十一の十六
「風呂屋に連れてってやるよ」
風呂といえば、革堂近くの一条風呂――大夜たちが屋根をぶち抜きめちゃくちゃにした風呂が有名だが、もう一つ知る人ぞ知る風呂が畠山辻子にあった。
「いびりがいのあるハゲ猿もなし、殴りがいのある金柑頭もなし。ああ、蘭丸がいればなあ」カブキモノ――織田上総介信長はそう言いつつ、扇の顔をじっと見た。
「なんだ?」扇が訝しげな顔をした。
「いや……お前、おれの近侍として仕える気はないか?」
畠山辻子はいわゆる遊里で近衛邸から徳大寺殿まで道の左右には遊女屋がずらりと並んでいた。扇が見たところ、中二階以上の高さを持つ建物はなく、瓦を葺いている屋根はなし。天原と比べると規模は小さい。張見世もなく、見世の表は漆喰か網代の壁で塞がっていて、出入り口には紺に染めた暖簾が用心深く垂れ下がっている。窓は高い位置にあるので、なかを覗き込むことはできない。女たちも艶やかな小袖を着るが、髪はみな垂髪で簪の類を差すことはない。天原との一番の違いは遊女が自分で客引きをすることだ。妓夫太郎や番頭はいない。女たちは甘い誘い文句で、あるいは相手の袖をつかんで、引き摺り込むように客を取ろうとする。とにかく目立てばいいと思っている遊女はカンカンカンカン鉦を叩いていた。女同士の客の取り合いが始まると大変で、思いつく限りの罵詈雑言と噛みつきひっかき髪の毛を引っぱる残虐非道の戦いが繰り広げられる。野次が飛び交い、武家も公家も僧も町人も入り乱れて、ゲラゲラ笑う。黒い影に開いた赤い口が毒花のように咲き乱れる。そのせいか、畠山辻子の賑わいぶりは天原に負けずとも劣らない。
りんは恥ずかしそうに顔を赤らめていた。天原に住みながら、遊廓にはほとんど足を運ばないりんにとって、ここの町並みはどぎつく見えるのだろう。
遊女屋の遊女はみな黒い影で扇たちには顔で見分けがつかない。だが、信長が扇たちを連れて行こうとしている遊女屋は違った。女たちに顔があるのだ。業が深いと落ちるのがこの京地獄なら、きっと業の深い生き方をした末にここにいるのだろう。
「人探しや公方征伐に黒影の連中はあてにならない」信長がいう。「あいつらはこの地獄の一部だからな。だが、そうでない連中――つまり現世から落ちてきた連中は少し事情が違う。現世に戻るか、それが無理でも繰り返される悪御所の都焼きを何とかしたいという思いを漠然と持っている。とりあえず、頼れる綱がないのなら、現世から落ちた連中をあたるべきだ」
信長がいうには目の前の遊女屋は女たちも現世のもの、客も現世のもの、現世より落ちた人間でここを知らないものはいないという。
扇たちはその見世を見た。間口が二間で網代壁も暖簾も影の舌のように紅い。暖簾をくぐると、危うく足を踏み外しかけた。入ってすぐに階段になっていて、地下へと通じていた。赤染めの乱れ麻を張った木枠の箱に灯明皿を入れたものが、両開き扉の左右に吊るされてあった。寺社や陣屋の扉のような厚手の樫に鉄の鋲を打った頑丈そのものの扉には小さな覗き窓がついている。扉の向こうの笑い声や水音、笛や鼓の遊里囃子が漏れ聞こえてくる。信長は扉を二回、一回、三回と叩いた。覗き窓がさっと開いた。信長は間髪入れず、銀の銭を一枚、細い覗き穴へ放り込んだ。
「痛っ!」
銭が目にぶつかったらしく、声が上がった。
扉が開いて、一行をなかに招きいれた。褌に胴丸姿で野太刀を背負った大男が右目を押さえている。
「おう。息災か。九郎次郎」
信長に九郎次郎と呼ばれた大男は銀の銭を褌から下げた袋に入れながら、うなずいた。
「へえ。旦那。目をやられたことを除けば、息災でさ。いつも言っているじゃないですか。銭はおれが、銭は? とたずねてから入れてくれと」
「ああ、そうだった。ここに来ると気もそぞろになってな。許せ」
一階の建物からは想像もつかない広い板敷きの地下に出た。二十間四方はありそうな部屋を竹で作った屏風で区切って、それを赤い麻箱の灯で怪しく照らし、一つ一つの囲いに五右衛門風呂が焚かれている。風呂は全部で三十以上はありそうだった。胴を焼き物、底を鉄板にした風呂の竃を褌一つの下男が全身汗みどろになりながら必死にふいごを動かし、薪をくべていた。客も雇人もみな顔がある。骨と皮だけの顔に目が達磨のようにぎょろついた男やふくれた水死体のようなあばた顔の老人。どの顔も悪人面で一癖も二癖もありそうな連中だった。一方、肌に張りついた湯衣をつけただけの美しい湯女が客の体を布でこすったり、酒や肴を持ってきたりしている。笛を吹き、鉦を鳴らしながら、鳥のさえずりににた声で唄い、ひょこひょこ足を上げて踊っている湯女の踊り子たちもいた。
湯女が何人か、泰宗に誘いをかけてきたが、やんわりとかわす。ただ杯を突き出されたら、漏れなく飲み干した。久助は湿気でエレキ銃が駄目にならないか心配らしく、外套のなかにくるんでいた。りんはそこいらじゅうでなされる姦淫の数々に赤面していて、扇にたずねすにはいられなかった。
