三の四
白寿楼へ帰る道を大夜と泰宗と共に歩きながら、扇は自分の身に何があったのか、もう一度思い出そうとした。
落ち葉と川の幻影。あれは幻術の類だろうか?
「確かに相手の力の勢いを利用して、防御に用いる体術の流派はいくつかあります」泰宗が言った。「ただ、りん殿の様子はそれとは違う。あなたの攻撃を避けるのに少し体を寄せて、あなたに触れるだけであなたの体を捌いていました。体術とはまた別の何かがあるような気がします」
「あんたたちはあの道場について、何か知らないのか?」
「あんまり知らない」と大夜。「堤からかなり離れたところにあるからね。それに鍛錬だったら、見世の用心番同士で稽古をつける。姉のほうの師範代、すずは二刀をよく使うのは知ってる。万膳町でよくちょろちょろしてるしね。でも、妹のほうは滅多に自分の実力を見せたりしないんだよ」
「それを見るのも、今日の楽しみの一つではあったんですがね」泰宗は顎に指を寄せてフムと考える。「幻術の可能性についてですが、りん殿からあなたを飯綱か何かで絡め取ろうとするような様子はまったく感じませんでした。最後の打ちかかりではまるであなたは相手に差し出すように棒を渡してしまい、その場に突っ伏したのです。ただ、これだけははっきり言えます」
扇は泰宗のほうを向く。
「りん殿はあなたの息を絶つような術にかけようとしたつもりはないということです。むしろ、あなたのなかにあった、りん殿のいうところの〈流れ〉、それにはまったように見受けられました」
「そうか」扇はまた前のほうを――賑わう遊廓の灯のほうへ眼を戻した。「正直に言ってくれ。最後に打ちかかる直前のおれについて、教えて欲しい。気づいたころとは何でもいいんだ」
「それは……」
「あんたは以前のあんたに、つまり、〈鉛〉に戻ってたよ」
言いよどんだ泰宗に代わって、大夜がはっきり答えた。
「やはり、そうか」扇は少し肩を落とした。
「ただ、違った部分もある。殺気がまったく隠れてなかった。見物客たちですら、あんたの気の変わりように言葉を失って、しん、となったくらいだ。あのとき、何があったんだい?」
「おれにも分からない」扇はうつむく。「最初は棒がまるで川に突っ込んで流れに無理やり動かされたような感じを覚えた、次は自分が小さな葉で川の上を滑っている幻のとらわれかけた。それを払おうとした途端――」
扇は立ち止まって、眼を閉じた。
「自分でもわけが分からなくなった。相手を――りんを殺そうとする気がおれの体を喰っていって、止めることができなかった。もし、りんがおれの息を絶たなかったら、おれはたぶん、りんを殺していたと思う」
眼を開け、歩こうとすると、大夜に肩をつかまれた。
「これだけは心に留めておいてほしい。あんたが意識を失ったのは、あんたがりんの術中にはまったからじゃなくて、りんの言うところの万物にある〈流れ〉、あんたのなかにある〈流れ〉にとらわれたからだ。そして、その流れは――」
「昔のおれだ。殺すための道具だったころの……」
「そうだ。あんたの〈流れ〉はまだ殺すための流れなのかもしれない。だけど、それを深く考えすぎるんじゃないよ。あんたが〈鉛〉を捨てて扇になってから半年も経ってない。十数年かけて刻まれたものはそう簡単に抜けない。それはあたしも分かる」
扇は大夜のほうを向いた。真剣な眼差しに彼女の過去が映りそうなようだった。詳しいことはきいていないが、大夜の過去と扇の過去には似通ったところがあるらしい。
「あんたは――」扇はこれをたずねていいのかと思いながらきいた。「――あるか? 昔の自分が甦ってきたような気がすることが」
「ある」大夜はきっぱりと言った。
言葉が途切れ、気まずいような沈黙に口を閉ざしたまま、三人は白寿楼に戻った。
カエシの戸口から戻ったのだが、そこにたまたま遣手のお登間婆さんがいて、暮れ六ツから一刻も一体どこで油を売ってたのかとわめき出し、その他、履き物がバラバラになっているとか、用心番が暮れ六ツに見世にいないんじゃ何を用心しているんだとか、かなり叱られた。
