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廓雲と扇の剣士  作者: 実茂 譲
第二話 笑う扇とシモウサの姫
23/611

二の五

 一言で言うなら、鮫浦村は豊かな村だった。

 どの家も瓦葺の二階建てで、子どもたちは赤や青の絹紬けんちゅうの着物を着ている。家のなかには円朝の落語を流す蝋円筒式の蓄音機やシンガー社製の足踏みミシンが見える。

 機械の修理屋が店先でのんびり煙管を吹かし、その先の海への道には出来上がって間もない石造りの桟橋があった。小さな石の灯台があり、そのすぐそばから小さな橋が一本、石垣を組んで埋め立てた小島にかかっている。島には小さな社があった。

 網を手入れする漁師や女房連の顔は満ち足りた生活を送っていることを余すところなく表している。

 鮫浦村は勘当息子が追いやられる寒村からは程遠い村だった。

 扇と半次郎は海へ降りる道の途中で日向ぼっこをしている古老に話しかけた。

「文七郎さんを探しているって?」老人は言った。「文七郎さんは今はここにはおらんよ」

「どこに行ったんだ?」

「シモウサだよ」

「シモウサ? シモウサってあの戦争中のシモウサのことかい?」

「わしの知る限り、他にシモウサという国はないな。あんたたちは文七郎さんの知り合いかい?」

「知り合いというか、なんというか……」

「一応教えておくがね、もしあんたたちが文七郎さんにとってよくない客だったら、まあ、わしならこのまま来た道を戻るね。文七郎さんはこの村の恩人なんだからのう」

 文七郎が恩人? 半次郎が想像していたのはひ弱な金持ちの元御曹司が荒くれの漁師たちにさんざんしごかれいじめられ、金を稼ぐことの大変さを身に染みて理解し、性根を入れなおすという光景だったので、この老人がまるで氏神さまのことを言うように文七郎の名前を出すのが、ひどく不思議に思えた。

 扇は文七郎を見たことがないが、半次郎はある。金持ちの息子であること以外に取り柄のない甘ったれたガキで、体は葦みたいに細く、箸より重いものは持ったことがないといったふうだった。ふっと吹けば、あれあれと飛んでいきそうなくらい頼りなく、顔はなるほど役者風に整っているが、その顔が朱菊と一緒になると底抜けにだらしなくなる有り様だった。

 扇は何も知らないで、老人の言葉に答えようとしていた。

「おれたちは白寿楼の――むぐっ」

 半次郎が慌てて、扇の口を塞ぎ、繕うように言った。

「おれたちは三浦屋の旦那に頼まれて、文七郎の様子を見にきたんだ」

「三浦屋?」

「そうだ。文七郎の親父は三浦屋という商人で大した物持ちなんだが――」

 老人は虚空に向けた目を細め、そういえば、一度、文七郎さんの口からそんなことを聞いた覚えがある、確か勘当されたとか、と言った。

「そうなんだ。それでも親なんだねえ。心配になって息子が立派にやってるか、おれたちに確かめにさせにいったって次第だ」

「それはそれは。そんな方とは知らなんだ。それなら、親御さんに言ってあげればいい。文七郎さんは立派に、これ以上ないほど立派にやっておるよ。その証拠はこの村の至るところにある。みなに聞けば、文七郎さんがどれだけ村のために尽くしてくれたか、熱心に教えてくれる。試しにきいてみるといい」

 扇と半次郎はそれから村のあちこちをまわり、下は六歳の子どもから上は九十三歳の老婆まで、全員に文七郎のことをきいて歩いた。その結果分かったことは――。

 確かに一年前、文七郎はやってきた。とても漁師をできそうには見えない弱そうな体の男で村のものは誰一人、文七郎のことなど気にかけなかったが、文七郎が字を書くことと数字に強いことが幸いした。鮫浦村では貧乏で、獲れる魚は鮫ばかりで鮫の肉はかまぼこにされるために買い上げられていた。文七郎がやってきて二週間ほど経ったある日、買い上げ商人がやってきて、鮫の肉を買い上げていったのだが、文七郎は商人が秤に細工し数字をごまかしたことに気がついた。漁師たちはそのペテンを知るや買い上げ商人をぶち殺そうとして鮫漁用の銛や舟の櫂、長脇差を手にかけつけたが、そこを文七郎が何とか取りもって、命を取ることだけはやめさせた。

