三の二
「ひどいな。扇」
その夜の夢に出てきた三三二一番はぷくう、と頬を膨らませてむくれてみせた。
「そりゃ、〈鉛〉だったころは趣味の悪い殺し方もずいぶんしたけれど、今のおれが素人の娘をキミにけしかけたりするわけがないだろう?」
「じゃあ、あっと驚く出来事ってなんだ?」
「それはまだ秘密さ」
「知ってるか? 夢っていうのはおれの心の奥底のものが湧いて出た結果だそうだ」
「へえ、誰がそんなことを?」
「名前なんて知るもんか。どこかの異人がそう書いた」
「おれはおれさ。おれがキミの妄想の産物なんかじゃないことはじきに証明してみせるよ。それはそうと、キミにはいい忠告をしてくれる人間が必要だ」
「お前はもう人間じゃないだろ。死んだんだから」
「じゃあ、いい忠告をしてくれる死人が必要だ。死んだからって物事のイロハが分からなくなったわけじゃないんだからね。ところで、白い鳥居はまだ持っているのかい?」
「ああ」
「捨てたりしちゃダメだよ。バチがあたるからね。きちんと祀れば、ご利益もあるさ」
「それとおれの抱えた問題にどんな関係があるんだ?」
「関係あるかもしれないし、ないかもしれない。おれが言えるのはここまで。そろそろ朝が来る」
「目を覚ます前にききたい」
「なに?」
「おれを恨んでいるか?」
三三二一番はきょとんとした顔をした。
「おれが? キミを恨む? どうして?」
「理由はどうあれ、直接手にかけたのはおれだ」
三三二一番は睫の長い目を優しげに細めた。
「扇。あれはおれが生きているあいだにキミが友達として、おれにしてくれた最初で最後の証だと思ってる」
「だが、楽園を探したのはお前が先だ。その命をおれが断った。そして、おれは今――」
まるで断ち切られるように目が覚めた。
薄い布団を除けて、立ち上がり窓辺に寄る。
扇の部屋はカエシの二階にあり、障子窓が横道に面して開けてある。障子を横に動かして見上げた空は藍に閉じていて、蒼ざめた星が一つ二つかかっていた。だが、流れる雲は琥珀をとかしたような色を見せている。夜明けは近いだろう。
見下ろした横町は暗く、仲町も同様だった。扇の部屋からは例の少女が隠れていた――少なくとも本人はそのつもりだった――妓楼の角が見える。さすがにもう少女の姿は見えない。だが、あきらめて天原を出て行ったとも思えない。きっとどこかに宿を取っているのだろう。奉公人としてやってきたとは考えられない。それでは扇を見張る時間をとれないからだ。
本気を出して探せば、すぐに居所はつかめるが、本気になれないし、なる必要もないし、居所をつかんでも何をしたらよいのかさっぱり分からなかった。虎兵衛は軽挙に出ないよう言っていたし、その忠告に従うのがいいように思えた。
それに今日で一つ、厄介事が片づく。
つまり、道場破りのことだ。
何でもいいから、とにかく負けて、それであの煩わしい看板を片づけさせる。
一本取られて、参ったといえばいいだけだから、扇が抱えている三つの厄介事のなかでは一番簡単に解決できるような気がした。
ふと、夢のなかで言われたことを思い出す。
――きちんと祀れば、ご利益もあるさ。
あのアワの鮫浦村へ続く林道を歩いていたときに見つけた白い鳥居はまだ帆布製の背嚢に入っている。
取り出して見たが、一点の曇りもない白い石一つで作られたことを除けば、特に変わったところはない。
鳥居を書卓に立てて、試しに二度、手をぱん、ぱんと打ってみた。神社の参拝の正しいやり方など扇は知らない。手を洗うのにもいろいろ作法があったはずだ。手を合わせたまま、眼をつむり、これまで一度だって信じたことのないご利益のために祈る。
だが、何を?
