三の一
夏を迎えた天原は平穏無事に見世を開けている。
ところが、扇は奇妙な夢を見て、また、〈鉛〉だったころの自分に肉親を殺されたらしい少女に付け狙われる。
それだけでも、やっかいなところに時千穂すずが現れて、うちの道場に道場破りに来てほしいと言い出して……
水平線の向こうの入道雲がもくもく盛り上がって、それに沈みかけた太陽の光がぶつかって、見事な色彩と陰影を見せる。蜜柑色の空に藤色の影をたたえた雲は天原の南の空へと音もなく、流れ去っていく。そして、空を飛ぶためのあらゆる工夫が施された機械たちが、蛍が水場に集まるように暮れかけの夕焼けのなかを飛んでくる。
天原遊廓へ向かうのである。
夏もいよいよ七月になり、天原の屋台堤や万膳町でもカキ氷、水饅頭、金魚、団扇が売り出される。汁粉屋も熱い汁粉では売れぬと、この季節は氷汁粉を売る。夏の甘味の一番はアイスクリームなのだが、天原用心番切っての甘党で知られる半次郎によれば、いっぱしにアイスクリーム屋を名乗るのであれば、その売り物は牛乳四合、鶏卵の黄味八つ、砂糖を最低八十匁入れて冷やさねばならないが、悲しいことにただ水に砂糖をぶちこんで冷やしただけのニセモノが大道でアイスクリームを騙っている。これはこの日本全国で行われている非道であり、天原も残念ながらその毒牙にかかっている。半次郎はそのペテン品をアイスクリンと呼び、決してアイスクリームと呼ぶことはない。
しかし、そんな半次郎の心配をよそにアイスクリンは今日も売れる。何せ値段が安いのだ。
涼を取ったり、みやげに買ったりされる団扇は天原のあちこちを撮影したものを自動描写機械にかけたもので、経師ヶ池や万膳町の賑わいが竹の骨に貼りつけた紙に人間顔負けの腕前で描かれている。もちろん、一番多い絵は遊廓のもので大見世や花魁の絵の華やかなことといったら、まるで夢を見るようである。
扇は白寿楼のオモテ、三階正面の外廊を絵入り団扇でパタパタ顔を扇ぎながら歩いていた。欄干から見下ろせば、そこは燈ともし頃の仲の町で、青々と茂る桜の向こうでは三階建ての引手茶屋の軒下に赤い提灯と畳張りの揚縁が大門まで続いている。
赤く灯る提灯がどこか仄暗さを演出する道を桜並木が貫き、遊客、遊女、女芸者に太鼓持ちたちの浮かれた空気がぬるく流れたり留まったりしていた。だが、天原はなんといっても空を飛んでいるのだから突然の強い風が吹き、仕出し屋の使い走りが頭に乗せている大きな膳の埃よけの紙が飛んでいき、鯛の舟造りや伊勢海老の天ぷらが露になることもあった。
ぴぃーっと高い音が鳴いたが、数人の通ぶった浅葱裏以外は誰も驚かない。花魁道中の始まりを告げる蒸気機関の呼子が鳴ったのだ。それを証明づけるように、唐獅子に牡丹の打掛姿の花魁が大きな長柄傘と定紋の箱提灯を湯気衆と呼ばれる蒸気仕掛けの機械人形たちに持たせ、禿を二人、それに遣手だの新造だのをつれて、八の字に足を運んでしゃなりしゃなりと歩いていく。道中というのは、ただ揚屋から引手茶屋に行くだけなのにミカドの熊野詣のように物々しい。衣装代やら年中行事やら縁起物やら、ただでさえ、出費の嵩む花魁たちはさらに自分専用の湯気衆を持たねばならなかった。しかもそれをただ使うのではなく飾り立てなければいけないというので、出費は鰻上り。だが、湯気衆のようなものを売って一財産作った産業成金の一人でも馴染みにつければ、湯気衆を団十郎のように飾り立ててもお釣りがくる。
この数週間は何もなく、平和だった。天原は上方へ飛び、商売はうまく行った。関ヶ原から西で流通を始めた円や銭といった新しい金が天原に流れ込み、帳場が煩雑な両替業務で多少の修羅場を見たようだったが、それ以外には大した出来事は見世には何も起きていない。
