一の三
三三二〇、と番号を呼ばれる。
自分の番号を呼ばれ、三三二〇番は顔を上げる。
三三二一番がいた。深手を負っている。血がぼたぼた垂れている。まわりには三三二一番に殺られた〈鉛〉たちの死骸が転がっていた。
――アハハ、きっと最後には三三二〇が来ると思ってたよ。三三二一番は言った。
三三二〇番は自分の刀を抜く。
――あんなに楽しそうに殺してきたおれだもんね。めでたしめでたしといくとは思ってなかった。
ききたいことがある。三三二〇番は言った。
――いいよ。おれ、なんでも答えちゃう。三三二〇の頼みだもんネ。
なぜ――
突然、自分の体を押さえていた何かが引き剥がされ、光が目にあたる。
「う……」
〈鉛〉の目が開く。
木の板をはめた天井。顔には窓の格子に切られた短冊形の朝日が当たる。
そして、さっきまで〈鉛〉にかかっていた布団を手にした一人の老婆が〈鉛〉の顔を真上から覗き込むように立っていた。
〈鉛〉は反射的に飛び上がり、腰に手をやった。刀の柄をつかもうとした指が空を握る。
自分でも知らないうちに間合いに人を入れた。向こうがその気なら簡単に殺せる状態だった。
「なんだい、元気じゃないか」
老婆が言った。老婆にしては背が高く、皺に刻まれた顔には色の代わりに険が浮いている。
「こっちに来な」
「どうして?」
思わず、〈鉛〉はそう口にした。老婆は目に見えて機嫌が悪くなり、働かざるもの食うべからずだ、と言い、
「あんたが親方の命を狙ってこようが何だろうが、揚げ代払わず、見世に寝泊りする以上、あんたは見世の雇い人と同じだ。朝の掃除をするんだ。ほら、早く仕度しな」
〈鉛〉は刀を差し、革の装具を見た。棒手裏剣が六本きちんと研いで入っている。
〈的〉は気絶した自分をここまで運ばせたのだろう。〈鉛〉は考える。しかし、ご丁寧に手裏剣を研いで元に戻すとはどういうつもりなのだろう? 本当に殺されたがっているようじゃないか?
「はやくおしよ! グズだねえ!」
〈鉛〉はゆっくり振り返る。何を言われても怒ることも恥じ入ることもないので、老婆は暖簾に腕押しだと言っている。
この老婆を斬ることもできる。昨日までの〈鉛〉なら間違いなくそうしていただろう。
だが、徐々にはっきりしてくる〈的〉との会話――他のものを傷つけない限り、という約束がある。
それを守る義理は〈鉛〉にはない。
だが、破れば、昨日の三人――大夜、半次郎、泰宗らが本気で殺しにかかってくる。残念だが、一度にあの三人の相手をすれば勝算はない。
とにかく、最優先事項は任務の完遂であり、そのためにはあの約束を守らなければならない。
〈鉛〉は黙って武器を身に付け、老婆についていくことにした。
老婆はよほど口がまわると見えて、〈鉛〉を罵りながら、自分が今いる場所、白寿楼の建物について説明した。この三階立ての建物のうち、まず客が遊女と遊んだり芸人を呼んで宴をやるところがオモテ、料理番や帳面係などその他使用人の働くところがカエシと呼ばれていて、〈鉛〉の寝ていた行灯部屋はカエシにあり、これから〈鉛〉は普段客が遊ぶオモテを掃除するというのだ。
「あんたは中郎なんだから、しっかり働かないとメシ抜きだよ」
「中郎?」
「あきれた。あんた、本当に何も知らないんだねえ。中郎ってのは見世のなかのオモテとカエシ、あらゆる場所で雑用をこなすんだよ」
老婆はオモテに通じる戸を引いた。すでに衣の袖をめくり裾を端折った中郎たちがあちこちに散らばって、何かを拭いたり、掃いたり、磨いたりしている。
そこは白寿楼の迎えの間だった。ちょうど凸形に三階まで和洋折衷に吹きぬけた広大な広間は二階へ上がる階段が正面の奥にあり、二階、三階の通路は欄干があり、そして遊女たちの部屋や宴会用の座敷がある。二階と三階の壁は白漆喰で鐘形やひし形に切った障子窓にはなかにいる遊女の影が朝日に繰り抜かれて映っている。部屋の襖は金箔を雲に見立て、天原遊廓を鳥瞰した絵が描かれている。
凸形の左右の翼には小さな部屋が蒸気の力で上下に動く蒸気昇降機があり、そのなかで十歳くらいの少年が一人、真鍮の操作具をピカピカに磨いていた。
天井は梁でいくつもの四角に区切られていて、その一つ一つに花の螺鈿細工が丸く取ったなかに見事に乗っている。
老婆は見かけた中郎相手に何か落ち度を見つけては厳しく叱っているものだから、三間歩くのにも恐ろしく時間がかかった。老婆は正面の階段の脇の道へ入り、天井が低くなった廊下を抜けた。
〈鉛〉は黙ってついていった。
「あんた、名前は何て言うんだい?」
老婆がたずねた。
「どうして、そんなことをきく?」
「質問に質問で答えたら、何にもならんじゃないか、グズ! あたしがあんたに用があるとき、名前がなかったら、いったい何て呼べばいいんだい!」
老婆の声は耳にきんきん響いた。それが収まってくれればと思い、〈鉛〉は答えた。
「三三二〇番」
「なんだって?」
「三三二〇番だ」
「それは名前じゃなくて番号じゃないか」
「ああ」
「あんた、あたしを馬鹿にしてるのかい?」
「いや」
