十一の二十二
舞が恐れていた事態がついにおとずれた。
半次郎の甘味が切れたのだ。
「これはどうしたことか?」
道三がたずねるが、舞も時乃も半次郎の甘味が切れるのは初めて見たのだ。今、半次郎の目はどんよりと濁って、所作も思考も鈍くなり、何もかもがつまらなさそうな顔をしている。見世物小屋で小天狗のように飛びまくり敵を斬りまくったあの半次郎とは同じ人物と思えないほどの変わりようだ。話しかけても返答はなく、歩きながら寝ているのではないかとすら思えてきた。
かといって、甘味を探す暇もない。
「せっかく右京大夫どのに目通りが叶いそうなのに」
一行は蛇阿弥を倒すのに必要な国崩しを借りようと思い、細川屋敷にやってきていた。普段は陳情者が屋敷を取り巻いていて、近づくこともできないのに、一行が来てみると、陳情者は一人も見当らなかった。これはしめたものと早速東の門の前に陣取るとボツボツと陳情者たちが横道から現われ始めた。きけば、悪御所の奉公衆が人を追ってこのあたりで戦った、巻き込まれるのが嫌だから隠れていたとのこと。
つまり、奉公衆もおらず陳情者もいないときに細川屋敷の到着できたということだ。
そして、これから右京大夫に会い、国崩しを借り受けるための交渉に出かけようとした矢先、半次郎の甘味が切れたのだ。
舞たちは最大の危機に直面したのだ。
「置いていこう」
「薄情だが、それしかないな」
舞の提案に道三もうなずき、時乃も反対しなかった。
右京大夫は管領であり、幕府の第二の実力者だ。その右京大夫の前に甘味の切れた半次郎を出した日にはどんな不作法をするか分からない。八つの面が蛇阿弥の手に渡っている以上、策をゆっくり考えている暇はなく、国崩しの確保には出たとこ勝負の面もあった。油商が国崩しを何に使うのかを正直に話すことはできない。蛇阿弥は悪御所お抱えの妖物なのだ。まあ、嘘偽りは道三の得意とするところだが、どんな嘘偽りを使うかは臨に応じて機に変ずのやり方で行く。
「では、半次郎どの。わしらが戻るまでここで待たれよ」
と、置いていったのは東門を抜けて南のほうにある内塀で冠木門のそばに半次郎は呆けたように座った。
屋敷のなかにいた陳情者たちも塀を越えて、外へ逃げてしまったので、道三は小姓の案内で一番に右京大夫に目通りがかなうことになった。その途上で三人は武器をしまった蔵をちらりと見た。そして、その横に国崩しがこれ見よがしに置かれていた。
今に見よ、我が手中に収めて見せようぞ、と決意も新たな道三についていく形で舞も屋敷を歩く。
そのうち、南の庭に面する広間についた。
小姓が高々と吟じる。
「お屋形さま。油商、まむし屋道三なるものがお目通りを願っております」
「通せ」
道三は廊下に舞と時乃を残して、平伏しながら広間に入った。ちらりと見たとき、半次郎を置いて行って、やはり正解だったと思った。脚の長い高杯に南蛮渡来の金平糖があった。ほんの一粒だったが、半次郎が見たら、きっと襲いかかったに違いない。そうなれば、全てが台無しだった。
右京大夫は道三の内心の安堵をよそに脇息にもたれ、庭を眺めながら、最後の金平糖を食べた。
近習が高杯を片づけると、本題に入った。
「面を上げよ」
「はっ」
道三が顔を上げると、右京大夫は切なげに庭を眺めていた。
「国崩しを借りたい、と申しておるとか」
「ははっ。いかさま左様でございます」
「分からぬのう。あのような戦にしか使えぬ道具を借り受けて、どうするつもりじゃ?」
「油売りの客寄せにするのでござります」
「ふむ。客寄せ」
「恐れながら、右京大夫さま。国崩しの砲尾には砲中の硝薬を点火するための小さな穴が開いているそうでございますな」
「ふむ」
「されば、それがし、その穴へ一滴もこぼすことなく油を注ぎ入れるのでございます」
「ほう。だが、あれは小さな穴ぞ」
「小さければ小さいほど良いのでございます。油を銭の穴を通して垂らすことと比べれば、造作もないことにございます」
道三があの手この手と考えながら、国崩しを引き出そうとしている後ろでは舞と時乃がひそひそ言葉を交わしていた。
時乃はコスモポリタン・ホテルにねずみ木戸をくぐるときに感じた別世界への旅のことをまだ捨ててなかった。問題は出し物だった。
「影絵ってどう思う?」時乃が声をひそめてたずねた。
「いいと思う」
「操り人形劇も捨て難いと思わない?」
「いいと思う」
「即興演奏を出来る金管奏者を雇ったりするのは?」
「いいと思う」
「……どこかで電気中毒者を見つけて、『支離滅裂! 火薬中毒者対電気中毒者』って戦いのショーを開くのは素敵よね?」
「いいと思う」
「もうっ、舞。ちゃんときいてる?」
「いいと思う――うっ」
時乃が平伏したまま、さっと手を動かして、舞の脇腹を突いた。
「いったいなんだ?」
「真面目にきいてよ」
「それは今しなければいけない話か?」
「あなたもコスモポリタン・ホテルの一員なんだから考えてもらわなきゃ」
「考えろと言われても、こんなふうに頭下げながら、何が思い浮かぶ?」
「とにかく何かしたいの。あのわくわくした感じをホテルに持ち込みたいのよ」
「久助に相談するのは?」
「久助さんに?」
「何か面白いカラクリを知ってるだろう」
二人がひそひそ話しているあいだ、道三の国崩し貸し出しはうまい方向に進んでいた。別に火事を起こさなければ、貸してもよいという言葉が出かかっていた。
道三も成功を確信したそのとき、椿事が起きた。
右京大夫自慢の庭を冬眠から目覚めたばかりの熊のようにのしのしと歩く大柄の人影が現われたのだ。その男は引きずるような歩き方で白い砂をあちこちに跳ね飛ばし、川を前にしても袴が濡れるのも構わず、ざぶざぶ歩いた。曲がるという考えが頭からきれいに抜け落ちているようだった。
言うまでもなく、半次郎だった。
「あ、あ、あ」右京大夫の声が裏返りかけていた。「あのものをここへ!」
これは打ち首だな。右京大夫の庭に対する愛情の深さはやや病的で、それがここに落ちた原因であることは周知の事実だ。半次郎はきっと甘味にまつわる辞世の句を遺すだろう。もっとも辞世を詠むほどに思考が復活していればの話だ。
「アッハッハッハッ!」
道三は膝を叩いて高笑いした。あと少しで成就するはずの謀が饅頭や金平糖の類を欠いたばかりに失敗するとは、現世では考えられない、まさに地獄の沙汰。怒りや呆れを超えた大笑いが止まらなかった。