戦勝祈願ではないことだけは確かだ。今日の試合は負けることが前提の試合なのだから。
どうも自分には神さまのご利益とやらはすぐに必要というわけではないらしい。
人の行き交う音や、おはよう、おはようございます、と挨拶を交わす声が聞こえてきた。もう朝なのだ。
見世のものがみな目を覚まし、集まって朝餉を取り始めた。扇も自室を出て、用心番部屋に集まって、大夜らとよく漬かった大根の味噌漬けに舌鼓を打った。
そこにすずがやってきた。
「いたいた」
洋装剣士姿はいつもどおりだが、陣羽織の折り返しが八重の山吹模様になっている。毎回会うたびに折り返しの模様が違う陣羽織を着てくる。そして、何が入っているのか知らないが黒い漆がところどころ剥げた担い唐櫃を背負っていた。
「いま食事中だ」
扇は、もはや、通例となったつっけんどんな態度で返す。
「すぐ済みます。今日の道場破りのことなんですけど――」
「ちゃんと負けるから安心しろ」
大夜は興味津々であからさまにじろじろ見てくる。泰宗は一見気にせず食事をとっているように見えたが、二人のやりとりを聞くべく耳を澄ませ、かじると音がうるさい漬物を避け、しずかに味噌汁を飲んでいる。唯一の例外は半次郎で朝から栗羊羹を一本丸々ぱくついていて、それ以外のことには一切我関せずの態度を取っていた。
「服のことで相談がありまして」とすずが言った。
「服?」
「いつも扇さんが着ている黒と灰の服は地味じゃないですか。もっとこう、古今無双を自称する武芸者ならきっと着るだろう装束を考えてきました」
そう言いながら、唐櫃を下ろして、蓋を開けて、中身を取り出した。
それはマヌケにトンマをかけたやつが着るに違いない代物だった。
まず上に着るものだが、それはフロックコートだった。ただし凄まじい赤の生地に青い鰻と緑のすっぽんのような模様が染められていたが、それは事実鰻とすっぽんであった。
袴はというと格子模様の義経袴なのだが、その色が、日本に生える草では絶対に出せないであろう五色――派手な紫、主張の激しい銀、ちょっとお目にかかれない橙、偽物くさい金、体に悪そうな緑を用いていて、見ているだけで目がちかちかしてきた。
そして、トドメは袖なしの羽織りだが、これは金色のビロードで袖口には昔のキリシタン大名の襟に似たフリルが付いている。
こんな珍妙な衣装は常人では絶対に思いつかない代物であり、これを思いつくための術が時千穂流兵法の一つなのだとすれば、時千穂道場が流行らない理由もうなずける。
だが、時千穂流兵法が繰り出す衣装の工夫はさらに飛躍していた。
「これは何だ?」
ビロードの袖なしの背中に直径一寸長さ一尺ほどの竹の管が背骨に沿うように縫い付けてある。
「ああ、それは旗ざし物を指すための管です」
「旗ざし物?」
すずは巻物のようになっている旗を伸ばした。長さ五尺幅六寸ほどの旗には赤字に黒のごつい行書で「古今無双扇流 天下無敵」と書いてあった。
「立会いにはこれを指してきてください」
一番楽な厄介事だったはずの道場破りが突然難易度を上げた。大夜が、ぎゃっはっはっ、と引っくり返って、足を畳みの上でバタバタさせている。泰宗はすすっていた味噌汁を思いっきり吹いたらしく、まるで切腹でもしたみたいにうずくまり、大笑いするのを我慢して小刻みに震えていた。例外はやはり半次郎で本日三本目の抹茶羊羹にかぶりついていて、この馬鹿の極みの装束を一顧だにしなかった。
「こんなもの着ないぞ」扇はきっぱり言った。「もう看板なんか知ったことか。飾るなら飾れ。好きにすればいい」
「そんなっ。約束と違うじゃないですか」
「それはこっちの言うことだ」
「あっ、そうか。ちょっと地味でしたね。じゃあ、これも――」
そう言って取り出したのは金色の龍の頭と派手な鍬形のついた南北朝期の兜で、さらにすず曰く、強そうに見えるであろう付け髭を取り出した。
扇は力尽きたように、がっくりと頭を垂れた。常識の限界ははるか遠くに霞んでいた。一体、どうやったら、こんなことが思いつくのか、扇はまるでそこにいない何か高度な知能を持ったものに――人智を越えた出来事を理解できる存在に話しかけるようにたずねた。