 文七郎が村人に認められたのはそのころからだった。村で字を書けるものはいなかったので、彼は手紙の代筆を始め、そのうち自分も漁を手伝いたいと言い出した。

 漁師たちは文七郎の学は認めても、漁師としては認められなかった。鮫打ちはひどく力のいる漁だし、また鮫の血というのはひどく臭う。慣れないものは大体吐く。文七郎も最初のうちはからっきし駄目だったらしい。だが、あきらめず、舟に乗り続けていくうちに体はたくましくなり、鮫の血の臭いにも慣れてしまった。

 村はずっとかまぼこ用の鮫を売って暮らしてきたが、例の商人の一件で商人が寄りつかなくなり、なかなか肉を売りさばくことができず、どうしたものかと悩んでいた。こんなことなら騙されたままでいたほうがよかったのではないかという意見が出たところ、そこでまた村を救ったのが、文七郎だった。

 文七郎は漁師たちに鮫のヒレはどうするのかとたずねた。用があるのは肉だけなので、ヒレは切り刻んで一緒くたにして売っていると答えた。すると、文七郎は自分にヒレを売らせてくれないかと言い出した。ヒレなど金にもならないので、漁師たちはみな文七郎に自分の鮫のヒレを預けた。文七郎は預かったヒレを背負って村を出た。一週間後、文七郎は戻ってくると、ヒレを預かった漁師の家をまわり、ここには二両、あっちは三両といった具合にヒレを売ったお金を返してまわったのだ。

 これには漁師たちもたまげた。これまで鮫の肉は一頭分全部売って一朱銀二枚にしかならなかったのが、ヒレだけで売ったら小判になったのだ。

 文七郎は清国では鮫のヒレは皇帝が食べる料理に使われる高級食材であり、また鮫浦村の鮫は特に肉づきのいい食いでのあるヒレをしているから、今度はもっと高値で売れるだろうと約束した。

 そして、今日の村があるのだった。

 おそらく文七郎はその鮫のヒレを使った料理とやらを食べたことがあるのだろう。扇はそう推測する。サガミ国随一の商人の息子なら清国の宮廷料理を一度か二度口にする機会があっても不自然ではない。

 さて、扇と半次郎はそれからが大変だった。文七郎さんの実家からやってきたということで、村をあげての歓迎が始まった。

 新築されたばかりの漁師たちの寄り合い所が扇たちの宿となり、日が暮れるころには、漁師たちが海の幸と酒を持ち込んでの大宴会となった。

 村人たちが何を思っているのかは扇にも何となく知れた。今や文七郎は村になくてはならない存在であり、何とかこのまま文七郎が村に住めるように取り計らってもらおうとしているようだった。鮫浦村はどうやら町へ昇格するらしく、住民は町長には是非とも文七郎になってもらうつもりでいた。

 村人たちの歓迎は半次郎に集中した。年嵩のほうが正式な使いであり、扇は添え物のようなものだと思ったのだろう。そう思ってもらえたほうが扇としても都合が良かった。

 というのも、村人たちは半次郎に休むことなく酒を勧め続けて、ついにとうとう潰してしまったからだ。白寿楼にいたとき、ちらりときいた話では、用心番のなかで一番のうわばみは一見大人しい泰宗で逆に下戸なのは豪快気質な半次郎なのだということになっていた。実際、半次郎は杯に三杯もらっただけですっかり正体をなくしてしまった。結局、半次郎は布団まで引きずられていき、村人たちは今度は扇を潰そうとしたが、酒ははっきり断り、食べるだけにした。そのうち、村人たちがどんちゃん騒ぎを始めて酔いつぶれると、それぞれの家の女房や娘たちがつぶれた男たちを各家へと引きずっていった。

