二の四
館山湊は緩やかな坂と内海に向いた大きな入り江の町だった。
海岸いっぱいに広がった丘陵の裾に煉瓦街の並びが八本の大通りをつくり、商業港と造船所に通じている。街並みはまるで西洋の町のように整然としていた。鉄道駅の青銅の丸屋根と蒸気技師会館の機関塔が町の目印となり、この二つがどのように見えるかで、この広大な貿易都市のどこに自分がいるのかを把握することができた。おそらくこの都市を作ったものはそれを考慮に入れて、この二つの建物を作らせたに違いなかった。
飛行船も汽船も国内外からひっきりなしにやってきては人と物を下ろし、また人と物を積んで出発する。体のなかに新鮮な血液が流れるように、人と物が町のなかを流れていた。
半次郎はどうしても館山湊に着いたら、ぜひとも賞味したいものがあった。西洋菓子である。特にチョコレートを使ったものが食べたかった。
西洋菓子店を探して、町のほうへ下る。町じゅうでは蒸気機関が脚絆、車、機関車、背中に背負う噴射装置の形であちこちを移動していた。人々の服は洋装が多いが、和装が絶えたわけではない。印半纏や竹の子皮の笠をよく見かけた。外国製の乗合蒸気自動車もそのまま使うのではなく、車体を黒漆仕上げにし、うねる波と宝船、七福神の蒔絵を施して走らせた。
ただ帯刀しているものはほとんど見かけなかった。たっぷり一刻、町を彷徨ったが下っぱ巡査が銀メッキのサーベルを吊るしているくらいのものだった。
「おれたちの任務は文七郎の現状確認だ」扇が言う。「西洋甘味なんて探している場合じゃない」
「任務だなんて、大袈裟な言い回しするなあ、扇。ぼんぼんが世間の荒波にもまれてるのを見て帰るだけだなんて、お前、ほんとにそんなつもりで来たのか?」
「いや。おれをくすぐったら十両もらえると勘違いするやつがいなくなるまで、天原を離れるつもりでこの任務を受けた」
「じゃあ、時間をかけて探すこった。正直な話、うちの親方が焚きつけた興はなかなか冷めない。帰るなり大夜と泰宗に取り押さえられて、笑い茸を無理やり口のなかにねじ込まれることだってありうるぞ。それが嫌なら、できるだけちんたら動いたほうがいいってこった」
「そんなものか?」
「そんなもんさ」
何か騙されている気がする。そう思う扇だったが、しかし、筋が通っているような気もするので、仕方なく半次郎の西洋甘味探しに黙ってついていくことにした。
八ツ半ごろ、煉瓦造りの町をうろつくこと半刻、ようやく半次郎は理想の甘味に出会えた。ソーダ・ファウンテンという甘い飲み物を出す異国版の茶屋のようなもので、そこにバナナ・サンデーなる甘味があった。バナナという南国の甘い果物と一緒にアイスクリームを三玉ほど添えて、ホイップクリームとチョコレートソースをたっぷりかけ、さくらんぼの砂糖漬けを飾るという豪華絢爛な西洋甘味だった。一つ一朱のアイスクリームを三玉ドドンとのっけたその豪快ぶりに半次郎はすっかり魅了され、三杯もおかわりした。
「甘味は満喫した」扇が言った。「それで、どうやって文七郎の暮らしている鮫浦村まで行く?」
「途中までは乗り合い蒸気で、そこから歩きだ」
十一人乗りの英国製蒸気ガーニーには屋外席のために大きな網代屋根がつけてあった。乗り合い蒸気に乗ると、罐がボンボン音を鳴らし、音の鳴る間隔がどんどん狭まってようやく車は南へ道を取って動き始めた。しばらくは煉瓦の町が続いた。館山湊では輸出向けヨードチンキの工場や外国語学校のような大きな建物から庶民向け貧乏長屋まで、全て赤煉瓦でできていた。
町を出ると、車は旧街道を走る。煉瓦の建物はなくなり、道沿いには茅葺きの農家、見事な松が数本、地を鷲づかみにするように根づいている。その向こうに小さな入り江が見え、ウニ漁り海女の桶がいくつか浮かんでいる。
道を歩けば蒸気機関にぶつかる館山湊とは打って変わって、静かな田舎の風景が勝っている。産業革命の影響は見当たらないと思っていたが、それも水面から顔を出す海女を見るまでのことだった。潜水服に身を包み、顔は水中眼鏡と呼吸用のマスクに覆われている。背中に背負った木製の箱には空気の素でも入っているらしく、その箱とマスクが蛇腹管で結んであった。あれで海のなかでも普通に呼吸ができるのだろう。海女たちは獲ったウニやアワビをどさどさと桶に入れてはまた潜る。
