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廓雲と扇の剣士  作者: 実茂 譲
第三話 流れる扇と二つの鈴
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三の三

 天原堤の五本松茶屋は天原で唯一の「普通の」茶屋だった。遊廓の茶屋といえば、通常は引手茶屋であり、遊女と客のあいだを取り持ち、値段や取り決めをし、酒席も設けるところを指す。

 遊女が客に見向きもされずに暇にしていることを「お茶を挽く」と言うくらいなので、本物のお茶は縁起が悪い。白寿楼では茶室に改造された廻り部屋があるが、それも付き合いの長い馴染みの客に特別に許したことであって、普通、遊廓では茶室どころか、茶そのものが飲まれない。

 茶を出す席には代わりに白湯を出す。もっとも最近は舶来の珈琲を出す新し物好きの見世もある。

 だが、やはり縁起が悪いとは言っても、たまには熱い玉露が飲みたくなるもので、そんなとき五本松茶屋に行けば、普通の緑茶が飲めるのである。

 天原堤が脇へ広がってちょっとした広場になっていて、五本の見事な松がその広場を囲うように立ち、広場の奥に茅葺き屋根の五本松茶屋がある。緋毛氈を敷いた縁台を表に置き、かかる暖簾は千歳緑を「ごほん松」と白く染め抜いてあった。饅頭を蒸す白い煙が小さな厨から漂ってくる。

 暮れ六ツといえば、遊廓へお客がちょうど登楼する時刻だが、すずがどう仕込んだのか分からないが、物好きの客や見世の若衆が集まっていた。なかには贔屓の花魁と毛氈を敷いて朱傘を差し、ごちそうをつめた蒔絵のお重を広げて見物する旦那もいる。白寿楼の馴染みや中郎たちも大勢いた。遣手のお登間婆さんが、やれ中郎どもがいない、客も来ない、とぎゃあすか叫ぶ文句が聞こえるような気がした。虎兵衛も見物したがっていたが、流石に楼主が見世を空けるわけにはいかないので、後で結果を――といっても、扇が負けると決まった結果なのだが、とにかくその結果を人づてに聞くことで我慢することにした。

 もう刻限は過ぎていて、真っ赤に焼けた空は徐々に藍に傾き、星がちらりちらりと空にかかり始めている。扇は床几に座り、もう一刻前から待っていた。装束はもちろん虎兵衛との約束どおりきちんとしたものを纏っている。得物は六尺一寸の六角棒である。

 すずが妹を刻限どおりに来させないつもりでいることはもうだいぶ前から知れていた。というのも、まだ太陽がかんかんに照っている時刻から茶屋の前の広場に篝火を焚くための薪が積んであったのだ。つまり、日がとっぷり暮れて夜になるまで、対戦相手は現れないということだ。

 勝者は遅れてやってくる、というのは巌流島の故事にのっとったことになるのだろう。ただ、佐々木小次郎と違い、扇は平常心を保っている。馬鹿みたいな格好をさせられることに比べれば、待つことなどどうということもない。そもそも扇は負けることになっている試合である。焦る理由がなかった。

 殺気はもちろん、剣気も熱気も覇気もない。相手の得物はたぶん木刀か何かだろう。まさか真剣ということはあるまい。扇は、とっとと打たれて、見世に帰ろうという気でいた。

「ああっ、おっせえなあ! もう!」

 扇側の立会い人である大夜がじれったそうに地団駄を踏んでいる。まるで大夜が試合をするようである。

 どうせ扇が負けると決まっていることは重々承知のはずなのだが、さっきから落ち着かず、扇の後ろで歩数にして七の距離をうろうろ往復している。

 もう一人の立会人は泰宗で一見泰然自若、落ち着いて見えるが、立て続けに五本も煙草を吸っていた。

 どうしてこいつらがじりじりするのだろう、と扇は不思議でしょうがない。

 ただ、扇に不安がまったくないかと言えば、嘘になる。

 というのも、相手側の立会人がすずと火薬中毒者なのだ。

 そして、火薬中毒者が提唱した決闘方法のことが早速耳に入ったのだが、火薬中毒者はこの試合は火薬を用いて勝敗を決するべきであり、自分はどちら側にも機会が平等に与えられていて、かつ万人の納得がいく決闘手段を考案したと言っている。

