一の二
気がつくと、縛り上げられ、畳の上に転がされていた。
十畳の部屋で床の間に活けてある小さな赤い花が目に入った。
部屋には〈的〉と女、長い髪を一本に編んでいて、さっきは佩びていなかった脇差を差して袴を穿いている。それに若い侍が二人、一人は和装の袴姿で袖をたすき掛けにし大小を差した大男、もう一人は洋装に古太刀を吊るした優男。部屋にいるのはこの四人だけで、自分が気を失っているあいだに、どう〈鉛〉を処分するかを話し合っているようだ。
終わった。
手抜かりは女がただの召使いではないことを見抜けなかったこと。
任務が失敗し敵の虜囚となる場合に備えて、仮面の裏に自決用の毒が仕込んであったが、それはもう取り上げられている。猿ぐつわはしっかり噛まされていて、舌を噛み切ることもできない。
任務に失敗した。
意外なことに〈鉛〉の心のなかに狼狽だとか動揺といったものは生まれなかった。
いつかはしくじり、死ぬことになるだろう。自分は使い捨ての道具に過ぎない。そして、道具が役目を果たせなかったそのときには、捨てられる。
十七年目、今日がその日だった。
それだけだ。
いま、猿ぐつわを噛まされ、畳の上に転がされていることも他人事のように思えた。頭に浮かぶのはどうやって死ぬか、どんな拷問を受けるか、機関の人間が口封じに誰を寄こすか。そんなことが深刻さもないまま、次々と頭をよぎっては落ちていく。
結局、他人事だ。自分で今の状況を動かすことができない以上、たとえ自分の身に死がふりかかっても、それは他人事に過ぎない。
〈鉛〉は首を少し上を向けて、〈的〉を見た。
運のいい男だ。
自惚れるつもりはないが、〈鉛〉はそれなりに腕はいいつもりでいた。今日死ぬはずだった男は床に倒れている〈鉛〉の顔を覗きこんだ。〈的〉の顔もまた狼狽や動揺といったものはなく、何だか見世物小屋にいるような興味らしいものが浮かんでいる。
「あたしは」と女が言った。「こいつをフネから放り出しちまうのがいいと思うね。海に落ちれば、あとは鮫が始末をつけてくれるよ」
「しかし、大夜殿」と優男風の侍が言う。「せめて、誰の差し金かくらいは調べるべきでは?」
「いーや、こいつは猿ぐつわを外したら、すぐに舌を噛み切る」
「じゃあ、どっちみち死ぬってことか?」大柄な侍がたずねた。
大夜と呼ばれた女はうなずいた。
「まあ、でも――」と大夜が二人の侍に言う。「どう仕置きするかは大将が決めることだ」
「おれの腹は決まってる」
〈的〉が〈鉛〉の目をじっと見つめながら、言う。まるで新しい玩具をもらった子どものような笑みで口の端が上がる。
拷問だな。〈鉛〉は確信した。
「こいつを放免してやろう」
他の三人が面食らった顔で〈的〉を見た。
「でも、大将!」声をあげたのは大夜だ。「放したら、こいつはまた大将を狙う。絶対ここでトドメを刺しとくべきだよ」
涼しげな笑みを浮かべたまま、〈的〉は他の二人にたずねる。
「半次郎と泰宗も同じ意見かい?」
半次郎――大男がうなずき、洋装の侍――泰宗は〈鉛〉を見下ろしながら、
「今回のことはきちんと始末をつけ、総籬株の方々と今後の対応を練るのが得策かと」
「そうだなあ」
転がっている〈鉛〉のそばにかがみ、〈的〉は何か探るような目を向ける。〈鉛〉は自分でも知らないうちに目を〈的〉から背けていた。
〈的〉の視線には何か違和感を感じる。それを感じるのが嫌で、目を合わせたくない。
「お前さん、興が分かるかい?」
〈的〉が〈鉛〉にそう話しかけた。
きょう?
