二の三
「いいか。嘲笑いや苦笑いはなしだぞ」
「くすぐりや鍔迫り合いの際に浮かぶ邪な笑みもなしです」
「心からほっこりとだぞ」
「心からほっこりとですからね」
大夜と泰宗が旅装を整えた半次郎に念を押している。ほっこり、ほっこり、と。
半次郎は面倒くさそうに、わかった、わかった、と手をふって、二人を遠のける。
翌日の飛行船発着場。太陽に空がかかり、雲は東へ流れていく。房総半島行きの定期便が気嚢をパンパンに膨らませていた。
扇はいつもの格好に帆布地の背嚢を背負って、三人のやり取りをうさんくさそうに見ている。考えてみると、自分が笑えば、それでこのわずらわしい賭けも終わるのだから、笑ってしまおうと思うのだが、要求された「心からほっこりした笑み」というのを、どう浮かべていいのか分からない。だいだい、ほっこりとは何なのか? 昨夜、行灯部屋に水を入れた桶を持ち込み、水面に映った自分の顔を何とかほっこり笑わせようと粘ったが、頬が引き攣るばかりでどうにも笑えなかった。
三三二一番だったら、難なくできたのだろうな。
扇はぼんやりと思いながら、飛行船の舷梯を昇る。しつこく念押しをしてくる大夜と泰宗をふり払った半次郎が大急ぎで飛行船に乗り込んだ。
折り畳み式の舷梯が自動巻き上げ機によってカチャカチャと出入り口に吸い込まれ、飛行船がいよいよ飛び立った。船内は操縦室、二等客用の畳敷きの大きな部屋が一つ、一等客用の個室が四つ、他に機関室や石炭部屋、厨房、船員の控え室などがあり、船尾には展望用の甲板があった。半円形に出っ張った甲板には赤く塗った板床と欄干があり、その下で大きなプロペラが二つ、ごうごうと大きな音を立てて回転していた。
扇と半次郎は船尾甲板から遠のいていく天原遊廓を眺めた。よく見ると、飛行船発着場のすぐそばの丘に虎兵衛がいた。見送りのつもりらしい。
こうして天原を俯瞰するのは扇には初めてだった。虎兵衛暗殺のために天原に侵入したときは貨物船の船倉に隠れ、夜闇に乗じてのことだったから、天原の全貌を眺める余裕などなかった。
こうして遊廓や万膳町、黒煙をたなびかせるガス工場や職人町、それぞれをつなぐ堤道、屋台や小料理屋の並び、それに真っ青な空を映した経師ヶ池を空の上から眺めると、天原は空飛ぶ盆景のようだった。
畳み敷きの大部屋に戻ると、半次郎が蒸籠から出てきたばかりのこしあん饅頭をハフハフと熱そうに食べていた。
「お前も食うか?」
「いや。遠慮する」
半次郎は答えも聞かず、次の栗饅頭を口のなかに押し込んでいた。
扇は背嚢を下ろすと、それを枕代わりにして、横になった。
他に畳部屋にいる二等の客はカンドリヤ売りが六人と、山高帽にフロックコート姿の外交販売員が一人。カンドリヤ売りというのは「カンドリヤ」と書いた三度笠と「神仙龍麝丸」と書いた下げ鞄を重ねて置いている六人の薬売りで、みな藍色の着物姿で旅脚絆をほどいてくつろいでいた。外交販売員は要するに行商人であり、売り物は「蒸気機関ケミカル丸」という丸薬でそばにいるカンドリヤ売りとあまり変わりがない。ひょっとすると全く同じものを売っている可能性さえある。ただ、行商人や振り売りが洋装すれば、外交販売員という厳めしい名を与えられ、ハクがつく。事実、このあぐらをかいた外交販売員も、自分はそこのカンドリヤ売りよりも一等優れた人間なのだと思っている節があった。たとえ同じものを売っているとしてもだ。
天原を飛び立って半刻。
気持ちよく照る太陽の下、飛行船は東海道の沿岸沿いを飛んでいた。
左側の舷窓からスルガ国の景色を見下ろす。
外輪汽船や鋼鉄の砲艦が浮かぶ入り江や山あいの谷にひっそりとこずむ湯治場、鉄道が山や川を刺し貫いて一直線に走り、宿場町の瓦屋根が魚の鱗のようにきらきらと輝く。
