十一の十九
細川屋敷は一つの町のようだった。
邸内のあちこちは鰭板塀と冠木門に区分けされていて、入母屋造りの母屋に政所、祐筆方の書庫や宝物庫、茶室、板張りの厩舎、食料庫付きの厨が三つ、薬草を植えた一角と薬草師の住む小屋、蹴鞠用の内庭、宿直の侍が寝泊りする切妻の長屋、鋳物師と刀鍛冶の工房、木炭と薪の蔵、持払堂と小さな祠、巨大な青銅砲をかざった武器庫、それらをつなげる無数の通路、そして、邸内の南側に広がるのは都に名高い細川家の庭園がある――。
屋敷のなかもまた陳情者があちこちに座り込み、我が身にふりかかった不幸を論じ合っていた。一行は案内の小姓に連れられる形でいくつかの門と祐筆が仕事をしている部屋を通り抜け、右京大夫のいる間へと通された。
「松永弾正さまがお見えです」
小姓が告げると、入れ、と物憂げな返事がした。
一行は庭に面した板敷きの間へ通された。上座の畳が敷かれたところには侍烏帽子に青い水干を垂領につけた齢四十ほどの気品のある侍が脇息にもたれていた。体を横に向けながら、そばに山と盛られた南蛮渡来の金平糖を一粒ずつぽりぽりと食べている。その目線は庭へと注がれていた。広間の戸のうち、庭に面するものは全て取り払われていて、そこから見えるのは小さな村をすっぽりいれてしまえるほどの広大な庭だった。そこには心地良い音を立てて流れる川があり、水は唐橋や園亭の支柱にぶつかって黒く盛り上がり、領国より取り寄せた奇石の腹を洗いながら過ぎ去っていく。庭を囲う塀はかすんで見えず、空の黒と金の霞が名木の緑を際立たせていた。その庭をじっと眺めながら、侍は物憂げに金平糖をつまむ。表情一つ鬚の形一つ金平糖をいじくるやり方一つをとっても、心の繊細さが浮き出たこの人物こそが管領細川右京大夫なのだ。
「霜台。壮健そうで何よりじゃ」
右京大夫の言葉に、はっ、と松永弾正は平伏してかしこまる。
「お屋形さまもお元気そうで何よりでございます」
「何が、お元気なものか」
右京大夫は長々と、はあー、とため息をついた。
「愚痴るからきけ、霜台。わしはもう政が嫌になった。というのも、みながわしに無理を言いよるからだ。上さまは五山の人事に口を出すおつもりだが、五山のほうでは坊主たちが結束して、それを阻もうとしている。上さまはひどくお怒りで、わしの名で安全を保証して五山の主だった僧をおびき出して、撫で斬りにしてくれるとえらく張り切っておいでだが、そうなると、京じゅうの僧の憎悪を浴びるのはこのわしよ。叡山の二の舞はもううんざりじゃ。僧どもとて、強訴を企ててわしを巻き込もうとする。阿波や摂津の奉行人からは年貢の滞りや押領の知らせが何通も飛び込んできて、わしはそのたびに管領の花押をつけて施行状を発給しておる。だが、わしの言った通りに年貢を取り立てたという打渡状はいっこうに送られてこない。つまり、守護代も国人衆もわしの発給した書状を無視しているということだ。まあ、それはよい。どうせ、この京を出ることはできぬ。が、そのように無力なわしに対して、この陳情者の数はどうじゃ? はてさて、あやつらは陳情以外にすることがないのか? そのほとんどの原因が上さまが斬ったか、奪ったか、追放したか――とにかく上さまのご無道から来たものだが、わしにどうしろというのだ? わしが諌めて、行いを改めるようなお方なら、そもそもここには落ちてなどおらぬわ。三好も薬師寺も木沢も役に立たぬ。こうなると、霜台、そなたの知恵をあてにするしかないわ。たとえ、それが悪知恵でもな」
「陪臣づれのそれがしに過分なお言葉。弾正は果報者にございます」
「そのような口上はよい。そなたの外の容貌と内に秘めたる悪辣の違いくらい知っておる。そなたの後ろに控えているものどもも何やら訳ありなようだが、少なくとも普通の陳情者ではないようだの? わしは疲れておる。少しはよい話をききたいものだ。早速本題に入るがよいぞ」
