三の八
虎兵衛を見世まで送った後、扇は来た道を取って返していった。
「こら! どこに行くんだい、用心番!」
遣手のお登間の声が背中に飛んできたが、無視して走った。どこかは分からないが、とにかく戻らないといけない気がした。
この時間、見世の入口から二軒隣の角から自分を見張っているはずの千鶴の姿を見かけなかった。
嫌な予感がした。
大見世の並ぶ仲町を舳先のほうへ走り、突如咲いた桜に浮かれる人の海を掻き分けて、惣門の外へ出た。
扇は経師ヶ池につながる道を走っていった。寿が曲がっていったあの道は見るようなものはないし、人家がない。
「まさか――」
経師ヶ池へつながる道を途中で折れて、寿が歩いていったであろうガス工場への道を走る。
その途上、顔から爪先まで返り血を浴びた千鶴の姿を見て、予感が当たったことを覚った。扇は千鶴の顔を見た。呆然としていて、扇の姿を見ても関心を払わない。
扇は千鶴の横を飛び過ぎるようにして走った。
頼む。
むざむざ殺されたりするな。
扇は拳を強く握り締め、爪が食い込んだ手の平から血が滲み出ていた。
ガス工場の大きな煙突が見えた。火の粉混じりの煤煙が風にさらわれて長く伸びるように流れていく。
道の脇に横になった人影が星明かりで蒼白く浮かんだのを見たとき、扇の喉からほとんど叫ぶように名前が湧き出た。
「寿!」
「なに?」
寿がむくりと起き上がった。
「なんか用かい――わわっ!」
扇は右手で寿の肩をつかみ、左手でどこかに傷がないかさわって調べた。
「ひゃはは、くすぐったい!」
「怪我は? どこにも怪我はないのか?」
「ないよ。どうしたの?」
「今、三津屋千鶴が――」
「千鶴ちゃんがどうかした?」
扇は息を呑んだ。寿は無邪気な顔をしている。
「いや」扇は肩をつかんだ手を離して、立ち上がった。「なんでもない」
「へんな扇だね。まあ、いいや。とりあえず帰ろう?」
「……ああ」
寿は空を見上げた。
「ここは本当に空がきれいだね。星がきらきらしてて」
月のない夜だった。雲は天原の下を流れていて、星と扇たちとのあいだには何一つ遮るものはない。星空は砕け散ったガラスが黒いビロードの上に広がったようで、どんなに小さな星でも見逃すことなく眺めることができた。
そんな星空の下、二人で遊廓のほうへ歩いて戻る。
「寿」
「ん?」
「お前、おれに隠してることがあるんじゃないか?」
「ないよ。おれたちは友達だもんね」
扇は悲しげな顔で寿の横顔を見た。
寿は人差し指で頬をかきながら、
「まあ、秘密はないというか。なんというか。キミの書卓の上においてあったお饅頭、実はおれが食べちゃったんだ。ごめん」
一瞬だが、扇の表情が緩んだ。
「なら、いい。ただし、変な隠し事したせいで痛い目にあっても知らないからな」
「うーん。扇は厳しいなあ」
「面倒事がごめんなだけだ」
「そっ」
遊廓の惣門が見えた。すずは約束を守って、あの馬鹿げた〈古今無双扇流〉の看板をきちんと撤去したらしい。
夢と道場破り。二つの厄介事が片づいた。
あとは仇討ちだ。
扇はもう一度、寿の横顔を見た。
体全体が華奢と言ってもいいくらいに細く、儚げな容貌のくせに大笑い、苦笑い、微笑、頬をふくらませたり、ぽかんとしたり、表情も感情も豊かだ。
だが、人を殺すことの嫌悪をごまかすために本人も知らないうちにその感情を使い、必死になって本当の自分を覆い隠そうとした。
「寿。お前、本当に何も――」
「わあっ。見てよ、扇」
寿は惣門の前で立ち止まった。ガス灯を頭に戴いた二本の石柱の向こうは、世の中の酸いも甘いも全てひっくるまった廓の世界だ。客の袖を引いて見世へ連れ込もうとする見世番や値段のことで引手茶屋ともめる客、滑稽な幇間の声真似芸、張見世の遊女たちとそれに見惚れる若い文士風の男、皮肉っぽい冷やかし連中、自分は俥夫よりも一等優れた人間であると信じる蒸気自動車の馭者が慣れぬ洋装姿でつんとすましているかと思えば、自家用飛行船を操縦してきた大富豪が白い襟巻きとガラスのゴーグルを首にかけて颯爽と馴染みの妓楼へ登楼する。こうした人々の中心には咲き誇ったあの桜の仲町があった。
「笑ったり、怒ったり、お世辞を言ったり、笑わせたり、本気で泣きべそをかいたり、かっこつけたり」寿は、うんうんとうなずきながら言った。「ほんとに人間はいろいろな顔を持ってる」
寿は扇の右手を取ると、自分の両手で包み込むようにしっかり握った。
「扇。もし、おれがキミに何か隠してるって思ったら、これを思い出して。おれはキミの友達だ。友達が苦しむことになるような嘘をついたり、何かを隠したりしない。絶対に――絶対にだ」