十一の二十一
扇のつけている衣はひっくり返せば黒ずくめになる。それに顔を隠すための頭巾をかぶってしまえば、忍び込むための装束が出来上がる。
将軍の御所〈室町第〉は外の塀に侍が三間の距離を開けて立ち、また侵入者を食い殺すように訓練された犬の檻がある。庭じゅうには鳴子をつけた縄が張られて、うっかり足を引っかけた侵入者の到来を知らせるようになっている。加えて、あの赤直垂の公方お庭者と呼ばれる忍びたちが要所で見張りについている。他にどんな仕掛けがあるかは分からない。
こんな場所に忍び込むのは自殺行為だ。たとえ〈鉛〉として命じられても、同じくらいに腕の立つ〈鉛〉を十人集めて強襲用暗殺部隊を組んで任務に当たるだろう。
だが、扇は今、室町第の庭園に生える大きな松の枝に身を隠しつつ、既にそこに潜んでいた見張りの赤直垂を鋼の線で絞殺している最中だった。キリキリと鉄線が鳴いている。音と血を出すことなく隠密裏に人を屠る最適の方法だが、絞め方を誤れば、鉄線が頸に走る血の道を裂いてしまい、血が派手に噴き出す。そうなれば、松のすぐ下にいる三人の侍の上に鮮血が降ることになり、警鐘が鳴らされる。
死と隣り合わせの危険な任務はいくらでもあったが、今回の潜入は今までで一番厳しい。
こんなことをしているのは、五右衛門の手の者がもたらした知らせを受けてのことだった。
――悪御所が憑依している。
虎兵衛の体に、である。
逆原の夜叉の言葉を思い出した。逆原の住人だった虎兵衛は普通の人間と違う。その違いが悪御所の怨霊をその体に憑依させることを成功させたのだ。
実際に確かめなければいけない。
その思いが扇を無茶な潜入へと駆り立てた。
扇はりんと久助と泰宗、そして信長に石川五右衛門のツテで、この京にいるであろう大夜たちとつなぎをつけるように頼んでおいた。泰宗は救出したが、虎兵衛は厄介なことになっていることを伝えるためだ。
赤直垂がぴくりとも動かなくなった。鋼の線を通じて、命が尽きたことが分かる。その骸を落ちないよう太い枝に支えさせ、別の枝に移る。
その枝から桧皮葺の屋根へ飛び移るために機会をうかがう。
枝と屋根のあいだは三間。その下には弓と鉄砲を携えた五人の侍がいる。金色のすやり霞が庭にかかっている。その一つが松の枝と屋根の端にかかった瞬間、扇は脚のバネだけで跳躍して屋根に静かに降り立った。霞のおかげで五人に見咎められることはなかった。その入母屋屋根の縁を静かにまわって、内庭を覗き込む。
悪御所は暗殺を極度に警戒してか、屋敷じゅうに鰭板塀をめぐらせて、小さな関所のようなものを配している。どの扉にも宿直の侍がいて、扉のそばには竹筒を下げた鳴子がある。変事のあるとき、紐を引けば、全ての扉のそばにある鳴子がカタカタとなる仕組みだ。
「公方さまの御なァりィ」
屋敷じゅうの侍たちの背筋が伸びた。扇がひそむ屋根と向かい合った政所のある屋敷の戸が開き、悪御所が現われた。
それは虎兵衛に違いなかった。紫の直垂を着て、太刀を下げている。だが、表情は虎兵衛のものとは程遠かった。表情らしいものは全く浮かばず、見開いた目に狂気が宿っている。それはきっと悪御所の狂気なのだろう。警備には侍が十人と忍びが五人。常に前後左右を警戒していた。悪御所の傍には薄緑の水干をつけた美しい少年が常についている。
任務遂行をさらに難しくしているのが、これが暗殺ではなく、救出を目的としているところだ。虎兵衛が悪御所に体を乗っ取られたとして、どうやって悪御所を虎兵衛から引き離すか。たぶん、夜叉から渡された脇差の神酒が役に立つのだろうが、それを口にさせる手段がない。無理やり押さえ込んで、神酒を流し込む手もあるだろうが、この警備を見る限り、悪御所その人につく警備はかなりの手練だろう。その侍や忍びたちの太刀と手裏剣の嵐をくぐり抜けて、虎兵衛の体を傷つけることなく神酒を飲ませるのは不可能だ。