見世には、である。
扇のまわりでは三つほど気になる出来事があった。
その一つが奇妙な夢を見るようになったことだ。〈鉛〉の名前を捨てて以来、夢に出てくることがなかった三三二一番がまた出てくるようになった。奇妙なのは、あのおしゃべりな三三二一番が何も言わず、ニヤニヤしているのだ。扇は自分が今、三三二一番が探してついに見つけることのできなかった楽園にいることを感じていたから、そのことを冷やかすかと思ったが、向こうもそれを察知してか、わざとそのことを言わずに、ただニヤニヤしているのだ。
そんな夢が三日間続いた。そして、三日目についに三三二一番がしゃべったのだが、ただ「もうじきあっと驚く出来事が起こるよ」と秘密めかしたことを言うだけだった。
夢、という微妙な問題を話し合うのに大夜や半次郎はあてになりそうもなかったし、虎兵衛に相談するのも気が引けた。虎兵衛の、扇が困ったときに見せるニヤニヤ笑いは三三二一番が夢のなかで見せた笑みに似ていたからだ。
と、いうわけで扇は泰宗に相談し、夢についての本を借りたのだった。それは海外のものを翻訳したもので、その本によれば、夢は夢を見る人の深層心理が表れたものであるらしい。つまり、扇の心のなかの奥底にあるものが出てきたというものだった。日本では伊勢物語の序にあるように、ある人が夢に出てくるのはある人が夢を見る人間を強く思うことによって表れる、というのが一般的な見方であった。扇もそう思っていて、夢に出てくる三三二一番は亡霊か何かの一種だろうと思っていた。ところが、西洋の本は三三二一番は扇の心の奥底から出てくるという。
ますます分からなくなった。というのも、扇の夢に出てくる三三二一番は扇に秘密を持っている。そして、「もうじきあっと驚く出来事が起こるよ」と意味深長な言葉を残していったのである。夢のなかの三三二一番が扇の心から出たものならば、そのあっと驚く出来事とやらも扇の心のなかから出たことになり、それを扇が分からないというのは矛盾ではないか?
ひょっとすると、西洋人と日本人では夢の構造が違うのかもしれないな。扇はそう思った。
意味深な言葉を残して以来、三三二一番の夢も見ていない。
これが一つ目の気になること。
二つ目は気にもなるし、はっきり言って迷惑だった。
四日前、下手くそな字で「古今無双扇流」と書かれた意味不明の看板が仲町の入口惣門脇に置かれた。高さ一丈半幅二尺の看板はどうやら武術の流派を意味しているらしいのだが、問題はその看板を置いたのが、扇の仕業に違いないという噂が出てきたことだった。
真犯人はすぐに知れた。
看板が置かれた翌日の午前、時千穂すずが白寿楼にやってきて、扇に、あれは自分が明け方こっそり置いたものだと自白した。
――なんであんなことしたんだ?
――わたし考えたんですよね。うちの道場ってどうしてあんなに流行らないんだろうって。
――どうして、あんな……
――うちの道場に足りないものはなんだろうって考えて、突如思いついたんです。
――おい、聞け。どうして……
――そうっ。うちの道場には道場破りが不足していたんですよ!
――だから……
――やっぱり道場破りって道場にとっての一大事じゃないですか。師範と流浪の武芸者の看板を賭けた手に汗握る戦い。決着はいかに? 時千穂道場に足りないのは、そのドキドキだってことに気がついたんです。そういうわけで、扇さん。道場破りに来てください。
――どうして、おれがそんなことしなくちゃいけないんだ?