言うだけ言うと、お登間婆さんは登楼してくる客を捌くためにオモテのほうへ戻っていった。
泰宗が苦笑しつつ、
「もし、お登間さんに〈流れ〉があるとすれば、激流ですね」
「鉄砲水だよ」と大夜。「こう、ぶあーっと何もかもぶっ壊しちまう。あれでも昔は天原で名の知られた花魁だったってんだから信じられねえよなあ。ほんとに、よくもまああんなに文句のつけどころを探せるもんだよ」
「まあ、事情はともかく用心番が三人見世を空けているのはあまりよくはありませんからね。仕事に戻るとしましょう」
「そうだね」かがんで履き物を脱ぎながら、大夜は顔を上げて、沈みがちな扇に言った。「扇。あんたも気持ちを切り換えな。あんたは今、ヤマトじゃなくて、天原にいる。そして、あんたは〈鉛〉じゃなくて、扇。天原一の大見世の用心番だ」
「ああ」
そうは答えても、どこか力がなかった。
用心番の控えの間に向かう三人の前に番頭の佐治郎が通りかかった。もう白い髪を刈り込んだ寡黙な男だが、虎兵衛の右腕として見世を仕切る手腕は天原に広く知られている。その佐治郎が扇に、
「お前は親方に会いにいけ」
と、言って、そのまま見世のオモテへ帰っていってしまった。
大夜は肩をすくめ、泰宗は、はて?と小首を傾げつつも控えの間へ向かった。扇は二人と分かれて廊下を曲がり、四階まで階段を上がって、松や行灯のある廊下と吹き抜けになった回廊をいくつか通りすぎて、虎兵衛の室の前にやってきた。
「扇だ」
「おう。入ってくれ」
八つ割り寓生花の青い素襖姿の虎兵衛は珍しく書卓に向かって、算盤を弾きつつ、帳面のようなものをつけていた。上方で稼いだ円を小判に替えた際に出てきた帳簿仕事がここにきて、虎兵衛にのしかかってきたのだ。そうでなくても、出入りの呉服屋や引手茶屋とのやりとり、旦那衆への請求書だのを楼主として確認して、さらに総籬株会議の議事録に目を通さなければいけないところに、為替取引の計算書が山のようにやってきているのだ。
「ああ、こんなことぁ、まったく面白くねえなぁ。もう計算は飽き飽きしたぜ」
と、算盤の珠の上に手を滑らせてぼやくが、虎兵衛は楼主なのだから、白寿楼の経営全般をしっかりと把握しなければいけない。
扇が腰を下ろすと、虎兵衛は、よいしょと向き直って、書卓にもたれかかった。
「知ってるか? 地上の遊廓じゃ役人に税金で儲けを吸い取られないように秘密の帳簿をもう一つつけてるそうだ。一つでも大変なのに、もう一つ、隠し立てしなけりゃあならない帳簿を抱えるなんて、おれにゃあ、とてもじゃないができないね」
「用があるときいたが――」
「ああ、そうだった。ちょいと伝えときたいことが二つあってな。決闘試合から帰ってきて、いきなり呼び出してすまんが」
「いや。あんたも忙しいところ悪いな」
「ほう。おれを気づかってくれるか。お前も優しくなったもんだ」
「そうでもない」
「まあ、そういうことにしておけ。それはそうと、お前の狙ってるあの少女、ちょいと探りを入れてみたら、身元が分かった。イセ国の豪商三津屋吉次の娘だ。名前は千鶴。覚えは?」
扇は過去を振り返るが、殺した〈的〉の顔はみな一様に色がなく、輪郭がはっきりしない。その娘といえば、なおさらだ。
「その三津屋吉次を殺したのがおれなのか?」
「いや。そのことでききたいんだが、お前、ヤマトで使われてたときの番号は三三二〇番で合ってるよな?」
「ああ」
「じゃあ、三津屋を殺ったのはお前じゃない。一番違いの三三二一番だ。記録によると、お前はそのとき補佐にまわっていたらしい」
突然、全てがはっきりと色を彩なして、目の前に現われた。