「あの調子じゃ、海のなかに城が建ってもおかしくないな」
そう半次郎が言うと、前の席に座っていた地元のものらしい青いシャツの男が振り向いて言った。
「おかしくないどころか、現在、政府は国内外の建築家を集めて、水中城の建築を計画中ですよ」
「へえ、アワは景気がいいんだなあ」
「ええ、そりゃもう」青シャツ男は答えた。「里見のお殿さまは優れた方ですからね」
「ここに来る途中、シモウサを見たが、ひどいことになってた」
「あそこももうずいぶん長いこと戦をしてます。あなたたちはどちらへ?」
「鮫浦村までね」
「では、ヒレの買い付けですか? 見たところ商人というよりは士分の方と見受けられますが?」
「ヒレ? いったい何の話だい?」
「え、違う? 鮫浦というから、わたしはてっきり鮫のヒレを買いに来たのかと思ってましたよ」
「鮫のヒレ? そんなもん、どうするんだ?」
「清に輸出するんです。なんでも、あちらでは鮫のヒレは宮廷料理の材料らしく、そのなかでも鮫浦の鮫のヒレは特によいと評判で、館山湊からよく商人が買いつけに行くんです」
「じゃあ、鮫浦はそれなりに儲かってるのかい?」
「そりゃあもう。来年にはこの蒸気の路線が鮫浦まで延びるって話ですよ」
「へえ、鮫浦がそんなに豊かな村だとは知らなかったな」
「いえ、それが豊かになったのはここ一年のことなんです」
「ここ一年?」
「ええ、それが――」
蒸気笛がピーッと鳴った。扇たちが降りる駅に着いたのだ。
乗り合い蒸気が旧街道を走り去っていく。降りた二人は鮫浦について知ったことの感想をぽつぽつ口にした。
「てっきり貧乏神が涙して銭を施すほどの素寒貧の村だと思ってたんだがなあ」
「それがおれたちの任務と何か関係あるのか?」
「あるかときかれりゃ、ない、と答えるしかないな」
杉が鬱蒼と茂る忘れ去られた参道を歩く。真昼でも薄暗い参道は苔に覆われて滑りやすい敷石と三歩歩くごとに必ず建てられている小さな祠の他には何もない。祠のなかは樹の洞のようで、かつては赤かったであろう小さな鳥居がぽつんと立っている。半次郎は崩れかけた祠を見るたびに立ち止まりパンパンと手を打って、お参りをした。
扇は、ひょっとすると、これは人柱の跡かもしれないと思った。道に石を敷きながら、三歩進むたびに人一人生き埋めにしている人夫たちとそれを指図する狩衣姿の貴族の姿が見える気がする。あまり気持ちのいい光景ではない。
祠を三十二ヶ所通り過ぎると、杉に挟まれた参道の尽きた向こうに目に染みるような青の海が見えた。道はそこから下りになっていて、その先に目指す鮫浦村があるようだった。
「やれやれ、やっと着いたぜ」
半次郎が言った。鮫浦村が目前に見えたことで気が急いたのか、祠一つ一つにあれだけ律儀に手を打っていた半次郎は三十三ヶ所目の祠を見落とした。
先を小走りに進んでいく半次郎を追おうとした扇はふと祠のなかに目をやった。樹の洞のような造りは他のものと変わりはないが、小さな白い鳥居が一つ倒れていた。
扇はその鳥居を手にとってみた。これまでの鳥居は色が少し剥げていたが、一応赤いものだった。これは白い石を磨いてこさえたものらしく、苔が少しついている他に目立った汚れはない。経年による変色からも免れていた。
「おおーい!」既に参道の外に出た半次郎の声が聞こえてきた。「なにやってんだ? 村はすぐそこだ、はやく行こうぜ!」
扇は白い鳥居を祠に戻した。立ててやろうとしたが、祠のなかは磨かれた石のようにつるつるで鳥居を立てるための穴も開いていない。
どうしたもんか。もとあったとおりに倒れたまま放っておくか?
そう思っていると、また半次郎の急く声が聞こえてきた。
扇はそれに反応して、今行くと伝えると残り少ない参道を走った。参道を出て、太陽の下に出て、薄暗い森の道を背後に見やったとき、ふと気づいた。
手に白い鳥居を持ったままだった。
神仏を恐れるつもりはないが、何となく持っているのはまずい気がした。今から引き返して、元の場所に置いていこうかと思ったとき、半次郎が村の入口から息を切らせて走ってきた。
「おい、扇! なんだか、村がおかしなことになってるぞ!」




