十一の十八
上京の小川通り沿いにある細川右京大夫の屋敷は細川右馬頭などの一門衆、それに三好、薬師寺、木沢といった重臣たちの屋敷に囲まれて立っていた。その正面の桧皮葺の棟門では陳情者がごった返していた。みな悪御所がらみのひどい災いに襲われ、何とかしてほしいと管領に頼みに来たのだった。悪御所の暴虐は貴賎も老若男女も問わない。上は公家から、下は牛飼いの童まで、公方さまに家を焼かれた、公方さまに兄を流罪にされた、公方さまが娘を斬った、といった悲痛な相談を持ち込んでくる。そのたびに屋敷の主、細川右京大夫は管領職も京兆細川家の惣領の地位も投げ出して、頭を丸め、静かな庭の美しい山奥の荘に引きこもってしまいたいという誘惑に駆られる。
大夜たちがやってきたのはそんなときだった。すやり霞で半分は見えないが、赤や緑の鮮やかな衣の陳情者の列は広大な屋敷の築地塀をぐるりとまわって、辻を越えて、近衛邸の門前まで続いていた。
「これ、並ぶの?」
大夜がうんざりした様子でたずねた。
「まさか」松永弾正は首をふった。「これでは一日かかっても、右京大夫さまには会えません」
弾正は大勢の陳情者が集まっている人垣へ割って入ろうとした。だが、人の壁は予想外に堅固でつけいる隙がない。門のそばには鮮やかな素襖の上に胴丸をつけた警護の侍がざっと十人ほど、弓や薙刀を携えて、塀に沿って座っている。鉄砲を持ち、手首に火縄を巻きつけて座るものもいた。門の前ではいくつもの黒い顔と赤い口がそれぞれの禍をしゃべり倒している。その相手をしているのは細川家の足軽頭らしいが、この男には顔があった。ひどく痩せた男で、元気なく垂れ下がった口髭を生やしていた。同じような陳情を何度もきかされたせいか欠伸が止まらないらしく、何か気散じを求めて、眼窩にはまった三白眼をぐりぐり動かしていた。
その目がすずに止まった。というのも、すずは大夜に肩車をさせて、人ごみの様子を探らせていたからだ。
「そこの娘! こっちに来い!」
人よりも頭四つは高い位置にいるすずは右の後ろ、左の後ろと振り向いて見てから、え、わたし? と自分を指を差した。
「そうだ。お前だ。こっちに来い。ほら、お前ら、道を開けろ、開けろってば!」
すずは大夜に肩車されたまま、その足軽頭の元へ着いた。ひらりと大夜の肩から舞い降りると、足軽頭は横柄に顎を突き出して、
「娘。肩をもめ」
と、言い放ち、あぐらを掻き始めた。
「えーと……」
すずがどう答えたものかと考えていると、
「考えるまでもねえ、このクソ野郎」
と、腹を立てた大夜が鯉口を切りながら前に一歩足を踏み出した。
「な、何じゃ、何じゃ」足軽頭が驚いて身構えた。「わしを細川家足軽頭、骨皮道賢さまと知っての物言いか? どうせ、己らも陳情者の類だろう? わしがうんとうなずかなければ、お屋形さまにお目どおりはかなわんのじゃ。いつもなら金子を要求するところだが、見たとおり、わしはずっと陳情者の相手をさせられて疲れておる。肩をもめ。そうすれば、この門、通してやらぬものでもないぞ」
「そうは行かねえよ、このトンチキ。まず、お前をぺちゃんこにして、この門を吹っ飛ばしてやる。火薬中毒者!」
すでにこの屋敷の発破解体を頭のなかに思い描いていた火薬中毒者が火薬入り試験管を左手の指のあいだに三本挟んで、いつでも投げられる態勢を取った。だが――、
「いいんですよ、大夜さん」
すずがその場を穏便に済ませようとした。
「でも、このスケベ野郎の言いなりになるなんて――」
「大丈夫です。こんなこともあろうかと時千穂流按摩術があります。まあ、見ていてください」
すずは二刀を外し、襟の返しが大波模様の陣羽織を脱ぎ、手甲を外してシャツの袖をめくると、早速道賢の肩を揉み始めた。