すると、驚きの答えが返ってきた。
「実は職人町に住む火薬中毒者さんに手伝ってもらったんです」
火薬中毒者! その名を聞いた途端、扇の頭にかかっていた靄が晴れて、全てがつながった。鰻とすっぽんの柄を捺染した真っ赤なフロックコートに兜をかぶせるという発想はあの火薬の食い過ぎでタガが外れた頭から生まれたのだ。
それにしても、もっとはやく注意するべきだった。このずるがしこい時千穂すずとあの火薬そのものよりも危険な火薬中毒者が知り合いになることの危険性を。
シモウサの一件以来、火薬中毒者は最高に美味な火薬を作るという究極の目標をすえて、花火屋に勤めていた。その化学知識の該博なことと湧くがごとき発想力ですぐ職人町で頭角を現わし、天原の大見世や貸座敷のほとんどが花火を上げるときはみな火薬中毒者に花火を注文していた。
そして、究極の火薬を発明するための研究資金を稼ぐためにどうやら西洋で使われ始めた化学染料に改良を加えたものを販売しているらしい。
そして、すず曰く、装束について火薬中毒者に相談したところ、彼は自分のことを扇の奴隷と称し、扇の着る装束のために最高の化学染料を提供することは奴隷の義務だと誇らしげに言ったとか。
奴隷の定義が扇の知らないうちに書き換えられたらしい。いつの間にか、主にマヌケな格好をさせる人間を奴隷と呼ぶようになっていたのだ。
火薬中毒者とすずが知り合いになっていたことはもはや意外でも何でもなかった。人として軸がぶれているもの同士、寄せ合う何かがあったのだろう。
問題はこの難局をどう打開するかにあった。このマヌケた衣装は終わりではなく、終わりの始まりであり、すずと火薬中毒者がこれから扇にもたらすであろう惨事のほんの挨拶に過ぎない。
大夜は、大笑いの発作がおさまったらしく、涙を拭いながら、すずに、天原に住む写真家に着色のうまいやつを知っているから、この素晴らしい衣装を着た扇の姿をきちんと色彩込みで永遠に保存できると請け負った。泰宗はさすがにそこまでするほど残酷ではなかったが、止めるそぶりは見せない。
だが、捨てる神あれば拾う神あり。意外なところから助け舟が出た。
「なんだ、こりゃ? 馬鹿丸出しじゃねえか」
虎兵衛がひょっこり現われて廊下から部屋を覗き、畳に広げられた珍妙な衣装を見て、端的に評した。どうやら大夜の馬鹿笑いを聞きつけて何か面白いことがあったらしいと様子を見に来たようだ。
「ひどいです、九十九屋さん!」すずが傷ついたふうに不平を言う。「一生懸命考えたんですよっ」
「いや、すまんすまん。でもね、すずちゃん。こりゃあ、いくらなんでもだよ。いや、おれもバサラに理解はあるつもりだが、こりゃただのマヌケじゃないか。興が乗らないな……なあ、こうしよう。おれがきちんと武芸者らしい装束を見繕って、扇に着せる。だから、これはいったん引っ込めるとしようや」
「これ、かっこいいと思うんですけど……」
「まあ、こらえてくれ。巌流島の宮本武蔵と佐々木小次郎みたいな粋なものを着せるから」
すずはむくれながらも、仕方ないと衣装を唐櫃にしまい、きちんと武芸者らしい格好をさせると何度も虎兵衛に念押しして、帰っていった。
「ちぇっ、つまんねえの」と大夜。
泰宗はまあまあ、となだめ、その横では五本目の羊羹を食べきった半次郎がようやくまわりの出来事に関心を持つことにしたらしく、なんだなんだ、なにがあったんだ、と目をきょろきょろさせている。
助かった。扇は体が芯を失ったように力が抜けて、深く深く息を吐いた。
虎兵衛はそれを見やって、ウムと一つ呻ってから、
「衣装だが、フロックコートが良くないな。燕尾服に変えればいい。兜は戦国時代のもっと派手ででかいやつ、ほら黒田長政がかぶったようなやつを――」
と、言ったものだから、ほっとしたのも束の間、扇の顔がみるみるうちに蒼ざめた。
「冗談だ」
虎兵衛は意地悪く笑いながら、
「柿渋の小袖に白絹のたすき、それと黒の野袴の股立ちを高くとって、鉢巻を結ぶ。これならいいだろう?」
と、きちんとした装束を約束した。