 その方法というのが、火薬中毒者が試作中の火薬のなかで飛び切り強力なやつで爆弾を作り、導火線を五間の長さにする。そして、導火線に火をつけて、外から爆弾の様子が分からないように箱に入れて、それを扇とりんで押しつけ合い、爆発したほうが負けというのである。

 すると、かつての銚子警備隊機械技師見習いで現在の白寿楼お抱えカラクリ番の久助がかつて千葉荘を震撼させた「火薬機関」の復活を目論んだ。久助の言い分ではこの試合は進取の気勢に欠けていて、この産業革命の世において、木刀で殴り合って勝敗を決めるなど時代の進歩に対する反逆であり、末代までの笑いものになる。久助は火薬主義者の方法に彼のいう「進取」というものを加えた。その決闘方法は久助が大急ぎで例の火薬機関を二つこさえ、扇とりんを鎖でそれに縛りつけ、機関を始動させる。そして、空に飛んで花火と弾ける前に脱出できたほうを勝ちとするというのである。もちろん、弾けたほうは負けである。

 火薬主義者と久助、あいつらはおそらくおれを苦しめるために生み出された悪鬼の類に違いない。扇はそう確信している。シモウサという土地の狂気を凝縮したのが、火薬中毒者と久助なのだ。

 そこにすずのずる賢さが加わると、事態はまったくの未知数となる。問題は当の決闘者である時千穂りんがどれだけの狂気を孕んでいるかだ。

 なんといっても、あのすずの双子の妹である。つまり、すずと同じものがもう一つ存在するということだろう。

 そのとき、広場を囲う人垣が割れた。

 相手がやってきたのかと思ったが、やってきたのはすずと火薬中毒者、そして久助の三人だけだった。爆弾を入れるための箱や椎の実型の火薬機関はないらしく、カラクリ外套を羽織った久助と書生姿の火薬主義者はむくれた顔で鉄籠に薪を突っ込んで、篝火を焚き始めた。ぱちぱちと薪が爆ぜる音を聞きながら、ひとまずの危機は脱したことに扇はほっとため息をついた。

 全ての篝火に火が入ったところで、たたた、と駆ける音が聞こえ、白の帷子に黒の袴を履いたすずそっくりの少女がやってきた。相当急いで走ったらしく、広場のなかに入ってからもしばらくは手を膝について、はあはあと息を整えていた。

 そして、ゆっくりと、まるで嵐の後、巣穴から顔を出す小動物のようにおっかなびっくり辺りを見ながら、

「ご、ごめんなさい!」

 と、頭を勢いよく下げて、後ろに一束に結った髪をなびかせつつ謝った。

 ここが巌流島であれば、「小次郎、敗れたり!」と一喝するところである。

 すずにそっくりの妹りんはまず刻限に遅れたことを謝った。どうやら、すずは妹にたっぷり一刻遅めの時間を伝えたらしく、それについ今さっき気がついたらしい。そのことをまわりの観客に謝り、そして、そもそもすずが勝手に置いた看板のことでこんな大事になったことを謝った。あちこち向き直っては頭を下げたものだから、髪が乱獅子のごとくぶん回された。そして、特に扇に対しては目の前五歩の距離まで恐る恐る近づいて、

「あ、あのっ、このたびは姉さんのせいで、大変なことになってしまって、本当にごめんなさい!」

 と、深々と謝ったのだった。

「し、試合ですけど、したくなかったら、あの、本当にしたくなかったら、言ってください! あの看板は責任を持って片づけさせますから!」

「ちょっとっ。それはないんじゃないかなあ」とすずが口を挟む。「せっかくの努力をそんなふうにとられるなんて、お姉ちゃん悲しいよ」

 りんは瓜二つの姉をきっと睨み、

「姉さん! 道場のことで人に迷惑はかけないって約束でしょう!」

 と、きつく言った。

「迷惑なんて誰にもかけてません。ねえ、扇さん?」

「正直、かなり迷惑だ」

「ほら、姉さん! やっぱり迷惑かけているじゃないですか!」

「う……」

 すずは言葉に詰まった。りんが粛々と続ける。

「時千穂流武術は人を助けるための武術です。こんなふうに人に迷惑をかけてることを亡くなったおじいさまが知ったら、きっと姉さんのことをしかります。おじいさまがしからなくても、わたしがしかります。扇さん。初めてのお目にかかりで、このような大事に巻き込んでしまったこと、深く謝ります。気が乗らないのに武術を使うのは武芸者として最も控えるべきことです。もし、お嫌でしたら、言ってください。わたしが負けを認めます」