そのとき、虎兵衛――悪御所が廊下を歩いていることを知らずに侍女が一人、献上の梅の鉢を持って現われた。侍女は悪御所と鉢合わせた。ヒッ、と声を上げ、梅の鉢を取り落としてしまい、ただ恐怖に震えながら、申し訳ございません、と平伏した。
すると、傍らの少年が節をつけて唄うように言った。
愚物侍女 梅ヲ落トス 首モ落トセバ サゾ楽シカロウ
悪御所はどすどすと足音を鳴らして、前に進み出ると、太刀を抜いて、刃をそのまま侍女の背に突き通した、廊下に串刺しにした。
「ぎゃあああ!」
絶叫が上がり、生きながらに串刺しにされた女中が手足を痙攣させている。刺さった太刀をそのままにすると、小姓が新しい太刀をもって、横から差し上げた。悪御所は黙ってそれを抜き、侍女の首を刎ねた。
ケタケタケタ、と、少年は人間の喉から出たとは思えない笑い声を上げる。
太刀の血糊を拭かせているのを見ながら、扇の体が怒りにふるえ、何もできないことに憤りを覚えた。自分の無能さと虎兵衛の体を使って行われた無道。悪御所もこの小僧も十度屠ってもまだ足りない。この京の人間は人間ではなく地獄を構成する一要素に過ぎず、たとえ斬られたものでも結局は何度も甦る。とはいえ、あれだけの酔狂を楽しむ男の体で行われたこの無惨な殺生は扇に消しきれない殺気を湧き立たせるに十分だった。
そのとき、少年が足を止めて、扇がひそんでいる屋根を見た。
くそっ。心のなかで毒つく。殺気を気取られた。
手裏剣が五本、異なる方向から屋根へと跳んできたので、扇はそれを避けながら抜刀し、背後を取ろうとした赤直垂の腿を断ち切った。腿の骨を断ち切られた激痛で絶命した赤直垂は血しぶきをまき散らしながら、ごろごろと転がり落ちた。
梯子が屋根にかかり、侍たちも声を上げながら屋根に登ってきた。
「待てい」
「わああっ」
扇は屋根の上を西へと走った。銃声がして、足元の桧皮が飛び散った。続く銃声は誤って、追っ手の忍びの胴を撃ち抜き、悲鳴が上がる。
目指す西の屋根の端に梯子がかかり、侍が顔を出した。その顔を両断しながら、跳躍し、築地塀を足にかけて、そのまま大路へと足をつけて、転がりながら態勢を立て直し、後ろへ二本棒手裏剣を放った。二本の手裏剣が扇を追って飛んだ赤直垂の顔を捉え、追っ手が無様に道に落ちる。
もっと、無様なのはおれのほうだ。
殺気を隠しきれず、居場所を知られるなど、初歩のしくじりだ。流術修行を一から叩きなおさないといけない。
だが、それは無事、天原に帰ることができればの話だ。
警鐘が鳴らされ、犬が放たれたらしく、またあちこちの道から追っ手の侍たちが現われる。大路を行く人々の驚声と混乱。牛飼いが荷を落とし、市女笠の女人は誤って小川にはまった。扇は町家が入り組む路地へ逃げようとするが、追っ手はそうはさせじと弓と鉄砲で狙い撃ちにし、大路から逃げられないようにする。目の前に立ちはだかった人影を斬り捨て、狙いをつけられないように細かい身ごなしで駆けているうちに息が上がってきた。普段ならこのくらいの速駆けはどうということもないが、体を乗っ取られた虎兵衛を見た狼狽が呼吸の拍子を乱し、扇の体力を奪っていく。
通りを駆ける。扇の目の前には左右に広がる築地塀が立った。大きな屋敷らしい。そのまわりには多くの住人が列をなしていたのだが、悪御所の奉公衆が白刃をかざして飛び出してくると、四方八方に散っていった。人ごみにまぎれることもできないまま、扇は築地塀を飛び越えて、広壮な庭園へと着地した。
金箔の土のかわりに白い砂が敷かれた庭園には川があり、藪や木立があり、唐風の屋根をつけた橋があった。
扇は塀を飛び越えると、すぐにその塀に背中をぴたりとつけた。自分を追って、塀を越えて庭に飛び込んだ敵を背中から斬るつもりだったが、どういうわけか追っ手は来ない。
待ち伏せを見破られたのかもしれない。扇は庭へと走った。緊張の連続で体は休息を欲しがっているが、まだここが隠れるのに都合のいい場所かどうか判断がつきかねた。だが、ついにとうとう大きな石のそばで力尽き、その石に寄りかかって、顔を隠す布を引き下げた。荒く息をついていると、庭に向けて開け放たれた屋敷の広間に一人、顔のある侍がいた。高杯に盛った金平糖をぽりぽりと食べている。身分の高そうな侍の物憂げな目は一瞬、扇を見て、驚きに見開いたが、すぐにまた元の物憂げな表情に戻った。
