだろうと思い、遣手に渡した。昼三は太夫、呼出に次ぐ花魁で、初の登楼で引付座敷へ呼ぶにしても、それなりに長く通ってくれそうな客でなければ、遣手も敵娼につけようとは思わない。遣手は二人の客がいい筋だと踏んだらしく、客の希望した花魁を引付座敷に通した。
引付座敷での客の反応ぶりを後で聞き、どうやら二人の昼三にいい馴染みがつくらしいと知って、権蔵は一日の仕事としてはいいところをやったと一人悦に浸っていた。
そうは思いつつも、変な客を見世に登楼げないよう気を引き締める。
すると、権蔵は、ん? と思う客を一人見つけた。
山高帽に洋装のその男はまだ歳も若く、二十三、四ほど。いかにも廓遊びに慣れていない野暮天らしく、幼く見える顔にくっついた大きな二重の目がきょろきょろと不安げに視線をちらかしている。おそらく遊び慣れた友人に連れてこられたが、はぐれたか、あるいはわざと一人で放り出されたかしたらしい。服に派手なところはないが、権蔵はその灰色の背広の生地が本場英国製の羅紗だと見破った。天原の雰囲気に戸惑っているらしいが、一方でその顔には商売慣れした男独特の自信のようなものがちらほら見える。部屋住みの若旦那ではなく、もう店を自分で仕切っているらしいことだ。つまり、かなりの金を自分の意思一つで使えるということでもある。
その若い男の気になったのは張見世を見る目だった。普通なら、見入ってのぼせた顔でもするところだが、男は張見世の格子越しに見える花魁の顔を必死に確かめている様子だった。花魁たちの猫をなでるような声の呼びかけも耳に入っていないらしい。初めての天原らしいくせに、もうこれと決めた花魁がいるらしいと思った権蔵はその若い男に注意深く目を寄せた。
張見世にいない女を欲しがっている。
これはひょっとすると、目当ては太夫かもしれねえな。
そう考えると権蔵は自然慎重になる。太夫に新しい馴染みをつけるのは一年にあるかないかの一大事である。下手な客をつけては妓夫太郎の名折れ。
だが、目の前の若者はそのまま釣り上げずに放っておくには惜しい魚だ。
よし、と腹を決めると権蔵は腰を上げ、若者のほうへ、すすっと寄っていった。
「お目当てはございますか?」
と人の良さそうな顔でたずねた。すると、男は、
「ここにはいないんだけどね……でも、この見世で間違いないと思う。とても、きれいな人だった」
と張見世を指差した。
権蔵は、他の見世に馴染みがいないことを男に確認すると、
「ではお登楼りになって、お目当てを探しましょう」
といって、太夫の揚代をそっと耳打ちした。一両ときいても、男は顔色一つ変えないで、ただうなずいた。
そして、なるほど野暮天らしく心づけの一円札を権蔵に渡そうとする。権蔵は見世へちらりと目をやった。下駄箱を整理している見世番が権蔵と男のやり取りを見ている。
なるほど、この男、今でこそ野暮ったいが、これは上客に化ける。権蔵は今夜でうちの馴染みになってもらおうと思い切って、心づけを受け取った。
見世番はそのころには二階へ階段を一段飛ばしに駆け上がり、遣手の部屋に飛び込んだ。
「なんだ、騒々しいねえ」
遣手が皮肉の一つも飛ばしたが、見世番は息を切らせて、
「権蔵さんが心づけを受け取りましたぜ」
と、遣手に伝える。遣手はそれをきくや、通りがかりの中郎に太夫が今出られるかたずね、引付座敷を用意し、そこに太夫を呼ぶことにした。
そのあいだにも権蔵は男を見世に登楼させて、早速、遣手に引き渡す。遣手は客に敵娼をあてる他にもお世辞で調子に乗せて酒や蓬莱台をさりげなくねだり、芸者を呼ばせて、揚代に上乗せする役目もある。若い男は帽子を中郎に渡すと、遣手の言うがまま、酒や台の物を持ってこさせ、芸者と幇間を好きなだけ呼ばせた。
その気前の良さと、花魁会いたさに心もうつろな様子で、これは相当入れ揚げると見た遣手はいよいよ太夫を座敷に呼ばねばならないと意を強くする。
池のある中庭沿いの二階にある引付座敷に早速、宴の席が設けられ、料理と酒、蒸気機関を仕込んだ七福神の宝船が飾られた。若者はいかにも初登楼らしく、芸者の三味と幇間の座敷芸にも関心がない様子でぼうっとしている。これから太夫に会えることで頭がいっぱいに違いないと、座敷の外からそっと様子を見ているお登間婆さんは当たりをつけた。