「りん!」と、いつもふざけているようにしか見えないすずが珍しく真剣な顔をして妹の言葉を遮った。「あなたの悪いところは自分を小さく評価しすぎるところだよ。おじいさまは自分をよく知ることが何より大切だって言ったでしょ? あなたはすごい実力を持ってるんだから、軽率にそれを落とすようなことは姉として、いえ、武芸者としてゆるさないよ!」

「だからといって、その気がない人に武器を取らせるわけにはいきません!」

 そっくりな顔が真剣な眼を交し合っている。

 見物たちも、なんだなんだ、試合のかわりに姉妹喧嘩が始まったぞ、と暢気なことを言っている。

 扇はというと、呆気に取られていた。

 すず、久助、火薬中毒者といった具合に危険人物を立て続けに見てきた後に現われたりんの存在はとても新鮮だった。よく人が何か悪いことに誘惑されようとすると、その人の善の部分と悪の部分がその人の心のなかで戦うという例えを聞いたことがあったが、目の前の姉妹喧嘩はまさにそれだった。

ひょっとすると、このまま帰れるかもしれないな、と扇は思ったが、そこはすずの狡猾さが勝った。

「扇さん!」すずは一旦妹から退却し、攻め口を変えるつもりで、扇にはっしと視線を移した。「このまま、帰っちゃうんですか? それって興が冷めちゃうと思いませんか?」

 思わぬ指摘に扇は、ん? と呻る。

 周りを見回すと扇たちを囲む人垣の輪は十重二十重とえはたえに厚くなっていて、人垣が邪魔で見えぬと松の木に登っているものすらいた。場は扇とりんの対決を待っている。この試合はそもそも扇が負けるということになっていて、実は観客たちの半分以上がそれを知っている。それにも関わらず、観客たちの眼には爛々と光るものがある。それは何も眼に映った篝火だけではないだろう。

 すずの言うとおり、この場には興が沸いてしまっていた。これを冷ますのは――おそらく虎兵衛ならそうしないだろう。こういうときに、虎兵衛ならばどうするか、と考えてしまうのはある種の弱みだ。が、そう思いつつも、

「わかった」

 と扇は言った。

「立ち合おう。ここでやめたら、まったく興ざめだからな」

 結局、全てはすずの思い通りになってしまった。そして、りんの半ば諦めたような顔を見ると、こういったことはこれが初めてではないらしい。

 扇は立ち上がると、小袖をたすき掛けにして、袴の股立ちを高く取り、六角棒を手にした。

 対するりんは何も持たずに二歩前に進んだ。

「得物は?」

「ありません。あ、その、扇さんを侮っているとか、そういうことじゃないんです。時千穂流武術のなかの流術というのを使うんです」

「流術?」

 聞いたことのない武術に扇は怪訝な顔をする。

「森羅万象のなかに必ずある〈流れ〉を利用するんです。相手の〈流れ〉を捉えて、攻撃をいなすんですけど。うーん、と。口で説明するのはちょっと難しいんですけど、その、まあ、とにかく打ちかかってくれれば分かると思います」

