三の九
翌日。
七月半ばの暑い日。
青く濃く晴れた空に白く濃い雲が流れていく。
天原堤と屋台堤のあいだの潅木がまばらに生えた空き地で天原住まいの測量技師が測量具を――まっすぐ下にぶら下がった円錐形の錘やニスで仕上げた三脚に観測器具をつけたもの、地面に打ち込むための鉄の杭とトンカチを持ち込んで、神社を建てるための地所を詳しく調べていた。
天原堤を扇は万膳町のほうへ歩いていた。ただ、用があるのは万膳町ではない。途中で分かれた道を左へ曲がった。石は敷かれておらず、土を踏み固めただけの道で、道沿いに人家がいくつかあるが、決して賑やかな道ではない。さわさわと葉をこすりながら陽光に照る木立が時おり道に涼しい影を落としていた。
日陰になった道で脇により、木の根元に座って、少し休む。
あの後、千鶴は虎兵衛が保護した。虎兵衛はまだ復讐をするつもりがあるか単刀直入にたずねたが、三津屋千鶴はただ首を横に振るだけだった。今日、故郷のイセへ戻るという。虎兵衛の見たところ、敵討ちにとらわれた人間特有の険がとれたようだと言っていた。
その仇である寿はぴんぴんしている。神社が出来上がるまでは扇と同じ部屋に住むことになった。おそらくまだ寝ているはずだ。
扇は寿を起こさず、そのままにしておいた。〈鉛〉だった時代、寿もやはり横にならず、何かによりかかっての浅い眠りしか取らなかった。だから、寝させてやろうと思ったわけだが、寿の本音が寝言の一つとしてでもこぼしてくれないかと期待もしていた。
あいつはおれに隠れて、おそらくはおれの分まで過去を引っかぶろうとしている。
だが、扇はそうさせるつもりはなかった。とは言っても、寿を直接相手にしてものらりくらりとかわされるのがオチだったから、彼は彼なりのやり方で過去に対峙することにした。
立ち上がり、服の土埃を払って落とし、また歩く。
白寿楼を発ってから四半刻、時千穂道場が見えてきた。
流行っていない、と自称するだけのことがあって、何とも古ぼけた道場だった。武芸の道場というものは練習風景をやたらと見られると技が盗まれるといって、塀をしっかり高い築地塀をめぐらせるものだが、時千穂道場にはそれがない。また庭は菜園になっていて、おそらく自分たちで食べるための菜を育てていた。
道場そのものは横八間縦六間の板の間がある茅葺き屋で、外壁には木刀や棒の代わりに鍬や鋤が立てかけてあった。
姉のすずはどこかに――というよりは万膳町に行っているらしく、りんが一人、白帷子のたすき掛けに袴姿で跳ね上げ式の井戸から水を汲み、せっせと洗濯に勤しんでいた。
道場の敷地に入り、鍛錬場の板の間を覗くと、道場の名札かけが柱の上にかけてあるのが見えた。師範に時千穂りん、師範代に時千穂すず、弟子は一人もいない。
つくつくぼーしの鳴き声がする大きな楠の日陰で相手の用事が終わるまで待つことにした。まさか、女物の衣の洗濯を手伝うわけにも行かない。
菜園のそばに物干し竿が渡してあり、りんはせっせと襦袢や道場着、帯の類を干していた。洗濯が終わったところを見計らって、扇は声をかけた。
「あっ。扇さん」
りんはぺこりと頭を下げた。
「昨日はいろいろとご迷惑をおかけしました。また、姉さんが何か?」
「いや、そういう話じゃないんだ。ただ、昨日の立ち合いのことでききたいことがある」
「わかりました。鍛錬場のところでお待ちください。すぐ行きますので」
戸を全部外した道場は風の通り道になっていて、汗が乾くようだった。蝉が盛んに鳴くが、風にざわめく木々の音がそれを和らげてくれていた。見た目はぼろっとしていたが、扇が座す板の間はお登間婆さんでも文句がつけられないくらいにきちんと掃除されていて、扇の顔が映りこむくらいに磨かれていた。
さほど待たされたわけではなく、すぐに冷たい緑茶を持って、りんがやってきて、扇と相対する形で正座した。
「隠さずにいいますね」会話の口を切ったのはりんのほうだった。「扇さんの〈流れ〉は最後の打ち合いのとき、もう本人でも鎮めることのできないくらい脹らんでいました。これはわたしのせいです。ある種の〈流れ〉は流術にぶつかると、あんなふうに増幅されて、その人の気を呑んでしまうことがあるんです」
「それについては自分でも何となく分かった。それに昨日、おれを助けてくれたのはあんただ」
「それは――」