「ウム。なかなかよいぞ」
「時千穂流按摩術はお気に入りましたか?」
「ウム。よいよい。どこでこのような按摩を習った?」
「おじいさまからです。おじいさまもよく体が凝る人でしたもので」
「お前のじいさんは何をやっている?」
「時千穂流武芸の道場主でした」
「なるほど武芸達者か。こうして体をいたわるのも武芸には必要なことよ。おい、もっと強くやれ」
「はい」
すずは脇に置いた刀を一本、手に取った。
「こりゃっ。何をいたすつもりじゃ!」
「鞘の鏢で揉むんです」
すずは鞘の先に着いた鰻の尻尾のような鏢を指差した。
「時千穂流鞘按摩術〈鰻尾押鏢〉。まあ、騙されたと思って、試してみてください」
それからすずは鞘を両手でしっかり持って、鏢で道賢の首筋をぐっと押した。
「おおっ。嘘のように凝りが取れるわい」
道賢が気持ちよさげにしている様を見て、陳情者たちも口を閉じ、ずっと立ちっぱなしで何となく体の凝りが気になりだしている。
そのあいだ、道賢はすっかりくつろいで、足軽頭にしては気の抜けた声を上げ始めた。道賢はそのうち胴丸を外し出し、天下の大道でうつ伏せに寝そべり、
「お前、足力もできるか?」
と、たずねてきた。つまり、足で踏んで凝りを解す按摩なのだが、すずは、
「ええ。できます。そうしたら、お殿さまに会わせてもらえますか?」
「ウム。考えてやらんでもない」道賢は大夜のほうへ顔を向け、「おい、そっちのでかい女は下がっていろ。お前は重そうだし、どうせなら若い娘に揉まれたほうが気持ちいいに決まってる」
と、言って、道賢はそのまま寝るつもりなのか目を閉じた。
大夜がこの道賢とやらをどんなふうにしてぶち殺すか、考えていると、雑踏に隠れて様子を見ていた松永弾正が音をさせずに現われて履き物を脱ぎ、人差指を口に持っていくと、すずの代わりに骨皮道賢の体に乗った。
弾正はたたらでも踏みつけるように何度も足踏みし、時おりかかとで思い切り踏み、踏みにじるようにぐりぐりとやった。
「痛い! いたたたっ! こら! もっと気持ちよくやらんか! 痛くやるなら、殿には取次ぎしな――」
「ほう。殿には会えない。そう申すか?」
「ゲッ! そのお声は」
踏まれたままの状態で道賢は振り向いた。泡を食った道賢の視線は松永弾正のにっこりと優しげな微笑みにぶつかって萎れてしまった。
「しかし、道賢。驚いたな。殿に会えるか否かが、そなたの一存で決まるようになっていたとは。この弾正、全く気づかなんだわ。まあ、そなたが出世したようで、わたしも嬉しい」
ゴキッ、ゴリッ。
「うぎゃっ!」
弾正の足の下で痛そうな音を立てる道賢を見て、まわりの陳情に集まったものたちがやんややんやと囃し立てた。威張る小物がひどい目に合うのはどんな世界でもいい娯楽になる。
「どれ、道賢。わたしもすずどのに倣って、鞘の按摩をしてみようかな。ただ、わたしは不慣れだから、鞘が抜け落ちて、刃が刺さってしまうかもしれないが、そのときは笑って許してくれ」
「ヒ、ヒエッ。弾正さま、ご勘弁を! ど、どうぞお通りください!」
「そう申すな。ほれ、わたしが鞘で揉んで進ぜよう」
と、弾正は言いながら道賢が逃げられないようにしっかり足で踏み押さえて太刀の鞘を払ったのだから、道賢はたまらない。
「ひい、お、お許しをーっ!」
弾正は道賢の背中から退いて、刀を鞘に納めた。
「まあ、ここまでにしておこう。これ以上やっては悪御所だ」
こうして細川屋敷の門が開き、一行はなかに通された。
「これぞ、時千穂流兵法」すずがえへんと胸を張った。「按摩で敵の油断を誘って、敵の懐に飛び込み一気に攻め込む『揉解変転の計』です」