 夜もふけて、四ツ半を過ぎるころには、村人たちはみな帰り、寄り合い所は半次郎の鼾がきこえるだけになった。

 おかげで扇も少し落ち着いて物を考えることができるようになった。

 おかしいことがいくつかある。

 まず一つ目は肝心の文七郎がいないこと。

 そして、その文七郎がなぜかシモウサ国へと行ってしまったこと。

 ところが、その理由について、扇が村人にたずねても、はぐらかされる一方でとんと分からない。

〈鉛〉だったころは拷問で必要な情報を得たが、今の扇はそんなことはする気もないし、したくもない。

 文七郎は心を入れ替えて立派になり、村のみなにも尊敬されていると報告すれば楼主も朱菊太夫も心のつっかえは取れるだろう。

「それで任務は終了だな」

 しかし、任務は完遂するまで油断はできない。

 その証拠に誰かが寄り合い所の敷地に忍び込んできた。

 賊は家に忍び込むのになれていないらしく、屋を囲む竹壁に体があたり、小枝を踏んで、パキッと音を鳴らした。

 寝間着姿の扇は刀に手を伸ばし、縁側へ動き、雨戸に半分身を隠すようにして、外の様子を窺った。

 すると、忍び込んできた小さな人影がピタリと動きを止めた。

 扇の目に射すくめられて動けなくなったというほうが正確だろう。

 だが、殺気は感じない。賊に害意はないようだった。

「そこで何をしている?」

 扇がたずねると、小さな人影はおずおずと一歩また一歩と進んできた。

「あの――」影が細い女の声で言う。「夜分遅く、忍び込むような失礼なことをしてすいません。文七郎さんのことでお頼みしたいことがあって」

「頼み?」

「はい」

 月を隠していた雲が退くと、今話している影は十六か七の少女のものと知れた。

「わたし、この村の漁師の娘でおけいといいます」

「頼みがあると言ったな?」

「はい。お侍さん。お願いです。文七郎さんの様子を見ていただきにいってくれませんか?」

 扇は黙って、おけいと名乗った娘を見た。素朴な顔立ちの娘で、青白い月光が差すなかでもその頬が赤らんでいるのが分かった。

「見に行くということはシモウサへ行くということだな?」

「はい」

「何があった? 村人たちは文七郎がシモウサへ行った理由を話そうとしないが、それと関係あるのか?」

「はい。実は、文七郎さんは胤姫たねひめさまのためにシモウサへ行かれたのです」

「胤姫?」

「シモウサ国の千葉家の姫さまです」

「話が見えない。どうして、文七郎はシモウサの姫とシモウサへ行った? そもそもなぜ、この村にシモウサの姫がいるんだ?」

「それは、……半年前のことでございます」

 一人の老僕を従えたやんごとなき娘が鮫浦村にやってきた。落ち延びてきたといったほうが正しいかもしれない。姫と言ってもその身なりは小袖に袴、大小を差した侍の姿であった。

 そのころにはもう村の顔役となっていた文七郎は何もきかず、二人を自分の家に泊めた(おそらく追放されたことで同情を感じたな、と扇は勘繰った)。娘と老僕は最初は文七郎を警戒した。だが、文七郎が村でどんなふうに慕われているか見るにおよんで、心が緩んだのだろう。

 ある日、その娘は自分がシモウサの名流で千葉氏の惣領を継ぐ身であることを告白した。ところが、同族の謀反に遭い、出奔し、ここまで落ちのびたのだと。鮫浦村にやってきたのはカズサ国やアワの大きな町では、そのままシモウサへ送還される恐れから小さな漁村に隠れ住もうとしたのだが、鮫浦村は鮫のヒレを売ることで相当な利益を生む村に生まれ変わっていたから、このまま隠れ住むこともできないだろうと思い、今日、出立することに決めた。そう告げたらしい。

 ――だが、どこへ行くんだ?

 文七郎はたずねた。

 ――わからぬ……いや、シモウサへ戻るつもりだ。

 胤姫は答えた。

 ――しかし、あなたはシモウサでは命を狙われている身だろう?