落ち葉のように川底へ沈むとき、一尾の小さな魚が落ち葉となった扇をくわえて、川面へと泳いでくれた。その魚は銀の鈴のように輝いていた。
「わたしのせいで、扇さんが〈流れ〉に呑まれたのであれば、それをお助けするのは流術師範として当然のことです。むしろ、昨日の試合での出来事はわたしの未熟のために起きたことです。ああなる可能性を考えて、何としても試合を避けるべきでした」
「でも、わかったこともある。おれの推測だが、あんたはおれを助けるとき、おれのなかにある〈流れ〉、それがどういうものか全部わかったはずだ。違うか?」
りんは茶碗を手にして、少し飲んだ。
「はい。わたしは扇さんの〈流れ〉を見て、過去もまた見てしまいました」
「ひどいザマだったろう?」
「とても哀しい過去だと思いました。憤りも感じました。幼い孤児に暗殺術を仕込んで、道具扱いし、自分たちの思い通りに操るなんて、人にできる所業ではありません。扇さんには選択肢が与えられていませんでした」
「だが、理由はどうあれ、おれは大勢殺した。おれの〈流れ〉は殺すための流れだった」
「それは否定しません。〈流れ〉は万物が本来持つものに、経験が重なって完成するものです。扇さんの〈流れ〉はそうなってしまいました。でも――」
りんの優しいが、妥協のない視線が扇を見つめる。
「昨日吹いた風の持つ〈流れ〉と今日吹く風の持つ〈流れ〉は異なるものです。そして、明日吹く風もまた違った〈流れ〉を持つものなんです。今の〈流れ〉がその人にそのままつくか、変わっていくかはその人の意思次第です」
「変われるかどうかも意思次第か」
「そうだとわたしは思っています」
扇は目を少し伏せ、考えるように黙した。涼風にざわつく葉の音をきくと、自分の考えていることがまとまりやすくなるような気がした。
「過去を変えられるとは思っていない」扇は目を上げて、りんを見た。「自分のしてきたことを忘れられるとも思わない。ただ、昨日のように、元のおれに、〈鉛〉だったころのおれに一瞬でも戻るようなことが二度と起こらないようにしたい。〈流れ〉を変えることはできなくとも、自分で操り、鎮めるくらいの術を身につけたい。その上で自分の〈流れ〉に、過去に向き合いたい」
言い終わるや扇は手をついて、低く頭を下げ、大音声で告げた。
「時千穂流流術師範、時千穂りん殿に申し上げるっ! 流術修行のため、是非とも弟子の末席に加えていただきたい!」
顔を上げると、りんがびっくりした様子で目を丸くしていた。
「すまない。正式な弟子入りの作法は知らないんだ。これで合っているか?」
「え、えーと。実は弟子が入るのはこれが初めてで」りんは気恥ずかしそうに言った。「合ってるかどうか分かりません。でも、扇さんが思っていることは分かりました。喜んで迎い入れます」
「厚く御礼申し上げる」
そう言って、頭を下げる。りんが戸惑いがちに、
「あの、何もそんなに、大袈裟にしなくても大丈夫ですよ。ちょっと戸惑っちゃって――」
そのとき、門のほうから
「ただいまぁ!」
と、すずの声が響いた。
「りん、スイカ買ってきたよ、スイカ。冷やして食べよ――あれ? 扇さん、こんなところで何をしているんですか?」
「入門に来た」
「ああ、入門ですか。それはご苦労さまです――って、ええ!」
今度はすずが驚いて、目を丸くした。
「ど、どうしたんですか、扇さん。あんなにうちの道場に入門するの嫌がってたのに! 興味ないとか、おれに構うなとか、あんなボロ道場に入門するやつがいるとしたら、そいつは救いようのないマヌケに違いないって言ってたのに!」
「そこまで言ってないぞ」
「ま、まあ、とにかく!」
すずはスイカをそっと床に置くと、うきうきした様子で、
「入門した以上は弟子ですからね! わたしのことは師範代って呼んでくださいっ」
えっへん、と胸を張った。
「で、何から教わります? 剣? 棒? 薙刀? 兵法? 手裏剣? 居合?」
「扇さんは」とりんが言う。「流術を学びに来たんです」
「えーっ! ずるい! 独り占め! それじゃ、りんしか教えられないじゃないですか!」すずはぶうぶう文句を言った。「やっと自分よりも下っぱが来たと思ったのに! えばれると思ったのに!」
時千穂道場師範代は駄々っ子のように拗ねている。
それを見て、りんがぷっと吹き出し、扇も釣られて、少し笑った。
第三話〈了〉