一体何のことか分からない。
〈的〉は〈鉛〉の動揺を見透かしたようにニッと笑うと、
「猿ぐつわを外してやるが、舌は噛むなよ? これはお前さんにもいい話だ」
猿ぐつわが外されると、顎の痛さがじわりとやってきた。〈鉛〉はすっかり乾ききった口のなかにある糸くずを吐き出した。
〈的〉が続ける。
「教えて欲しいんだが――いや、そう気構えるな。別に誰の差し金かきくつもりはない。おれが知りたいのはお前さんにとって任務ってのはどんなもんかってことだ」
「……」
「きっとお前さん、その任務とやらをきっちり仕上げるために育てられたし、生かされてもきたんだろうとおれは踏んでいる。きっと普通の人間なら持っていることもいらないものと見なされて、削り取られてきたんだろうなあ。笑うとか、泣くとか、喜ぶとか」
一体何を言っているのか。〈的〉は嬉しそうな顔でいろいろと挙げ連ねている。それも〈鉛〉がどんなふうに生きてきたかを的確に言い当てている。任務遂行のため、その障害は全て排除し、殺すための道具として生きてきた自分を〈的〉はまるで〈鉛〉の顔に文字が書いてあるかのごとくすらすらと言い挙げる。
薄気味悪い。
任務に失敗したときに感ずるべきだったもの――恥ずかしさ、そして悔やみが今になって湧いてくる。いや、居心地の悪さと言ったほうが正確かもしれない。
「どうだい。お前さん、任務とやら、きっちりやり遂げたいか?」
「……なら、どうだというんだ」
「殺らせてやる」
一瞬だが、〈鉛〉は視線を上げた。
〈的〉は相変わらず余裕の笑みを見せているが、他の三人はあっけにとられた顔をしている。
どういうことだ、そうたずねようと口を開きかけたとき、〈的〉が制するように手を挙げて言った。
「ただし条件がある。おれ以外の誰一人も傷つけないことを約束してもらう。これを破ったら、それでお前さんは終いだ。海に放り捨てられ鮫の餌だ。だが、誰も傷つけず、大人しくしている限り、おれを殺す機会をやる。つまり、お前さんにとって命よりも大事な任務が遂行できるわけだ。いい話だろう? ただし、こっちもそうやすやすと死ぬ気はないから、まあ、そう思っとけ」
「……」
〈鉛〉は動揺を通り越して、何か今までに感じたことのないもの、呆れというべきものを感じている。
狂ってる。〈鉛〉はそう思う。
これまで〈的〉をいくつも屠ってきたが、自分を殺させてやるなどと〈鉛〉に言ったものはいない。ほとんどの〈的〉は必死に命乞いをする。金なら払う、家族がいる、死にたくない。
〈鉛〉はそんな〈的〉たちを斬ってきた。
だが、この〈的〉はなんだ?
「ちょっと待った!」大夜が遮る。「大将、それは――」
「おれはな、見てみたいんだ。生まれてこの方、人を殺せ、己が心を殺せと道具扱いされたやつに興がわかるかどうか?」
「しかし、楼主」泰宗が眉根を少しひそめて言う。「酔狂も過ぎると本当に死んでしまいますよ」
「なに、お前と大夜、半次郎がいるんだ。そうそう死にはせん。そうだろう?」
「もちろん、楼主のお命、我が身に代えて守る所存です。しかし、この刺客を解き放つことに関しては、どうかご再考を」
「なあ、泰宗。こいつが他人を傷つけるなら、おれも海に放り落とすのは賛成だ。だが、こいつは律儀におれだけを狙うさ。おれにはわかる。他のものに傷をつければ、こいつの首はスポンと胴から離れる。だが、誰も傷つけない限り、こいつにはおれを殺す機会が常に与えられてる」
「しかし、どこに住まわせるつもりですか?」半次郎がたずねる。「いくら、他の連中に手は出せないとは言っても、訓練された刺客をそこいらの町屋に住ませることはできませんよ」
「ここに泊めるさ。カエシの一階にある行灯部屋が空いているだろう?」
〈的〉は立ち上がった。
「佐治郎とお登間には、おれから話す。それで見世のもの全員にも教える。これでいいな?」
大夜が何か言おうとしたが、結局言わず、ため息をつき肩を落として、
「わかった、わかった、わかりました。興が湧いたら、雷さまのドンドロドロでも心変わりをさせられないのが大将だ。あたしはそれでいいよ」
大夜があきらめると、半次郎と泰宗も不肖不肖うなずいた。
「よし、じゃあ、決まりだ。面白くなってきたな」
〈的〉は自分の腰に差していた短刀を抜くと、それで〈鉛〉を縛っていた縄を切った。
体が自由になると同時に〈鉛〉の指が二本、〈的〉の両目へ繰り出される。
次の瞬間、鈍い痛みを感じて、目の前に見えるものがぐわりぐわりと揺れて、体じゅうから力が抜けた。
峰打ちを首後ろの付け根に食らったらしい。
「アッハッハ。もう襲ってきやがった。気の急くやつだ」
薄れていく意識のなか、〈的〉の弾けたような笑いが聞こえた。