「あの……白寿楼もこんな感じなんですか?」
「少し違うな。あっちはもっと宴を豪華にする。あそこの遊女たちはそんなすぐに肌を許したりはしない。ただ、おれはいつも用心番部屋に篭ってるから詳しいことは知らない」
広間の奥にかなり大きな五右衛門風呂があった。竃が三つあって、風呂には湯女たちが十人、一人の男を囲っている。一目見れば、忘れられない異相の男だ。大きな獅子鼻が顔から出っ張っていて、はれぼったい瞼を無理やりこじ開けたように目が爛々としている。分厚い唇に縁取られた口は大きく、黄金造りの煙管をくわえている。寸鉄帯びずに湯女を侍らせる男の前には小さな舟が浮いていた。長さ二尺、幅七寸はありそうな舟の模型には大名用の煙草盆、煎酒で煮た雉、燗酒が乗っている。
男は信長がやってくるのを見ると、煙をぷかりと吐いて、煙管を盆に置いた。
「これは、これは、右府どの」
取り繕った皮肉な礼儀を見せて、男が挨拶する。
「沐浴の最中に迷惑だったか?」
信長の問いに男は滅相もないと首をふる。
「いや。尾張の大うつけと話すのは楽しい。そして、おれは楽しいことには目がないとおめでた野郎ときている。ところで、あんたの子分のあの猿は見つかったのかい?」
「見つからんね」信長は言った。
「是非ともどこにいるか知りたいものだな。いろいろ言いたいことがある」
「おれもだ。だが、まあ、猿の話は置いておこう。それより五右衛門。お前、天下を取りたくないか?」
五右衛門と呼ばれた男はニヤリと笑った。その歯はヤスリで削り合わせたように素晴らしい並びをしている。
「そりゃくれるってんなら、もらってやってもいい。だが、悪御所がいるからなあ」
「その悪御所を討てるだけの隠し玉が今、ここにあると言ったら?」
五右衛門は信長の後ろに立つ扇たちに目をやった。
「その後ろの見慣れない連中ってのが隠し玉かい?」
「品玉のタネはまだ明かせないが、まあ、そう思ってくれていい」
「仮にあんたの天下取りに乗っかるとして――」五右衛門は湯女の注いだ杯を一飲みに干した。「おれに何をしてほしい?」
信長は扇たちを顎で差した。
「こっちの四人は探してるやつがいる。お前は京じゅうの盗賊に顔が利く。そこでその失せ人を調べてもらいたい」
「分かった」
五右衛門が手をパンと打つと、年老いた男が小さな書卓をかかえてやってきた。
「その探し人のことを話してくれ」
扇は虎兵衛の外見、性格を説明した。呼び出された祐筆の年寄りがそれを記した。
「子分たちにこの情報を流してみよう。うまくいけば網にかかるだろう。何か分かれば、すぐそっちに子分を送る」
「つなぎはどうする?」
「おれは天下の大泥棒、石川五右衛門、手下の数は千を超える、と来たもんだ。どこにいても、すぐに伝えられるさ。それより、一っ風呂浴びていかねえか?」
「遠慮する。やることはまだいろいろとあるんでな」
信長は四人を連れて帰っていった。
五右衛門は雉を手づかみにしてパクリと食べると、面白くなってきやがったな、とひとりごちた。
そのとき、二回、一回、三回と戸を打つ音がした。音は大風呂の右手の衝立の陰、信長たちのいた場所からは見えない位置にある扉からきこえた。
「おい、九郎次郎。お客人だ」
右目に眼帯をつけた九郎次郎が小走りにやってきて、扉の覗き窓を開けた。
すると、また電光石火は早業で銀の銭が投げ込まれ、今度は左目に当たった。九郎次郎が手探りで扉の錠を外すと、松永弾正が髪にからまった蜘蛛の巣を優雅に払いながら現われた。それも見慣れぬ三人を連れてだ。
「弾正どのがお越しか」五右衛門は湯女に杯を差し出し、酒を注がせた。「その様子だと、討伐がかけられたと見える」
「屋敷を焼かれましたよ」
「悪御所ですかい?」
「ええ、いかにも悪御所です。彼以外の誰がわたしの屋敷に火をつけるんです?」
「織田上総介信長」五右衛門は杯の酒をあおった。「風呂でも浴びてくかい?」
「いえ。ここには抜け道が通じていたから来ただけです。細川屋敷へ行かねばならぬので」
「細川屋敷? 主筋の三好家の頭越しに右京大夫どのに談判か?」
五右衛門が怪訝に思うのも無理はなかった。細川右京大夫は京で最大の大名で、松坂弾正はその家臣である三好家の家臣――つまり陪臣にあたる。それが主家を跳び越して、直接、細川屋敷に向かえば、三好家はいい顔はしないだろう。
だが、松永弾正は瑣末なことだといって、気にする様子はない。
「三人よれば文殊の知恵という言葉がありますが、三次三人衆を見れば、嘘と知れます。あんな馬鹿を、それも三人もいちいち相手にしている時間はありません。では、失礼します」
松永弾正と三人の連れが出て行った。その背を見つつ、五右衛門が呻るように呼びかける。
「おい、九郎次郎」
「へえ」
両目を赤く腫らした九郎次郎がこたえる。
「町の様子に気をつけるよう、手下どもに伝えろ。織田信長に松永久秀。どちらも悪御所がらみで何か抱えていて、見慣れねえ現世の新入りを連れている。こいつは面白くなってきやがったな」