扇はといえば、疲れて立ち上がれずにいた。ただ、視線だけはその侍から外さない。太刀を取るなりすれば、手裏剣を放つつもりだ。だが、距離は十間以上開いているので、命中は怪しい。
おれの命はあの侍に握られているのか。
以前にもこんなことがあった。あのときは虎兵衛が相手だったが、あんな酔狂は二度とないだろう。あの侍が悪御所の追っ手をここに通して、おれは死ぬ。何人か道連れにはできるだろうが、それで終わりだ。
だが、虎兵衛に初めて捕らえられたときの諦観は今の扇にはよぎらない。
死んでたまるか。何としても、生きて帰るんだ。
気迫だけでふらふらと立ち上がった。刀を八双に構える。
侍は扇の様子を見ている。その顔に表情らしいものはほとんど浮かばず、ただ憂いがあるのみ。
お屋形さま! と声が上がり、骨と皮だけに痩せたような顔の侍が広間に駆け込み、平伏しながら告げた。
「公方さまの奉公衆がお屋敷を囲んでおります」
「そうか」
そのうち、骨と皮だけの侍がお屋形さまと呼ばれた侍の視線の行く先に気づいて、ぎょっとした。黒ずくめの忍び装束の扇が刀を八双にかついでいるのだから、驚かないほうがおかしい。
「お屋形さま。きっとあいつが原因です」
「よい。道賢。それで上さまの使者はなんと?」
「奉公衆を庭に立ち入らせ、曲者を討ち取らせよとの命にございます」
「断れ」
「え?」
痩せた侍――道賢が思わず、声を漏らした。それは扇の口から出た声でもある。
「お、お屋形さま、今、何と?」
「断れと申した。庭に奉公衆を入れることはならぬ」
「し、しかし、それでは公方さまのお怒りを買うことにはなりませぬか?」
「そんなもの普段からずっと買っている」
「謀反を疑われますぞ」
「知ったことか。そう思うなら、わしを討って別の誰かを管領にすればいい。もっともその後任が誰にしろ、そやつにとっては気の毒な話だがな。よくきけ、道賢。この庭には誰も入れさせぬ。それ以外のことならば、管領として上さまのおんためになることはできるだけのことはする。だが、庭は別じゃ。断れ。それともわしが出向いて使者を斬ったほうがはやいか?」
「ひえっ」道賢は平伏しながら、廊下へずり下がった。「すぐにお屋形さまの意向を伝えに参りまする!」
「待て、道賢。途中で中間に庭者の衣裳を持ってくるよう伝えよ」
道賢が去るころには扇の息も整い、庭に引かれた川の水を一すくい飲んで、ようやく人心地ついた。刀を鞘に納め、侍のほうへ歩いていくと、頭巾を取って縁側の前に立ち、頭を下げた。
「助かった。礼を言う」
「礼を言うのはこちらのほうじゃ」侍が言った。「そなたのおかげであれだけ騒がしかった陳情者どもがいなくなった。これでようやく静かに庭を眺められる。まあ、一時のことだが」
脇息にもたれた侍は庭を眺める目を切なげに細めた。
「こうして静かに庭を眺めるのはいったいいつ以来のことだろうの……ひどく昔のことのような気がするわい」
「それを邪魔するつもりはない。失礼する」
「まあ、待て。今出たところで待ち伏せしている奉公衆に討たれるのが落ちじゃ。そなたに庭者の装束を貸そう。庭者といっても忍びのことではない。文字通り、この庭を造り維持するものたちのことじゃ。我が庭者には詮索無用の特権が与えられておる。それにもう少しすれば、また陳情者どもがこの屋敷を囲うだろう。それに紛れて逃げるといい」
「……なぜ、そんなことまでしてくれる?」
「わしはこの庭を愛するのと同じように、よき武者を愛す。そなたは忍びの装束こそ纏っておっても、よき武者であることは目を見ればわかる。忠義に厚い武者と見た。ただ、惜しむらくは――」
侍は言葉を切って、残念そうに言った。
「体が細すぎる。わしの好みにしてはな」