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廓雲と扇の剣士  作者: 実茂 譲
第三話 流れる扇と二つの鈴
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三の七

 仲町の桜が突如季節はずれに咲き誇る。そんな仕掛けをかけるのは天原切っての興狂い九十九屋虎兵衛をおいて他にはいないと思ったのだろう。九件の総籬の見世が虎兵衛の元に使いを送って、説明を求めた。

 そして、暮れ四ツを半刻過ぎた時間に総籬株会議が行われることとなったのだが、これは異例のことだった。遊廓も万膳町も稼ぎ時の時刻であり、その刻に主が店を空けるのは普通考えられないのだ。

 それにもう一つ、総籬株会議に株を持たない二人、扇と寿が経師ヶ池の籬堂に呼ばれたこともまた異例だった。

「どうしておれまで……」

 やや不満げにこぼす扇に寿が、

「だって、さびしいんだもん。それに、おれ、ここの仕組みはほとんど知らないんだから」

「おれだって、そこまで詳しいわけじゃない。ここに来るのだって初めてだ」

 池へ張り出した六十畳の大広間には虎兵衛を筆頭に三十人の総籬株が集まっていて、その視線は池の反対側、六十畳間の出入り口に座る扇と寿に集中していた。じろじろ見られることに居辛さを覚える扇をよそに、寿はどうぞどうぞ、なんでも答えるよ、とばかりに満面の笑みであぐらをかいている。

 虎兵衛から説明を受けた総籬株たちはウムムと呻って、どうしたものか悩んでいる。通常、総籬株会議で話されることといえば、天原をどこに移動させるか、あるいはガス工場や製氷工場の設備投資、各国とのあいだに取り決めた中立条約の再更新の確認などであって、神さまを迎えて、天原全体を依り代にしてもらうなどという話は夢にも思っていなかった。総籬株たちは遊廓の経営や食料の仕入れ、燃料の確保、伝染病対策、芸者たちの取りまとめに機械製造など、それぞれの職について通暁していたが、神さまの専門家などこれまでいなかったのだ。確かに天原にはいくつかの八幡さまと稲荷が祀られているが、これも小さなもので神主はもちろんおらず、各見世が代わる代わる清掃や補修をすることになっていた。

「とりあえず――」と虎兵衛が総籬株たちに話しかける。「この天原を依り代にして、神さまを迎え奉ることに反対意見はない、ということでいいんですかね?」

 髪にすっかり霜の降りた仙王寺屋がすっかり感動したらしく、嬉しそうにうなずいた。

「遊廓といえば、昔より女人を苦界に沈める穢れた場所と指を差されてきた。そうならぬよう、わしらも満員一致で努力してきたが、このたびのことはその努力が実ったようじゃ。確かに今は機械の時代だが、それでもやはり八百万の神の加護を感じると心が安らぎますわい」

「問題は社殿だな」と機械職人頭の清丸菊外が言った。「この天原全体を依り代にするというのだから、半端なものでお迎えしては罰が当たるというもの。ただ、神社の設営ができるような大工はここにはおらんから、宮大工をどこかで雇わないといかんな」

「では、上方へもう一度上りますか?」天原の飛行装置操縦を担う下田竜五郎が言う。「宮大工の多いところというとやはり京ですからね」

「奈良もいいが、ヤマトとの関係を考えると実現は難しい」蓬玉楼の唐鍵屋甚三郎が言う。

「やはり、京ですな」

「うん。京だ」

 屋根を青銅で葺くか桧皮で葺くか、鳥居はどのようなものにするかは宮大工を雇い、また、寿に直接、託宣をもらいに行かせてから決めることとなり、神社を作る場所は天原堤と屋台堤のあいだで遊廓に一番近いところに作ると決まった。設営にかかる費用は各総籬株が利害の関係する人々と話をして、どれだけを出資するかを決める。費用の話はそれぞれ持ち帰ることとなった。

 決めるべきことが決まると、総籬株たちはそれぞれの居場所へと戻っていく。扇と寿は岸辺へと帰る虎兵衛の舟に便乗した。

 扇は虎兵衛とともに白寿楼へと戻る道を取ったが、寿は、もう少し天原のあちこちを見ておきたい、と言って、二人とは別の道へ曲がった。

 寿は一人、道を歩く。丸石が敷かれていて歩きやすく、道の向こうには天原の照明のための燃焼ガスを作っている工場が細長い煙突を夜空に伸ばし、黒煙を吐いていた。天原が空中に浮くためのプロペラが何本も立ち、低く呻るような音を鳴らしている。

 人のいない道を照明ももたずに歩いたが、星の光で敷石が蒼白く光っていたので、道から足を踏み外すことはなかった。

 寿は経師ヶ池と遊廓を結ぶ道へ目をやった。いくつかの灯がゆっくり遊廓のほうへと動いていった。遊廓に近づくにつれて歩灯はその橙色の光に抱きこまれるようにして溶けていく。