「じゃあ、番号以外の名前を言いな」
そんなものはない。自分は道具なのだ。任務の途中で使った偽名ならいくらでもある。それで老婆が納得するか分からなかった。
そこで機関が自分のような暗殺者全てを引っくるめた通称である、
「〈鉛〉」
と、老婆に答えた。
「ナマリ?」老婆が眉根を寄せる。「ナマリってのはお里のお土産が舌に乗ってくるあの訛りか、それとも鉄砲玉の鉛か?」
〈鉛〉は何も答えなかった。
「口数のないところから見ると、鉄砲玉だな」
十間四方の中庭は全て池になっていて、真ん中の亭が一つ、両脇の廊下と赤い橋でつながっていた。ここも吹き抜けの回廊になっていて二階、三階には洋風木製欄干、障子窓、豪華な襖が並んでいる。中郎たちが雑巾を手に欄干の柱一つ一つを拭いたり、廊下を雑巾を当てて走ったりしている。
中庭の角の広がりに桶に大量の雑巾を入れた若い男がいた。やってくる中郎に次々と雑巾を渡していて、〈鉛〉にも一枚、雷文模様に縫われたのを渡す。
「あんたはあのあずまやを掃除するんだ」
老婆が中庭の中央に浮かぶ亭を指差した。
「さあ、いっといで!」
水を張った小さな桶と雑巾、それに二尺五寸の刀と棒手裏剣を帯びて赤い橋を渡り、〈鉛〉は中庭の池の亭に入った。
屋根は瓦葺き、六本の柱は朱塗りの樫材で鶴、雷神、鯛、桜花、仁王、松の浮き彫りがされている。これらの絵を浮かせるために柱の表面全部を深く削り、滑らかに仕上げたらしくひどく手の込んだものだった。床は黒塗りの木床で鏡のように姿が映る。広大な迎えの間と同様、天井には絵が描いてあるが、それは見たことのない――おそらく空想の生き物らしく、鴨の嘴と水掻き、そしてかわうその胴を持った水辺の生き物らしく、尻尾は小判のように薄っぺらい形をしている。
天井の絵を見ていると、まるで耳元で怒鳴られているように、あの老婆の罵声が飛んできた。
「なに、ぼさっとしてるんだい! はやく、掃除おし!」
既に亭はこれ以上ないほど見事にきれいだったが、命令されることに慣れているせいだろう、〈鉛〉は老婆に言われるまま、亭を掃除した。邪魔になる刀を外すかどうか迷ったが、〈的〉がいつ現われるか分からないので、ベルトを後ろにまわし、刀をうまく背負う形にして留め金で固定した。性格もあるのだろう、〈鉛〉は自分でも理解できないほど念入りに亭の床、柱を水拭きし、乾拭きで仕上げた。終わると、なるほどさっきまで十分きれいだと思っていたものがよりきれいになった。あの老婆も無闇やたらと命令を飛ばしているわけではないらしい。
そう思っていると、また新しい命令が飛んできて、今度は木像や陶像の置かれた部屋へ連れて行かれた。蓬莱台と呼ばれる縁起物担ぎの像で恵比寿や大黒天に鉢がつき、小さな松が植えてある。なかには小型の蒸気機関が埋め込まれ、龍が顎を動かし体をうねらせるものもあった。今度はこれをきれいに磨けといわれた。
〈鉛〉はまた命ぜられるままに蓬莱台を磨いた。何もしないでいると余計なことを考えてしまいそうな気がしたのだ。その余計なことが何であるのか、〈鉛〉には分からなかったし、分かることが怖い気がする。
熊笹を植え均整な松が生えている翡翠の玄武像を磨いているとき、廊下のほうから声がした。
〈的〉の声だ。
部屋の出入り口に身を潜める。
壁一枚隔てたところに〈的〉がいる。
部屋の出入り口は障子がはまっているが、今は開けっ放しだった。そこからは中庭に通じる廊下が見え、池と、さっきまで〈鉛〉が拭いていた亭も見えた。
〈鉛〉は刀の柄に手をかけ、人が水に飛び込む前にやるように息を大きく吸い込んだ。
直垂に衣をひっかけた〈的〉の背中が見えた瞬間、〈鉛〉は裂帛の気合を込めた抜き打ちを首に見舞った。
刎ねたと思った瞬間、〈的〉が立ち止まり、頭を中庭のほうへ、ぐっと前へ出した。
一寸の差で刀が空振り、〈鉛〉は勢い余って〈的〉の目の前に背中を向けて飛び出る形となった。〈鉛〉は身をめぐらしながら、水平に左から右へ胴を薙ごうとするが、〈的〉は後ろへ引っぱり戻され、代わりにあの大柄な侍の半次郎が前に飛び出して、半ば抜いた刀で〈鉛〉の斬撃を受けた。
半次郎が得物を抜ききるなり、「キエエエエッ!」と甲高い声を上げて思い切り踏み込んで唐竹割りを見舞った。
〈鉛〉は後ろに跳んだ。この手の剣は一撃目を避ければ、隙が生まれ、簡単に反撃できる。
だが、〈鉛〉の予想が裏切られる。半次郎は一撃目を振り切ると、間髪入れず切り上げた。〈鉛〉を追うようにさらに前へ跳躍しながら突きを繰り出す。その大きな体格からは想像もできないほど身が軽く、〈鉛〉は次々と繰り出される斬撃を斬撃で返し、刀身に火花を散らせながら間合いを稼ごうと後ろへ跳ぶも、半次郎は膠でくっつけたように〈鉛〉から離れようとしない。
必死に避ける余り、驚いた中郎が置き忘れた雑巾を踏んだ。足を滑らせ、そのまま足を真上に上げる形で床に落ち頭を打ったとき、半次郎が逆手に持った刀を自分の胸に突き立てようとしていた。
今度こそ終わったな――ひどく馬鹿ばかしい死に方だが。
〈鉛〉は気を失った。