「それでは恐れながら申し上げます。それがし、此度はお屋形さまに公方さまへのご謀反を勧めに参った次第でございます」
謀反という言葉が出ても、右京大夫は動じなかった。ただ、少し顔に疲労の色が濃くなったようだった。
松永弾正が現世での脈の流れの乱れ、それを利用して悪御所が実体化した可能性、妖かしの京に迷い込んだ大夜たちとの利害の一致を巧みな言葉遣いで説いているあいだ、右京大夫はずっと庭を眺めていた――時おり悲しげに瞬きをして。
「――かくして、公方さまを討てば、お屋形さまのご心労はたちまちのうちに消えてなくなりまする」
松永弾正が一通りの説明を終えた後、右京大夫は庭に目を向けたまま、言った。
「霜台。この庭を見よ」右京大夫は扇子を手にした腕を伸ばして、左から右へとゆっくり動かした。「このような美しい作庭は内裏にも室町第にも、それにどの寺社にもない。この広大な地所を銀のごとき白砂で埋め、摂津石を配し、加茂川より引いた水を流して、その流れに唐屋根の橋をかけた。梅、桜、楓、松――どれも天下の名木ぞろいじゃ。上さまが我が名木奇石を献上せよと言われたことは幾百と知れず。そして、そのたびに断った。もし、我が庭の砂一粒でも奪うというのであれば、この右京大夫、屋敷を自焼し、領国に引き上げますると言ったのだ。だから、この庭がある。だから、わしはここに落ちた。現世でもそうだった。上さまの無道を諌めることをあきらめ、餓死した者も出ている京でわしは庭に夢中だった。薄情者だったのだ、わしは。その業ゆえにわしはここに落ちたのだ。そして、わしはこの庭を造ることを許されたことと引き換えに上さまと下々のものたちとのあいだに挟まれ、苦しむこととなったのだ。霜台。そなたを見ておると思う。美しいものほど業の深さと恐ろしさは計り知れぬ。人にしろ、庭にしろ――」
「――ご謀反には同心されぬと?」
弾正の目がキラリと光る。だが、右京大夫は金平糖を噛みながら、庭の川面を流れる落ち葉をつつく小魚を見つめていた。
「わしは疲れたし、恐ろしいのじゃ。上さまがこの庭を本気で潰しに来れば、わしはまことの地獄に落ちるのだ。庭なき世こそ地獄。そして、その執着がまた地獄。霜台。そなたは現世で上さまを討ったことがあるそうだが、わしはない。そのようなこと恐ろしいし、それほどの気力もない。このこと、上さまには告げぬ、が、それでも、そなたの謀反にわしの助力があるとは思わんでくれ」
「いえ。この弾正。お屋形さまのご心労も知らず、大それたことを申しました。平にご容赦を」
右京大夫の前を下がり、屋敷の廊下を歩きながら、松永弾正の端整な表情は出会ってから初めて狼狽らしいものを顔に浮かべていた。
「しばらく顔を見せていなかったが、まさか、ここまで骨抜きになっていたとは――」
「なあなあ」大夜がたずねた。「あんた、あのおっさんに何を期待してたんだ?」
大夜にはさっぱり分からなかった。あれが幕府で二番目に偉い男だとはとても思えない。どうしようもなく女々しく、庭さえあれば、それでいいなど天下を預かるものの言うことではない。あんなお殿さまなら表の道賢のようなやつが足軽頭に取り立てられるのも無理はないが、それでもこの陳情者の多いことは説明できない。だが、結局のところ、この妖かしの京ではあの腑抜けくらいしかアテになるものがないのだろう。そこは、さすがは地獄と言ったところ。
「大夜どの」弾正が言った。「右京大夫さまは本当は怜悧で頭の切れるお方なのです。ただ、長い地獄暮らしに疲れ果てたのでしょう。それに悪御所には奉公衆があります。わたしを襲った忍びなどではない本物の軍です。それが二千騎。それだけの軍勢を相手にするのに、わたしたちは四人しかいません」
「それは分かんないですよ」火薬中毒者がコリコリと火薬を噛みながら言った。「他の人たちもここに落ちているかも」
