二の二
冗談じゃない。
遊廓を逃げて、天原堤の道を取りながら、扇は少し怒っていた。そういえば、ここ数日、他の見世の用心番や幇間たちの自分を見る目がどこかおかしいと思っていたが、あれは小判十両に足が生えて歩いているのを見ていたのだ。そんな賭け事が裏で仕組まれているとも知らずのうのうと暮らしていたわけだが、それにしてもひどい話だった。あと何人の馬鹿が扇をくすぐっただけで十両がもらえるという勘違いをしているのか、扇にとっては考えただけでも恐ろしい。
道の半ばでくすぐられた疲れがどっと襲いかかってきたので、道の脇に植えられた松の幹に背中を預けて休むことにした。
この時間、天原堤はあまり人通りがなく、静かだった。遊廓と万膳町を結ぶこの道は別に土を盛り立てて高くしているわけではないが、それでも堤と呼ばれている。それを言うなら、飛行船発着場につながる道も屋台堤、割烹堤と呼ばれている。おそらく何か由来があってのことだろう。
そんなことを考えていると、道沿いに並んだ松のあいだの横道からすずが一人、ひょっこり姿を見せた。
それを見て、扇の顔が苦虫を噛んだようになる。
あいかわらず洋装剣士の格好だが、陣羽織の折り返しには桜散らしではなく、藤の花と池、太鼓橋の柄だった。
すずは扇を見ると、とても愛らしくにこりと笑いかけた。
嫌な予感がした。
すずがあんな笑い方をするのはたいていろくでもないことを思いついたときなのだ。
天原堤の道は万膳町へと続いている。すずはそこで道に迷ったものをカモにして出口を教える代わりにさんざんごちそうさせることで滋養を取っている。
そして、すずの扇を見る目はまさにカモを見る目だった。
「何か用か?」
できるだけつっけんどんにたずねる。
「お昼ごはんを何にしようか考えていたところです」
「そんな目でおれを見ても、何も奢らないぞ。正直、疲れて、あんたの相手をする気力もない」
「大丈夫です。お金は自分で調達します。扇さんにちょっと協力してもらえれば――」
そう言って、すずは虎の真似をするように指を曲げて構え、中腰になり、扇の前に立ち塞がった。
それが人をくすぐるとき独特の構えであることに扇はハッとして、すずに言った。
「くすぐりによる笑いはなしだ。そう決めてあるはずだ」
「そんな言葉にはだまされませんよ」
「いいか。それ以上、おれに近づくな。一歩たりとも近づくな。もし、おれをくすぐるつもりなら、殺すぞ。ただの脅しじゃない。本当に殺すからな」
数分後、堤には肺から空気が全て抜け、体全体が引き攣るほどくすぐられた末に力尽きた扇と、十両、十両っ、と上機嫌にはしゃいで白寿楼へ駆けるすずの姿があった。体調が万全ならば、負けはしないが、大夜相手に棒試合の稽古をした挙句にさんざんくすぐられて消耗しているところをやられてしまい、なすすべがなかった。
しばらく、天原を離れて、ほとぼりを冷ます必要がある。
扇はそう考えた。虎兵衛発案のこの悪趣味な祭りも、そのうち飽きられる。虎兵衛自身、無限につづく興はないと言っているのだ。では、扇の笑顔にまつわる興が冷めるまでどこか別の場所に行くのがいい。
だが、今の扇にはここ以外に行き場所が思いつかない。ヤマトで〈鉛〉だったときもそうだが、扇はこういった強さに欠けた。つまり、お天道様が照っていれば、どこでも暮らせるという楽観の強みだ。扇はどちらかというと、どんより一つの土地に依存してしまう型の人間だった。
大人しく行灯部屋に籠っていたほうがよさそうだと白寿楼へ戻ると、朱菊太夫付きの禿が待っていた。
「太夫の部屋へ行って下さい」表情の変化に乏しい少女が言う。「楼主も一緒にお待ちです」
太夫の間で、朱菊と虎兵衛が煙管を吹かしながら、奇妙な盤遊びをしていた。駒を動かしているので将棋のように見えるのだが、駒はもっと立体的で白と黒に塗られている。どうやら虎兵衛は白の駒を使っているのだが、盤上に残っているのは、黒い駒のほうが多かった。
「ちぇす、と言うそうだ」虎兵衛が笑いながら説明した。「西洋の将棋なんだが、この駒どもが実にいじらしい。日本の将棋駒は取られると平気で寝返り、かつての主に刃を向けるが、西洋のちぇす駒は取られたら討ち死にして、それっきり。相手が使うことができない。見上げた忠義の心だな。おれがガキのころ、馬鹿な武家が人斬り包丁で丸腰の異人をずんばらりんとやっちゃあ、攘夷攘夷と馬鹿の一つ覚えみてえにぬかしていた。あの攘夷連中に言わせれば、異人には忠義の心がない。だから斬らなきゃいけないそうだが、こうして異人の将棋をやってみると、なかなかどうして異人のほうが忠義の何たるかを知っているように思えてくる」
