二の一
扇を笑わせたら金十両。
洒落のつもりで虎兵衛がかけた賞金のせいで、扇は無理にでも笑わせようとする連中に追っかけまわされるハメに。
そんなとき、かつて朱菊に入れ込んで勘当された豪商の息子文七郎の様子を見てきてほしいと虎兵衛に頼まれ、扇はほとぼりを冷ますつもりで半次郎とともに房総半島へと旅に出るのだが……。
「女郎の誠と四角い月にはお目にかかれない、ってきいたことあるか?」
正午すぎ。白寿楼のオモテ、中庭の池にある狂言舞台でのこと。
たっぷり一刻、棒の稽古をしたあとに大夜が、首筋の汗を拭き取りながら、扇にたずねた。
「なんだ、それは?」肩で息をしながら扇がたずね返す。
「四角い月なんて存在しないだろ? それと同じで約束を守る義理堅い遊女も存在しないから、どちらもお目にかかれないって話だ。まあ、遊女はあなたが一番ってみんなに言ってることを頭に置いて、自分の財布に合わせて相手の嘘に乗っかって遊ぶのが粋って話だ」
「それがどうかしたのか?」
「最近じゃ、こう言ってるらしい。女郎の誠と扇子の笑顔にはお目にかかれない、ってさ」
「扇子が笑うわけがない」
「鈍いやつだな。扇子ってのは、あんたのことだよ」
「ああ、そうか」
扇が扇の名を受け入れ、白寿楼で用心番として働き始めてから三ヶ月が経った。季節も初夏へ移り、日々、日差しが強くなり、気温が上がっている。遊女たちが水を張った桶に足を入れて少しでも涼もうとしているのを何回か見た。
扇、か。
ふむ、と考える。
なにせ、物心ついたころから番号で呼ばれてきたせいか、いまだに扇と呼ばれても気づかないことがたまにある。
大夜が続けた。「あんた、まったく笑わないだろ? それで大将が面白いこと思いついたんだ。あんたを笑わせたやつには誰であろうと十両払う、って」
「それで?」
「だから、笑え」
「何を笑う?」
「何でもいい。笑え。十両首」
「人を賞金首みたいに言うな」
「ほう、どうしても笑いたくねえってんだな」
「別にそんなことは言ってない。面白いこともないのにどうやって笑う?」
「そりゃ、こうやってだ!」
大夜が扇に飛びついて、組み敷き、身動きが取れない状態にして、脇の下をたっぷり五分くすぐり続けた。
扇はくすぐりに全く耐性がなかったらしく、これまで誰も聞いたことのない大声で――おそらく本人ですらきいたことのない大声で笑って笑って笑い抜き、大夜がどいたときにはすっかり体力を消耗し、うつ伏せになって、ぴくぴく動くだけで精いっぱいな状態になっていた。
「よっしゃあ、十両いただき! ちょろいもんだぜ! さあて、金が入ったら何食おうかなあ?」
拳を高々と空へ突き出し取らぬ狸の皮算用に勤しむ大夜に、待ったの声がかかる。
「駄目ですよ」泰宗が二階の回廊から、全て見ていたといった様子で釘を刺した。「無理やりくすぐるのはなしと決まったはずでしょう?」
「げっ、いたのかよ、泰宗」
「いましたよ、大夜どの」
泰宗は池に面する階段を降りて、扇が転がってピクピクしている舞台にやってくる。
「かわいそうに。なけなしの体力を全てくすぐり取られて、息も絶え絶えじゃありませんか」
「だって、十両ほしいんだもん」
大夜が頬をふくらませてむくれる。
「くすぐったくらいで十両が貰えるわけがありません」泰宗が言った。「もっと、こう、言葉で笑わせるのです」
「そんなの言うのは簡単だけど、こいつ二ヶ月前までは骨の髄まで殺しの鬼だったんだぜ。そんなやつ笑わせるってことになったら、くすぐる以外に方法なんてねえじゃねえか」
「では、わたしが手本を見せましょう。よく見ていてください。心の底からほっこりとする笑顔が見られますから」
泰宗は扇を仰向けにすると、軽く握った拳を口元に持っていって、コホンとやってから、涼しい自信すら見せて〈何か〉言った。
その〈何か〉は、どうも駄洒落らしいのだが、余りに下らないものだったため、扇も大夜もそれを聞き取らなかった。正確に言えば、聞かなかったことにしてあげたのだ。
泰宗は自分がしくじったことに、それもかなり恥ずかしいしくじりを仕出かしたことに気づくと顔を赤くした。そして、扇の顔を見ながら、
「苦笑いも笑顔のうちに入らないでしょうか?」
「入れてもいいけど、さっきの駄洒落、大将の前で言わなきゃいけないぞ」
「……忘れてください」
「賢明な判断だな」
「しかし、心の底から、ほっこりと人を笑わせるというのは大変ですね」
「寄席にでも連れてってみるか?」
「扇どのは笑いませんよ。おかしくても我慢するでしょう。それに笑ったとしても、十両は噺し家のものです」
「そっかあ、それもそうだな。ちくしょー。これじゃ、扇をうかうか外に歩かせられねえな。どこぞの幇間がひょっこり出てきて、笑いと十両をかっさらうかもしれねえ」
「幇間は客の機嫌を取って笑わせるために生きていますからね」
「よし。扇は笑うまで行灯部屋に閉じ込めちまおう」
「また、ずいぶんと無体なことを」
「そんじょそこらの幇間に十両を横取りされてたまるか。大将の十両はあたしがいただく」
「それをいうなら、わたしもまだあきらめていませんよ」
「そういうことだからな、扇。あんたは外出禁――あれ?」
二人が目をやると、床に倒れているはずの扇の姿が忽然と消えていた。