 ――左様。しかし、女人の身でもわたしは千葉の惣領だ。だから、戻る。ついてはじいのこと、文七郎どのにお頼みしたい。禄も出せぬわたしによく仕えてくれた。身勝手なお願いとは思うが、文七郎どの以外に頼れるものがいないのだ。

 ――その願いはきけないな。

 ――……そう、か。

 ――だが、一緒にシモウサへ行き、領地を取り戻す手伝いをしてくれというのであれば、応じる。

 ――し、しかし、それはいけない。文七郎どのはこの村になくてはならぬ人ではないか。戻るのはわたし一人で十分だ。

 ――村人は鮫のヒレの商いを覚えたから心配ない。おれがいなくても、大丈夫だ。それに、あのじいだって、自分一人置いてきぼりにされれば、きっと世をはかなく思って自害するに違いない。それなら、どんなことがあっても最後までそばにいたいと思うだろう。そう思わなければ、ここまでついては来ないぞ。

 ――……貴殿には敵わないな。

 ――そんなことはない。単身敵地に乗り込んでやろうなんて肝っ玉はおれにはない。さあ、やりなおしてくれ。

 ――では、改めてお頼み申す。わたしとともにシモウサへ行き、亡き父上の遺領を取り戻す助けをしてほしい。

 ――よし。確かに引き受けた。

 おけいという娘は、きっと文七郎さんには胤姫さまに特別な想いがあってのことでしょう、と言ったが、扇には違うように思われた。

 文七郎の行動は、扇が知っているある人物に非常によく似ていた――そう、九十九屋虎兵衛にそっくりなのだ。

 すると、村人たちがなぜ文七郎がシモウサへ行ったのか理由を隠したのかも判明してくる。つまり、文七郎が一種の義侠心(この言葉を扇はまだよく理解していないのだが)から、シモウサの姫君を奉じ命がけでシモウサに戻ったと知れれば、父親の三浦屋はますます文七郎を高く評価して、勘当を解き実家に戻すかもしれないと恐れたのだ。

 どうしたものか。思案する扇の後ろでガサゴソと音がした。

 割れそうな頭を抱えながら、半次郎が起きてきたのだ。

「半次郎」扇がたずねる。「あんた、きいていたのか?」

「まあ、だいたい――いてて。うえっ、気持ちわりい」

「どうする?」

「ちょっと吐いてくる」

「そうじゃない。シモウサまで文七郎を追いかけるかをきいているんだ」」

「うーん」半次郎は粘土を前にして形が浮かばない陶芸家のような困った顔をした。「その前にきいておきたいことがあるんだが――おけいさんって言ったな?」

「は、はい」

 半次郎は縁側までよろつきながらやってくると、腰を下ろした。

「知りたいのは文七郎がどうしてるかだけでいいのかい?」

「それは――」

 扇が不思議そうに口をはさむ。

「他に何かきくことがあるのか?」

「扇。お前、底抜けて鈍いな。まあいい」

 半次郎はおけいに優しく話しかける。

「こうして、わざわざ忍び込んでこっそり頼むくらいだ。それなりの事情はあるだろう?」

 おけいはうつむき、小さく首を横にふった。

「いえ。文七郎さんは村の恩人です。わたしみたいな人よりも、もっと立派な、胤姫さまのような女性と結ばれるべきです。わたしは、ただ文七郎さんが無事にいてくれれば……」

「そうかい……」

 半次郎は頭の後ろをボリボリ掻いてから、扇に、

「この頼み、引き受けるかはお前が決めてくれ」

「おれがか?」

「ああ。お前が行くといえば行く。行かないといったら、明日、白寿楼へ帰る」

 ……困った。半次郎は何か大切なものを見過ごさないように扇を見ているし、おけいは祈るような、すがるような顔をしている。

 こうして主体的に物事、特に任務について考えるというのは、これまで一度だってなかったことだ。そもそも道具扱いされていたのだ。道具に何かを主体的に考えることは期待されていない。どこまでやればいいのかはあらかじめきちんと細かく命じられ、その遂行のためにあらゆる障害を排除することしか教えられていないのだ。

 そこで、もう少し物事を簡単に考えてみることにした。つまり、今の自分は任務を完遂したといえるかどうかだ。楼主からの依頼は文七郎の様子を見るということだったが、自分と半次郎はこの鮫浦村に来て、文七郎にまつわる伝聞をきいただけに過ぎない。だとすれば、この任務は――

「――まだ完了していない」

 扇はそうつぶやくと、おけいのほうを向き、

「わかった。あんたの頼み、引き受けよう」

「ほ、本当ですか?」

「ああ、明日シモウサへ発つ」

 おけいは涙ぐんで二人に深々と頭を下げた。

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