あれは二年半前のことだ。〈的〉に近づくために無頼浪人を数人雇い、盗賊の仕業に見せかけて、外出中の千鶴を襲わせた。それを三三二一番が通りがかりの旅の侍のふりをして助けた。確か、あのときはお付きの女中が浪人たちに斬り殺された。当時三三二〇番と呼ばれていた扇は三三二一番の任務遂行を補佐した。具体的に言えば、口封じのためにその浪人たちを毒入りの酒で始末した。品のいい武芸修行中の侍にしか見えなかった三三二一番はあっという間に三津屋の人々からの信頼を得ることに成功して、そして――今なら分かるが、〈的〉の娘、千鶴は三三二一番に恋をしていた。
そして、三三二一番は〈的〉に簡単に近づけるようになると、いつものように手の平を返して、千鶴の想いを嘲笑うように〈的〉を斬った。
「そのことをヤマトが少女に教えたのか?」扇がたずねる。
「いや。どうも、あの娘は自分で調べ上げたらしい。お前の属していた機関とやら、今はちょっと政局が不安定で本来なら出るはずのない情報が漏れ出している。たぶん、それでお前さんの役目を知ったんだろう?」
「分からないな」扇は首を傾げた。「どうして、あの娘はおれを狙うんだ?」
「肝心の三三二一番が見つからないから、その居所をお前の口から吐かせるつもりじゃないのか?」
「三津屋千鶴はそのために剣か銃の使えるやつや拷問の得意なやつを雇っているのか?」
「いや。雇った気配はない。お前さん相手に面と向かって問いただすつもりじゃないかな?」
「無謀だ」
「おれもそう思うけど、憎い親の仇を娘が一人追う、というのはほろりと来るな。ところで、お前さん、三三二一番ってやつの居所は知ってるのか?」
「ああ。おれが斬った」
「なんとまあ」
「そう答えて、千鶴が納得すると思うか?」
「するわきゃない。お前さんが隠してると思うだろうな」
扇は、はあ、とため息をつく。仇討ち問題もやはり難問だ。
「どうしたものかな?」
扇がつぶやくと、虎兵衛は両手の平を上に向けた。
「まあ、それは一旦置いておこう。もう一つ、お前さんに客が来てる」
「ヤマトが刺客でも送ってきたのか? それとも、仇討ちか?」
「まあ、おれも初めはそう思ったんだが、そいつを見てると、どうもそんなのじゃない気がしてな。とりあえず、オモテの部屋が全部塞がってるから、ひとまずお前さんの部屋に通した」
「どんなやつだ?」
「白い」
「白い?」
「ああ。白子ってのとは違う気もするが、とにかく白い肌なんか花魁たちが嫉妬するくらい白いし、歳はお前さんとそう変わらない感じなんだが、髪なんかじいさんみたいに真っ白で、着てるものも洋装なんだが、中折れ帽から背広まで白い」
「武器の類は持っていたか?」
「いや。刀も銃もなし。とはいっても、こっちも身包み剥いで調べたわけじゃないから、小刀くらいは隠してるかもしれないな」
「他に特徴は?」
「何とも、飄々としていて、古い知り合いだっていうから、てっきり昔の殺し屋仲間かと思ったが――どうも違う気がするんだよな。一種の神仙の気とでもいうのか、何だか人間離れしたようなふうがあるんだよ、そいつは」
「何もかも白いからじゃないか?」
「そうかもしれんな」
「名前は?」
「白瀬寿。名前も白いな。たぶん偽名だと思うが」
「白寿楼にかけたのか?」
「そうじゃないか? 門前払いにするか、半次郎を呼んでとっつかまえて簀巻きにするかと考えたが、どういうわけだか、おれはその白瀬ってのをお前の部屋に通すことを許しちまったんだよ」
「とりあえず、会ってみる」
「誰か援護をつけるか?」
「いや、いい」
「そうかい。まあ、何かあったら、こいつを鳴らせ」
そういって、虎兵衛は真鍮製の小さな竹筒のようなものを扇に渡した。片方には丸い輪が付いていて、それが留め金にくっついていた。
「なんだ、これは?」
「自動呼子って言ってな。なんでも空気をぎゅっと潰して無理やり小さくしたものがこんなかに詰まってる。この丸い輪っこを引っこ抜くとその空気が一気に笛から漏れ出して、でかい音がなる。それがなったら、お前さんの部屋へ突撃するように半次郎たちに伝えてある。まあ、万が一の用心だ」
「礼を言う」
「いいってことだ」