「だとしても、十五人を超えないでしょう?」
「そうですね」
「だから、右京大夫さまをこの謀反に加えたいのです。右京大夫さまは一声かければ、精鋭千二百騎を集めることができます」
「他に頼れる大名はいないのか?」
「大名、とはまた違うのですが、心あたりはいます――二人、どちらも少々癖が強い。わたしが言うのもなんですが」
「その二人ってのは?」
「前右府さまと油売りのまむし屋です」
「あたしらに分かる名前で言ってくれない?」
「織田信長と斉藤道三。これなら分かりますか?」
「分かった。へえー、その二人も、この地獄に落ちたのか」
「それだけのことはしましたからね。あなたたちも現世に戻ったら、行いに気をつけることです」
「だってさ、火薬中毒者」
「え? 僕ですか? 僕はどこにでもいる、ごく普通の善良な火薬中毒者ですよ」
「わたしの見立てではあなたが一番危ないですよ」松永弾正が言う。「どうもわたしがここに落ちた一番の原因は大仏の焼き討ちが祟ったようです。火薬が思わぬ延焼を起こして、名のある寺院を焼いたりすると大変です」
「それはただ燃やしたからです。そうではなくて、発破解体をすれば、祟られることはありません」
大夜にもすずにも、そして松永弾正にも言っていることが分からなかった。だが、火薬中毒者のなかにはただの燃焼と爆発のあいだに超えがたい倫理の一線が設けられていた。つまらない燃焼はなるほど天罰仏罰の対象になるかもしれないが、華々しい大爆発による解体であれば、おそらく神仏は火薬の素晴らしさに目を見張り、彼を極楽に連れて行く。そこには飲んでも飲んでも無くならない火薬の壜があり、液体火薬の川が流れているのだ。
屋敷の大門を出ると、相変わらず陳情者たちが並んでいる。ただ、骨皮道賢の姿が見えなかった。見えないなら見えないに越したことのない相手だったので、四人はさて他の手段を考えようと、塀に沿って北に歩き、角を西へ折れた。歩いているあいだにも松永弾正は砂利を拾っては平蜘蛛の破片ではないかと調べて捨てている。
小川がある通りまで出た。店と民家が並び、まばらな垣根を連ねた内庭への小道が口を開けている。
細川屋敷からいなくなった道賢が細川屋敷につながる小路からひょっこり顔を出した。どうも一行についてきたらしい。しゃれこうべのように痩せた顔に媚びるような笑みを見せて、つつつ、と一行に近づくと、
「弾正さま。お耳寄りな話があるんですがね」
と、言ってきた。道賢をあたりを見回した。牛飼いが炭の入った俵を運んでいて、若鮎を入れた曲げ物を頭に乗せた桂女が寺院の角を曲がってやってきた。人目のある場所ではいけない、と道賢がいい、一行を町家の内庭へ誘い込んだ。
三方を草葺きの長屋、東側を築地塀と小さな屋形に囲まれた内庭には痩せた芋が埋まった畑が数枚と枯れた井戸、つやのない葉を茂らせた老木が一本あり、その幹に寄り添うようにしてボロボロの茅葺き家が立っている。網代と葦簾で何とか壁をつくっているその小屋はどうやら遊芸人が利用する宿らしく、猿の鳴き声や笛の音、鉦の音が途切れることなくきこえてくる。道賢に招かれるまま、蓆の暖簾をくぐると、ぐつぐつ煮立った大鍋のまわりに奇抜な服装をした芸人たちが集まり、茹で上がった野良犬の肉をがっついていた。店の屋根裏に食事ができる間があり、道賢はさっさと二階へ上がった。屋根が低く、一番小柄なすずでさえ、梁に頭をぶつけないために少し屈まなければならなかった。
「それで――」大夜がたずねた。「お耳寄りな話とやらを聞かせてもらおうじゃねえか」
「まあ、そう焦りなさんな」
「いや。焦ったほうがいいぜ。床をぶち割って頭から真っ逆さまに犬鍋の上に落ちるなんて嫌だろ?」
「だ、弾正さま。この女をどうにかしてくだされ」