 打ちかかってくれば分かる。かなりの自信と実力がなければ言えない台詞だ。

 りんの体は細い。華奢といっていい。いくら棒であってももろに打撃が入れば、一生ものの怪我を負うことになるかもしれない。

 ともあれ、ここは言われたとおりに打ってみるしかない。

 扇は棒を相手に真っ直ぐ向け、棒先を腰より拳一つ分低く構えた。下方から浅くすくい上げるような突きは見切りづらく、また相手をわざと誘い込みやすい構えだった。

 りんは相変わらず、立ったままで両の手も横にぶらんと垂れている。

 号令をかけるものもないまま、六間離れた位置でお互いに向かい合う。扇は構えを変えずに少しずつにじりよるように間合いを詰めていく。

 一番近い場所に立った篝火に蛾が吸い寄せられて、じゅっと燃える音がした。

 それを合図とばかりに扇が突きかかった。

 六尺一寸の棒の左片手突きがあっという間に四間半の間合いを詰め、りんの肩へ伸びる。

 だが、次の瞬間には扇は棒をまっすぐ伸ばしきったまま、りんの後ろ五歩の位置に身が入れ替わっていた。

 りんの肩を狙い、かわそうとしたところで棒を引き戻し、相手の手をしたたかに打つはずが、扇の攻めはかすりもせずにいなされた。

 りんは半歩ほど体を右によせただけだった。

 裂帛の気合を込めた渾身の一撃を難なくかわされて驚く扇だが、少なくとも十七の歳までは一度も任務をしくじることのなかった扇である。すぐに体勢を立て直し、りんへ振り向き様に胴払いを見舞った。踏み込みは十分のはずが、どういうわけだか一歩下がっただけでりんにかわされてしまった。

 感覚が違う、扇は瞬時に覚った。

 棒を通して伝わってくるのは、表面は穏やかでも粘り強く流れる河の水に刺さった櫂を握っているような感覚で、りんを突くか打つかすると、棒が勝手にりんを避けてしまうのだ。

 ちょうど川の水が岩の前で左右に分かれるように。

 そのとき扇は自分が川面に浮かぶ一枚の葉になったような気にとらわれかけた――上流から葉をいくら散らしても、葉は岩にぶつかることなく川の流れによって左右に分かれ、また同じ一つの流れに合する。扇がりんと対峙して感じているのはそれだった。

 幻だ、扇はそう感じて、気をしっかり持とうとした。自分は川面の落葉などではない、おれは扇。自分の一撃は落葉などではない。岩をも飲み込む怒涛の洪水だ。

 怒涛の洪水と考えた途端、血が沸いた。もう、わざと打たれるなどという考えは微塵もない。

 殺気が止めようもなく体に満ちていき、〈鉛〉だったころの自分を動かすたった一つの意志――殺すための道具へと戻っていく。

 体が勝手に動いた。

 扇は肋骨を破って心臓を潰しかねない渾身の突きを放っていた。

 棒先がりんに達する直前――

 落葉がもまれて、水中に沈む景色が脳裏をよぎった。

「っ!」

 そして、息苦しくなり――

 気づくと棒は体をめぐらせたりんの手のなかにあり、扇はその足元に伏していた。

 扇は右肘で何とか上半身を支え起き上がろうとするが、いくら息を吸おうとしても喉に痛みが走るばかりで呼吸ができなかった。

「あ、ぐ……」

 扇の意識はまだ川の中だった。

 暗い水の中。

 落葉がどんどん沈んでいく。

 水面で狂い躍る光が遠のいていく。

 川底の冷たい石に触れる。

 石ではない、落ち葉だ。

 何百枚という落ち葉が川底にたまっていた。

 自分はそのうちの一枚。

 そう思うと気が遠くなり、光がどんどんぼやけていった。

 何かが自分をくわえる。

 銀色の鈴のようにきらめく小魚だ。

 小魚は必死にヒレを動かして、自分をくわえたまま、光が瞬くほうへ泳ぐ。

 光が大きくなり、そして――

 魚が飛び跳ねた幻影とともに扇は息を吹き返した。

「よかった!」

 りんが歓声を上げる。

 意識を取り戻した扇の視界に、ほっとしているりん、そしてあっけにとられた大夜と泰宗、それに見物人の姿が目に入った。

「大丈夫ですか? 息はできます?」

「あ、ああ……」

 扇は頭を左右にめぐらせた。野次馬たちの人垣に囲まれている。ここは五本松茶屋の前の広場だ。落ち葉の積もった川底ではない。

 まわりの野次馬たちはありゃ一体なんだったんだと言い合った――丸腰の女の子がちょっと体を傾けただけで、六尺越えの棒が丸腰の女の子の手にするりと移って、持ち主のほうは地べたにぶっ倒れた。こりゃあ妖術かもしれねえぞ。妖術封じのおまじないでも唱えとけ。それならいいお札がありますぜ、旦那、一枚二銭でどうでしょ? すっこめ、このやろう。

 勝負が決まると、見物人の人垣が崩れていき、廓と万膳町のほうへとばらばら流れ去っていった。

 扇はりんを見た。ともかく勝ちは勝ちだよ、と言って喜んでいるすずをよそに、りんは扇にひどく哀しげな眼を向けていた。

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