――だって、あんなに大きな看板を置いて、しかも流派に自分の名前を古今無双だなんて大袈裟な飾り言葉の下につけた以上、そこいらじゅうの道場を片っぱしから破ろうとするのは自然の理だと思うんですよ。
――おれには関係ないな。帰れ。それと看板はきちんと片づけておけよ。
――看板を片づけたかったら、妹と戦ってください。
――妹?
――そうです。うちの道場の師範は妹なんです。ちなみにわたしは師範代。わたしたち双子で妹はりんといいます。大丈夫です。八百長しろというわけじゃないんです。信じないでしょうけど、りんは強いんですよ。
――道場破りもしないし、あの看板もあんたが片づけないないなら、おれが自分で片づける。
――無駄ですよ。片づけたら、また新しいのを置きますから。あのくらいの板なら焚きつけにするほど捨てられてる場所を知っているんです。で、どうするんですか?
すずはもう答えは決まっているんでしょうと言わんばかりの微笑みを浮かべ、扇はどっと疲れを感じながらも、立ち合いの日と場所について決めた。
その立ち合いが明日の暮れ六ツにある。場所は遊廓と万膳町をつなぐ天原堤の傍らにある五本松茶屋の前にて、好きな得物を使って戦うこととなった。
これが二つ目。
そして、三つ目はある意味でこれが一番重要なことかもしれない。
三三二一番の夢を見始めたころから、扇は監視される視線を感じていた。尾行されていると感じて、ふり向けば相手は隠れるのだが、扇もそこは慣れたもので自分を秘かにつけているものの正体を見破った。それは十七か八、扇と同じくらいの年頃の少女だった。麻の質素だが、決してみすぼらしくは見えない小袖姿でその顔には見覚えがあるような気がしたが、思い出せない。だが、自分を見るその視線が殺気に満ちていたことを考えれば、おのずと答えは出てくるものだ。
あれは自分に大切な人を殺された娘だろう。
そうアタリをつけた。つまり、仇討ちを狙っているわけだ。
ただ、自慢するつもりはないが、扇は〈鉛〉と呼ばれていた時代、十指に余るだけの人間を殺めていたし、また、その途中で顔を見られるようなドジを踏んだこともない。もちろん彼の仕業と分かる証拠を残したこともない。
となれば、おそらくヤマトの差し金だろう。このことは白寿楼に迷惑がかかる可能性があるので、扇は虎兵衛に相談した。
――つまり、ヤマトが意図的にその娘にお前さんのことを教えて、前のことの腹いせにお前さんだけでも殺っつけちまおうと考えているってわけか?
――ああ。おそらく。
――まあ、考えられないことじゃないわな。畿内切っての軍事国家が遊女屋の親爺にしてやられたまま大人しく引き下がるわけはないってことか。しかし、自分の手を汚さず、仇討ちに乗せて、しかも年端もいかぬ少女を利用するたぁ、まったく無粋だな。興がない。で、誰の身内かは分かってるのか?
――分からない。
――詳しいことは調べておく。お前さんも気をつけろ。はやまった真似はすんなよ。
――殺したりしないさ。
――むざむざ殺されたりもするなってことだ。
こうして、夢、仇討ち、道場破りの三つがいきなり扇の身にふりかかったわけだった。
扇は三階外廊の欄干に手を置きながら、向かい側の二軒左隣の角からこちらを監視している少女を見る。見られていると気づくと慌てて視線をそらし、素人くさく物陰に隠れようとする。
殺されたりするな、という虎兵衛の忠告が思い出される。もし、あの少女が短刀を手に立ちはだかれば、以前の、〈鉛〉だったころの自分なら躊躇なくあの娘を殺すだろう。だが、今の自分には素人の娘を殺す強さはない。とは言っても、素人相手にあっさりやられるほど鈍ったつもりもない。
はあ、と扇はかぶりをふってため息をつき、ぽつりとこぼした。
「三三二一番め、まさかあっと驚く出来事ってこれのことじゃないだろうな?」