 おそらく扇も虎兵衛と一緒に白寿楼へ戻っただろう。

 寿は立ち止まって、目を閉じた。

 一人でガス工場への道を取ってから、ずっと尾行されているのは分かっていた。

 ただ、これからすることを扇に見られたくはなかった。

 刃渡り五寸の短刀が寿の背に体当たりするようなやり方で突き刺さる。

 殺気と憎悪に震える息遣いがすぐ耳元で聞こえた。

「やあ、千鶴ちゃん。お――」

 がり、と刃が骨にぶつかる音がして、痛みに言葉が切れた。千鶴は背中の刃をひねろうとしていた。

 素人だなあ。寿は鈍い痛みを覚えつつ苦笑いする。刃が肋骨のあいだに入ってしまったから、いくらひねっても傷を広げられないし、こうなると骨に刃が引っかかって抜けなくなる。

「くっ! うっ」

 思ったとおり、短刀が寿の体を離れようとせず、千鶴の息遣いが狼狽したものに変わりつつあった。

 しょうがないな。

 寿は後ろに手をまわすと、自分の背に刺さった短刀の柄を握り、ゆっくり元の角度に戻しながら、静かに刃を体から抜いた。

 抜けた瞬間、また痛みが走り、今度は目に来た。一瞬、光が見えなくなって、暗闇に落ちかけたが、すぐガス工場の煙突の先端にちらつく赤い光が目に入り、意識を保つことができた。

 ゆっくりと、相手を驚かさないようにふり向いて、千鶴と向かい合った。薄藍のきれいな小袖を返り血で汚し、歯を食いしばって、寿を睨みつける千鶴の姿を見ると、寿は哀しくなった。

「そうだよね。あんなことされたら、忘れられないよね。忘れろっていうのが無理だよね」

 千鶴が短刀を腰だめに構えて、体ごとぶつかってきた。刃が今度はチョッキを貫いてみぞおちを深く突き、また刃をひねった。今度は難なく刃が動き、刺し傷から水の入った革袋を突いたように血が流れ出て、千鶴の顔に飛び散った。

「おれのこと――憎くて、憎くて、しょうがないよね?」

 フーッ、フーッと荒い息遣いで千鶴は短刀を抜くと、また腹に突き刺した。

 千鶴が短刀の柄を放した。

 そして、そのまま後ろへ三歩下がる。

 憎悪に食いしばった歯。肩を激しく動かして息をするが、そのたびに怒った猫のようにフーッと音がした。目に浮かぶ光は恨み骨髄に至った怒りの炎かと思ったが、どうやらガス工場の煙突から吹き出た火を映しているようだった。

「うぐ……」

 寿は自分で短刀を抜くと、その柄をゆっくり千鶴のほうへ差し出した。

「いくらでも、刺すといいよ」

 だって、おれはもう死ねないから。

 そう説明しようと思ったがやめた。ただ気の済むまで刺させる。それで少しでも憂さが晴れるなら、そうするのが今の自分にできる唯一のことなのだから。

 あれ? 見ると、千鶴の目に映ったガス工場の煙突の燃える光が揺れ出した。光は目からこぼれて、頬を伝い落ちた。

 それから止めどなく涙がこぼれ落ちて、泣きじゃくりながら少女が言った。

「父さんを、返せ」

「ごめん。それは無理。……おれが殺しちゃったから」

 睫の長い目を伏せて、自分の手に握られた短刀に見た。

「そのかわりにおれを刺して、好きなだけ――好きなだけ刺していいから」

「父さんを、――父さんを返せ!」

「それは、無理なんだよ」

 過去は変えられないんだよ。だから、

「おれを刺して。気が済むまで。そうしたら、おれのことなんか忘れて生きてね? ずるいと思うし、ムシがいい話だと思う。けど、それくらいしか言えることは、ない、んだ――」

 寿の手から短刀が離れて、刃が敷石の当たって火花が散った。

 膝を突き、がっくりと頭を垂れて、白い服にどんどん滲んでいくどす黒い染みを見つめた。

「今更、だけど、世の中には、人を刺したり、憎悪だけに依りかかるよりも、ずっとずっと、楽しい生き方があるんだ。おれもそれを知るのに、ずいぶんかかったけど、でも、ケジメはさ、つけるつもりだから……だから、おれを刺して」

 殺気が消えた。ゆっくり頭を持ち上げると、千鶴はいなかった。

「あは、もういないや」

 微笑みながら、そのまま横に倒れた。目を閉じて、耳を澄ませると、傷口から噴き出す血が敷石のあいだに染みていく音が聞こえた。

「死ねない――でも、痛いな」

 閉じた瞼のあいだから涙が一筋伝い落ちた。

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