引手茶屋の場合もあるのだが、ともあれ遊廓への初登楼は「初会」と呼ばれて、花魁が上座に座り、客が下座に座る。酒も客から花魁に勧めるが、決して受けることはない。それどころか一言も発しないのだ。
二度目の登楼は「裏」と呼ばれ、花魁も酒は受けるようになるが、そこで生まれる会話はそっけない。だが、初会よりは少し打ち解けてくる。
そして、三度目の登楼でがらりと変わる。花魁がすっかり打ち解けて、これまで「客人」としか呼ばなかった相手を名前で呼ぶようになる。宴も引付座敷ではなく、花魁の部屋で行われる。客専用の箸が作られ、馴染みと決まれば客は祝儀を出す。その祝儀もいろいろとあり、それも相手の遊女の格によるが、だいたい五両から十五両が相場である。ここまで来て、ようやく客と花魁は男女の関係を交わすことになる。見送りも初会や裏では見世の玄関先までだったが、馴染みとなると、飛行船発着場まで送ることになる。
さて、くだんの若者はもちろん「初会」である。たとえ、朱菊が来ても、会話はなし、酒も飲まぬ。枕をかわすなどもってのほか。ただ、さすがに天原も細見をあちこちの国に刷っているので、初会と裏と馴染みの規則くらいは知っているだろう。お登間はなんとしてもこの座敷を成功させて、ぜひとも太夫に新しい馴染みをつけたいと思っている。
権蔵も気になったと見えて、お登間の隠れた柱の陰にやってくる。もうじき、太夫が禿を引き連れて引付座敷にやってくる。髪を鼈甲の大櫛と簪で飾り立て、この暑さにも関わらず三つ重ねのしかけを涼しげに纏うその姿はなるほど天原一の花魁と呼ばれるだけのことがある。
きっとあの若者も太夫の美貌に魂をすっぽ抜かれてしまうに違いないと、 権蔵とお登間が期待しながら、若者の顔を見た。
若者は確かに驚いた顔をしていた。
「この人じゃない……」
権蔵とお登間は我が耳を疑った。天原一の大見世の太夫を相手にこの人ではない、と言ってのける男が日本にいるとは思わなかった。そもそも、こうして太夫を敵娼につけてもらえることすら奇跡なのにである。
たまらず、遣手のお登間婆さんが座敷へ腰を低く、やってきて、本当にこの人ではないのか、と恐る恐るたすねた。遊廓ではどこでもそうだが、客は一度馴染みを作ったら、他の遊女のもとに登楼することは許されない。だからこそ、権蔵とお登間がしくじりのないように手配するわけだが、今回はしくじった。
これはよその見世の太夫に惚れたか?
権蔵はそう思う。つまり、客が勘違いをしたのだ。
太夫のほうは表情を少しも変えず、「初会」の花魁という役をきちんとこなしているが、内心はひどく馬鹿にされたと思っているはずだ。自分でなければ、どこの遊女に惚れたのか、一つ見てみたいと思っているはずだった。
こうして、座敷の空気が非常に気まずいものとなったそのときだった。
外で何か大きなものが、どぼんと水に落ちる音がした。
天原名物鯉の餌づけが始まったのだ。
ろくでもない客が初会もへちまもなく、遊女や芸者を剥こうとすると、用心番がやってきて、客を中庭の池に放り落とす。
餌づけされるような客を通した覚えのない権蔵はすっかりしょげてしまった。太夫に馴染みをつけるという一大の仕事をしくじったのは、ひどく肩が重くなり、へたりこむほど情けない。
そのとき、声に色がつくとするならば、山吹の色がつくであろうからっとした声が上がった。
「おら! 逆落としに落としてやる、この浅葱裏ぁ!」
女用心番、大夜の声だった。
その声を聞いた途端、若者は尻を針で刺されたようにがばっと立ち上がった。そして、中庭の回廊に通じる襖を開くと、声のしたほうへ、四階の欄干に足をかけて、手の埃を払い落とすようにパンパンと打っている大夜を見上げて言った。
「あの人だ……間違いない、あの人だ!」
これにはお登間も権蔵も、その場に居合わせた芸者や幇間も、そして朱菊ですら、あっけに取られた。
この若者の惚れた相手は大夜だったのだ。