十一の二十八
本能寺二の院でりんとすずが笛藤の弓を携え、竹箙に矢を差し、刀の目釘を確かめ、敵の襲来を待っていた。二の院の建物から外を見ると、境内の石畳のほかにすやり霞で時おり隠れる町並みが見えた。その向こうには悪御所の軍勢が集結しているらしく、長槍や旗印がひるがえっていた。
「ここに来てから、だいぶ斬ったね」すずは格子窓から外を眺めていった。「いっぱいナンマンダブしなくちゃね」
「そうですね」りんがこたえる。「いくら妖物の類と言えど、殺生には変わりありません」
「でも、白寿楼の小田巻蒸しのためだもんね」
「はあ。姉さん、その前に九十九屋さんを助け出すんですよ」
「わかってるよ。九十九屋さん、助けるために頑張っちゃうよ、お姉ちゃん。……でも、おいしいって評判なんだよねえ。白寿楼の小田巻蒸し。玉子がとろけるようだって」
「食べること以外に考えることはないんですか?」
「だって、うちは貧乏道場だもん」すずは背中からごろんと床に寝転んで唇を尖らせた。「普通に暮らしてたら、おいしいものにありつけないもん」
「あ、そういえば思い出しました。入門者が増えるかもしれません」
「え、ホント?」すずは、がばっと跳ね起きた。「どんな人?」
「ええと、ご兄弟です。春木伊織さんと弟の音二郎さん。なんていうか、すごくきれいな顔をしていて、扇さんからきいたんですけど、二人とも夜は白寿楼の張見世にいるらしいんです。弟の音二郎さんはずっと女の人の格好に憧れてて、お兄さんの伊織さんは、いやいやいるんだけど、九十九屋さんの見立てではいやいやいると見せかけて、実はまんざらでもないとか。ともかく、その伊織さんは弟の音二郎さんに男で花魁をする条件として武芸の鍛錬を怠らないことを条件に白寿楼に残ることを承諾したそうです。それでわたしたちの道場ならと、扇さんが勧めてくれたらしいです」
「へええ、何だか深い世界だね。まあ、何にしても師範代を敬う弟子が増えるのはいいことです」
「それですけど、扇さんは姉さんのことは師範代扱いしなくてもいい、って説明したらしいです。いつも万膳町にいるから、どうせ顔を合わせないって」
「む。扇さん、余計なことを言いますね」
「誰が余計なことを言うって?」
黒装束に身を包んだ扇が舞とともに二の院の部屋へ上がってくるところだった。
すずがぶすっとして言う。
「扇さん。この一件が終ったら、師範代の尊厳を守ることの大切さについて話があります」
「万膳町通いをやめるのか?」
「やめるわけないじゃないですか。わたしの生きがいです。いいですか、扇さん。新しい弟子が二人やってきたら、扇さんは兄弟子になるんですよ。それに新しい二人が加われば、弟子は全部合わせて三人。あと一人揃えば、四天王を作ることができるんですよ?」
「四天王?」
「時千穂道場のなかでも最も剣が強い四人の高弟の呼び名です」
「四天王は師範代より偉いのか?」
「偉いわけないじゃないですか! 師範代のほうが偉いんです。やっぱり扇さんには一から師範代の偉大さをみっちり講義しなければいけませんね」
「悪いが、後にしてくれ。これから出る」
「敵本陣ですか?」
りんがたずねる。扇はうなずいた。
「ああ。妙覚寺に悪御所が本陣を置いた。ここから境内の外に通じている勢隠しの穴まで行き、悪御所の手勢が本能寺にかかりきりになってから、侵入を開始する。そして――」
扇はうなずいて、腰に差した脇差型の酒筒の柄頭を指で弾いた。
「これで虎兵衛を悪御所から奪還する」
「ご武運を」
「ありがとう、師匠」
「師匠呼びは恥ずかしいからいいって言ったじゃないですか」
扇が微笑む。「でも、師匠は師匠だ」
「わたしにも言うことがあるんじゃないですか?」
すずが言うので、扇は、技の出し惜しみとかしないで、さぼらず戦え、とだけ言って、床の扉を開けると、地下道に通じる穴へと素早く飛び降りた。
なぜ、行って参ります、師範代、の一言が言えぬとすずがぎゃんぎゃん穴に向かって怒鳴っていると、舞はどうしたものか分からない様子でしばしのあいだ立っていたが、そのうち、りんに軽く一礼して穴に飛び込んだ。
「納得いかない」
地下へ通じる蓋を閉じながら、すずがぶうたれた。
「まあまあ」
「まあまあ、じゃないよ。りん」
すずがピシッと言う。
「あれから何か進展はあった?」
「あれから?」
「とぼけても駄目だよ。扇さんと二人で盛実まで鍋焼きうどんを食べに行って、帰りに羽衣湯に行ったことは知ってるんだからね」
「そ、それは――」
みるみるうちにりんの顔が耳まで赤くなった。
「で、進展は?」
「……ありません」りんが小声で言う。「いつもの通りです」
「ああ、そういうことについて、相談してくれないなんて、お姉ちゃん悲しいよ」
「だ、だって、姉さんはいつも食べ物のことばかり考えているじゃないですか」
「かわいい妹の恋の成就だって、きちんと考えてますよーだ。決めた。天原に戻ったら、神社でナンマンダブしてから、寿さんに扇さんを落とせそうな逸話なり何なりを仕入れるよ」
「神社はナンマンダブと宗派が違うと思いますけど――」
「大切なのはそこじゃなくて、扇さんにまつわる抑えどころでしょ? いつまでも師匠呼びでうかうかしてると、舞さんや他の人たちにかっさらわれちゃうかもしれませんよ」
「扇さんの意思が他の方に向いているなら、わたしはそれでも構いません」
「ああ、もう。扇さんの心はまっすぐりんのほうを向いてるよ。だから――」
続きは言えなかった。
一の院のほうから落雷のような凄まじい轟音が轟いたからだ。
りんとすずはそれぞれ窓辺に寄って、一の院のあるほうを見た。六角小路と油小路のほうへ出っ張り、すでに三方から敵の攻撃にさらされていたが、その敵が黒い燃え殻となって金色の地べたに燻っていた。
一の院は南東にりんたちのいる二の院、南西の油小路に近いほうに大夜と火薬中毒者の籠る五の院があり、その二つの子院は一の院の南へ回り込もうとする敵を迎撃すべく、準備を整えていた。
りんとすずはそれぞれ矢を弓につがえて、弦を引き絞った。
金のすやり霞を破いて、黒い穴熊の化け物が鮮やかな胴丸をつけて、現われた。りんとすずがほぼ同時に矢を放ち、化け物の顔へ吸い込まれるようにまっすぐ飛んでいった。
「ギャン!」
化け物が二匹、地面に転がった。
りんとすずはすぐに二の矢をつがえる。
戦いはまだ始まったばかりだった。




