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廓雲と扇の剣士  作者: 実茂 譲
第二話 笑う扇とシモウサの姫
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二の十四

 赤い夕日が煤煙で濁った空を――湾の向こうへ沈んでいく。

 東風が亜鉛精錬所のツンとする臭いを町に運ぶ。その臭いは千葉の町が夜に沈む前触れであることを常姫は知っている。亜鉛精錬所が閉じるころには千葉の城下町のなかでも特に賑やかな通りからガス灯が点り始め、石炭を焚く黒い煙と夕餉をこさえる白い煙が空で混じり合いながら、夜空に散らされていく。眼下の灯から聞こえるのは、走り、持ち上げ、運ぶ蒸気機関の叫び声で、それは千胤城の天守から町を望む常姫の鼓膜をかすかにだが震わせる。鳴り響く蒸気機関の声は繁栄の証であり、より多くの石炭と作業を求める声でもある。千葉荘はその要求に応えることができる。天然の良港と亜鉛鉱山、軽便鉄道と一寸の狂いもなく均された街道が蒸気機関に仕事の場を与える。

 そうやって千葉荘は栄えていく。

 そうやって千葉荘はシモウサの豪族たちの垂涎の的となる。

 胤姫を追放してからの一年は戦の一年だった。近隣の豪族は妾腹の子である常姫の謀反を認めず、義による戦を仕掛けた。義による戦とは笑わせる。みな千葉の港と亜鉛が欲しいだけだ。

 常姫はそうした侵攻を全て叩き潰してきた。

 今、シモウサ西部において常姫は第一の弓取りである。他の豪族が千葉介の地位をめぐる争いに拘泥して時間を無駄にしているあいだに、常姫は千葉荘を発展させた。時間と富が許す限りの軍備拡大も行い、本拠の千胤城ちだねじょうの移動要塞化も完了した。十六の巨大な車輪と三十二の罐、そして八十五門の砲を備えた千胤城に加えて、四つの移動城塞が千葉の町を囲うように配置されている。敵につけ入る隙はない。

 これでよい。

 繁栄を眼下に眺めながら、常姫の口の端がかすかに上向く。胤姫より二つ年上で顔のつくりこそ面影はあれど、冷たい美貌の内面はずっと老獪にして狡猾である。

「姫」

 襖の向こうで声がする。

「入れ」

 常姫が答えると、家老の臼井雅楽うすいうたが現われる。

「以前より銚子に放っていた間者より報せがありました」

「申せ」

「胤姫さまがシモウサに戻られたようです」

「ほう。一人でか?」

「いえ、老僕の木工助もくのすけと、あと素性は分かりませぬが、漁師らしい男と一緒です。また、胤姫さまの行方を追う二人組の剣士のことも報告に上がりました。二人は銚子警備隊に捕らわれた後、相馬玄之丞の手引きで脱走し、今は相馬玄之丞と行動を共にしていると思われます」

「相馬か。生きていたとはな。胤姫の兵力は?」

「兵と言えるものは有していないようです」

 常姫は、ふむ、とうなずいてから、

「現在、どこにいるのかは把握しているのか?」

「東部の新興宗教の総本山へ着いた時点で消息は途絶えております。あそこに間者を送り込むことができなかったもので。しかし、姫。案ずることはありませぬ。玄之丞も、それに二人の剣士も、どうやら腕は立つようですが、剣士三人にできることなど何事もありますまい」

 常姫は天守から千葉の町を見下ろす。

 ろくに兵も持たず、シモウサに戻るとは。相変わらず甘い。その甘さで千葉を追われたのだ。

「城下と街道の監視を強めよ」常姫は家老に命じる。「手勢を持たなくとも、千葉氏の嫡流である以上、他の豪族たちの大義名分にされ、こちらに手向かう可能性もある。すぐに胤姫の隠れている場所を突き止めよ」

「はっ」

 家老が下がり、襖が閉じる。

 足音が遠のくのを確認すると、常姫は廻縁から室へ戻り、近くに誰もいないことを再び確かめて、違い棚の裏にある小さな出っ張りをひねる。

 からくりが作動する。頭上の袋戸棚に隠し箱が落ちる音。

 常姫はその箱を取り出す――誰にも見られていないと思いながら。

 だから、天井裏に気配を殺した黒ずくめの侵入者が潜んでいるとは夢にも思わない。

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