すると、飛行船は海岸を離れて、海の上を東へ飛んだ。
しばらく陸のない景色を飛び、また半刻後に見えてきたのはシモウサ国の沿岸だった。
海岸線と丘のあいだの平野で白茶けた亀のようなものが北に三十、南に三十ほど陣形らしいものを組んで、ゆっくり動いている。亀はときどき火を吹いた。その轟音は飛行船にまではっきりと届いた。
よく見ると亀と思ったものの背には屋敷や厨、鉄砲櫓、樹の植えられた庭、大砲の修理小屋があり、それら全てが錬鉄の塀で囲まれ、鋼の門が閉まっていた。
シモウサでは内戦が何年も続いていて、鎌倉時代以来の豪族たちが自分の屋敷を蒸気要塞化して、戦に使っているときいたことがあった。だが、実際に目で見るのは初めてだった。
豪族たちの蒸気移動要塞は北と南の軍勢に分かれて、砲火を交し、蒸気砲車が走っては榴弾砲を発射し、また逃げるを繰り返している。そのうち、要塞の一つに弾が命中し、空からでも分かるほどの火柱が上がった。炎と土くれとともにバラバラになった屋敷や兵が空へ舞い上がった。
本物の戦ということで、扇や半次郎の他にもカンドリヤ売りや外交販売員までが舷窓に取りついて、砲弾が行きかう戦場を見下ろした。カンドリヤ売りたちは内輪で南の軍と北の軍、どちらが勝つかあてっこをし始めた。そのころには扇の興味も尽きて、また自分の背嚢を枕に横になった。
もうずっと前から畿内七道はバラバラの群雄割拠になり、そこに蒸気機関と西洋文明が持ち込まれ、もつれた国々の対立に拍車がかかり、それぞれの国が勝手に政府を作っている。ムサシ国は江戸幕府の支配下にあり、サガミ国は鎌倉幕府の支配下にある。前者は征夷大将軍、後者は執権と評定衆が政治を司る。もちろん、両国ともに蒸気機関と西洋文明を盛んに取り入れて、自国の増強に走っている。
バラバラになった国の支配者たちは好き勝手な称号を名乗った。西国ではまだ封建的な藩主がいるし、長崎を中心とする北九州には騎士修道会を自称するキリスト教国家もあった。扇のいたヤマト国では最高執政官という支配者がいたし、ヤマシロは一応、帝を奉じて新政府なるものを作っている。その他に守護大名、太守、関東管領、鎮守府将軍、共和国大統領、軍事評議会、終身統領と好き勝手な名乗りが横行している。ただ、さすがに帝を名乗るものはいない。
シモウサ国では国家元首は「千葉介」ということになっていた。シモウサの武士たちは千葉介の称号とシモウサ国の支配をめぐって骨肉相食む争いに明け暮れている。どの軍の大将も千葉氏興隆の祖、千葉常胤の正当な末裔を自称し、簒奪者からシモウサの支配を取り戻すと言い張っているが、大体の場合は大将の血筋は分家出身者であり、嫡流ではない。
だが、最後に物をいうのは血筋ではなく大砲である。火薬臭い煤煙のなかを屋敷ごと蠢き、敵を見ればなりふり構わず大砲をぶっ放す。少しでも多くの敵を潰したものこそが千葉介になれるのだ。
「下で撃ち合ってる亀どものうちの何人かは――」半次郎が説明した。「天原のお得意さんでもある。お互いの屋敷に榴弾をぶち込むのに飽きると、天原に来て、浮世の憂いをさっぱり洗い流すってわけだ」
飛行船はそれから南下し、くすんだ灰緑のカズサ国上空を過ぎていく。アワ国はその先、半島の先端にある。
シモウサ国の戦争が嘘のように収まり、静かな水田地帯に飛行船は影を落とす。飛行船の船員が畳部屋にやってきて、もうすぐアワ国の館山湊に到着すると告げた。
アワ国は貿易が盛んときく。どんな町なのかと自然と期待している自分に扇は驚いた。
「おれも変わったのかな」
ぽつりつぶやく。