太夫の手が黒い駒を一つつまんで、白い駒を取った。
「ちぇっくめいと、でありんす」
「ちぇっくめいと、ってのは将棋で言うところの王手だ」虎兵衛は扇のほうを向いて説明した。「というより、詰んでるときに言う台詞だな。あーあ、おれの負けだ。取った駒を使えないってのは恐ろしく不便だ。おれには忠義もヘチマもない薄情な日本の将棋のほうが性に合ってるらしいや」
「楼主。扇に用があったのではござんせん?」
「ああ、そうだった。実はな――」
――朱菊太夫の馴染みの一人に文七郎という若者がいた。
サガミ国の灯油商、三浦屋信左衛門の長男で三浦の若旦那で通った遊び人だったが、朱菊太夫にすっかり迷い、相当入れ込んでしまった。幇間から禿、振袖新造から遣手のお登間まで、一分金を節分の豆のようにまいて、紋日の入用も服から簪から布団から朱菊に関わるものみんな自分が持ってやると豪語した。
そのころにはもう三百と七十両使っていた。虎兵衛はこれはまずいかもしれないと思った。三浦屋はサガミでも有数の富豪だから、払いを踏み倒されることはない。だが、文七郎はまだ代を継いでいるわけではない部屋住みの身である。それが、この蕩尽ぶりだと勘当されるかもしれん。そう思ったのだ。
虎兵衛は朱菊に文七郎に少し出費を抑えるよう諌めるよう伝えた。太夫と呼ばれるにはそれだけの知恵がまわる。朱菊は言われるまでもなく、既に文七郎が自分の分を超えた豪遊をしていると感じていて何度か諌めていた。だが、若い文七郎は朱菊を自分だけのものにするには金に頼るしかないと思い、さらに金を湯水のごとく使う。
結局、虎兵衛は父の三浦屋信左衛門に揚代その他もろもろ五百二十両を請求した。三浦屋は腰を抜かすほど驚き、そして案の定、文七郎はこれが原因で勘当されてしまった。
気楽な若旦那から無一文の素寒貧へと転落した文七郎はもちろんもう天原通いもできなくなり、それどころか雨露しのぐ屋根にも困る有り様に。
それが去年の今ぐらいの時期。
自業自得といえば、それまでだが、客を煽って散財させるのも、うまく抑えて長い付き合いの馴染み客になってもらうのも、そこは遊女の腕次第である。文七郎の件は、それをしくじったという意識を朱菊の心に残した。太夫の号を名乗る以上、何事も完璧であろうとするものである。このしくじりを朱菊は気にした。
また、虎兵衛もこのことは気になった。自分は若者の身代を潰すために白寿楼をやっているのではなく、浮世の憂いをきれいさっぱり忘れさせるためにやっている。たとえ、金持ちのぼんぼんが自業自得に陥ったとしても、消息を定期的に耳に入れるくらいのことはしていた。
その結果、文七郎はアワ国の鮫浦という小さな漁村に暮らしているということだった。
「そこで、お前さんに、この文七郎の様子を見てきてほしいってわけだ」
「具体的には何をする?」
「まあ、元気でやってるかどうか見てくれればいい。おそらくだが、三浦屋もそろそろ怒りが解けて、勘当息子を許すかもしれない。何だか、文七郎の一件は後味が悪いんだ」
これは扇にもいい話に思えた。しばらく天原を離れていたほうがいいと思っていたところだ。
「で――」虎兵衛は続けた。「明日にもお前さんと半次郎でアワへ出発してほしい」
半次郎、ときいて、扇の顔に警戒の兆しが出た。それを見た虎兵衛は笑いながら、
「安心しろ。半次郎はお前さんの笑い顔には興味がないそうだ」
「本当か?」
「半次郎は金に対して、あっさりしたところがある。甘いもんさえあれば幸せなんだとさ。まあ、大夜に何をされたかは聞いたよ。おれも、いたずら心からのこととはいえ、今回はちょっとお前さんに酷なことをしたと思ってる。みな、もっとこう、知恵を使って笑わせてくれると思ったんだが、無理やりくすぐらせることになろうとは思わなかった。だから、お前さんが天原に帰ってくるまでにこの騒ぎが収まるようにする。それで許してくれ。しかし、お前さん、実はくすぐられるのが弱点だったとはなあ」
虎兵衛がアッハッハと笑う横で、朱菊も微笑みながら、
「この人が人目もはばからず、笑いに笑って倒れる様子、思いつきんせん。わちきも見とうござんした」
冗談じゃない。
扇は用も済んだとばかり、とっとと太夫の部屋を後にした。