松永弾正は腕まくりをしていて立ち上がりかけている大夜を、優しくなだめるように手をあげて、まあまあ、と落ち着かせる。もっとも大夜も道賢を本当に痛めつけるつもりはない。ただ、道賢が持っている情報が喉から手が出るほど欲しいものだとしても、それを匂わせないための猿芝居だ。そこのところは弾正も分かっているらしい。
「道賢。右京大夫さまのことなら、望みはないぞ。殿はもう世を憂いて何もするつもりがないらしい」
「そこなのです、弾正さま」骨皮道賢は金次第でころころ陣営を変える人間独特の卑屈な笑みを浮かべて言う。「実はその右京大夫さまをまた元の頼もしい右京大夫さまへと戻す方法があるのでございます」
「驚いた。始めは殿に会えるか否かは自分次第と申し、今になっては殿のご機嫌がお前次第というわけか。だが、おもしろい。いくらだ?」
「金でいかほどもらえますか?」
「そいつぁ、話次第だな」
大夜が最近天原で出回るようになった一円金貨を懐から出した。大きな金貨に目の色が変わった道賢は、イシシ、と笑いながら、両手で大夜の金貨を頂戴した。
大夜がその手首をつかみ、きつく握り締めた。
「いたたたたっ!」
「ガセネタをつかまされたと知ったら、ただ金を取り戻すだけじゃ済まねえ。もちろん、敵とこっちを天秤にかけるような真似もなしだ。くだらねえ小細工仕掛けてみろ。ケツの穴から体を全部、裏返しにしてやる」
大夜が手を離した。道賢は指の跡が青く残った手首をいたわりながら、首を低くした。
「では、話をききましょう」
弾正にうながされ、道賢はポツポツと話し始めた。
「お屋形さまは恋慕をしておられます」
「恋慕?」
「はい。それも今日の今日見かけたらしく――」
「相手はどこのお姫さまですか?」
すずの質問に道賢がまた、イシシ、と笑いながら、
「いえ、お屋形さまは衆道を嗜まれますから」
「シュドウ?」
今度は火薬中毒者がたずねた。シュドウとは彼にとって、起爆方法の一つ、自動と手動に過ぎない。
「男色ですよ」松永弾正が言った。「現世ではもうないのかもしれませんね。しかし、わたしたちの生きていた時代には盛んだったのです」
「そうなんですな」道賢がニヤニヤしながら言う。「武家に公家、それに坊主、やんごとなき方々はみな稚児を囲って男色に耽るのです。まあ、おれは万年水呑百姓のせがれの生まれだから、同じ肌なら絶対に女の柔肌に溺れたいものですがねえ」
「それなら弾正が相手でいいんじゃね?」大夜が言った。「癪だけど、あたしなんかより、あんたのほうがずっと美人に見えるし」
すると、骨皮道賢は大笑いした。弾正も苦笑している。
「右京大夫さまが男の役ではないのです」弾正が説明した。「右京大夫さまが、その、女子の役で、相手にはたくましい方を望まれます」
「そういうことで。その逢瀬が叶えば、お屋形さまもやる気を取り戻してくれるはずです」
「ふむ。で、殿はどこでそのものを見初めたのです」
「四条大橋を通ったとき、見世物小屋の集まったところで。何でも大立ちまわりがあったそうで」
「名前は?」
「さあ? 霞が閉じて、ちらりと見ただけだそうですが、とにかく背丈は六尺を超える偉丈夫で」
「それでは探しようがない。何か特徴は?」
「そういや、その侍、弾正さまが連れているような現世の連中を二人連れていましたよ。二人とも女子で――」
「ひょっとして――」大夜が、ぷぷ、と半笑いでこらえながら、たずねた。「そいつ、甘いものを食ってなかったか?」
「なんだ、知ってたのか。確かに羊羹を一本かじってた」
「ぷぷ、くくく」今度は大夜が大笑いする番だった。「ぎゃはははは! やっぱり、あいつらも落ちてたのか! でも、よりによって、あのおっさん、半次郎に惚れるなんて――ぶわはははっ! っは、は! げほげほげほっ、あー、苦しーっ!」
大夜のはしゃぎぶりに弾正と道賢はポカンとして、お互いの顔を見合わせた。