十一の十四
「えーっ、あれ、嘘なのかよ」
半次郎の失望した声。
「嘘もなにも――」道三がこたえる。「そのようなこと、わしが吹聴したわけではない。わしが死んだ後に誰かが勝手に言ったことだ」
あれ、というのは一文銭の穴を通して油を注ぐという技である。
「そんなことできるわけがなかろう」
道三はさも迷惑と言わんばかりに首をふった。
舞は時乃を見た。時乃も少なからずがっかりしているらしい。その妙技を珈琲にミルクを注ぐ際に真似してホテルの目玉にしようとしていたフシがある。そうとなると大変だ。ミルクを注ぐ役は自然、女給役の舞が司るわけなのだから。
しかし、と舞は思う。どうも、このなかでこの斉藤道三という男のことを聴いたことがないのは自分だけのようだ。まあ、当たり前だ。道具がどうして歴史を覚えなければいけないのか。
一行は三条橋のたもとから加茂川の河岸に沿って、下っていた。悪御所の手下蛇阿弥がその力を取り戻すには道三が隠した八つの能面が必要なのだ。
「この数日前から公方のお庭者が妙に動き回っているときいた。また悪御所が誰か公家を手打ちにしようと、あら探しでもさせているのだと思っていたが、悪御所が力をつけてきている今となっては、あれは蛇阿弥の面を探させていたのだな。まったく、油屋稼業が長引いて慢心したわい」
河原沿いに舟宿がいくつかあった。梱や俵を扱う問丸ではなく、加茂川で釣りや川遊びをするものたちが使う遊興屋で小さな舟を貸し出している。加茂川での鉄砲猟は禁じられていたが、それでも河原の鴨や雁を狙う馬鹿者がいるらしく、舟宿街には禁猟の高札が高々と掲げてあった。
さっき聞こえたあの轟音も銃声だったのだろうか。舞はこの少し前、室町通りの下京のほうから響いてきた物凄い音をきいた。その落雷のような音は遠くではなく耳元で鳴ったと思うほどの大きな音だった。ひょっとすると、銃声がいくつも折り重なったものなのかもしれないが、どうも違うように思えた。だが、道三にたずねると、すやり霞が雷を落としたという話はきいたことがないという。
舟宿は客を乗せた舟をそのまま川下の遊里へ連れて行くことが多いせいか、どこか緩んだ賑やかさが白粉のように香っていた。美童の稚児を連れた頭巾かぶりの僧、泥酔した侍、踊りまわる笛吹き、舟が来るのを待てずにここで客引きをする遊女もいた。卑猥な浄瑠璃や遊女歌舞伎のかなりきわどいものがかかる小屋も組まれ、下手な遊廓よりもずっと淫らな町並みだ。
道三は馴染みの舟宿に行くと、以前から借り切っている舟を一つ借りた。
「まむし屋の旦那。今日はどちらの見世へ?」
「さあな。舟を漕ぐうちに決まるだろう」道三はとぼけた。
「船頭はお付けしなくてもいいんでがすね?」
「ああ。この通り、連れて行く客が多いのでな」
こうして、舞たちは道三の漕ぐ舟の客となり、加茂川を下っていくことになった。そのあいだ、時乃が舞にホテルに関する新しいアイディアが浮かんだと言った。考えではなく、アイディアと言ったのだ。
「ホテルに劇をかける」
「さっきの河原でやっていたようなものか?」
「ううん。卑猥なのはなし」
「どうして急に?」
「あの賑わいをコスモポリタンに持ち込めたら素敵でしょ?」
「時乃、どうかしたのか? 何か道に落ちてるものでも食べたか?」
「あなたも言うようになったわね」
「しかし、コスモポリタンがこのままでは逢引宿になる」
遊廓天原において、ホテル・コスモポリタンは遊女と客の逢引を禁じている。貸座敷の縄張りを侵犯するものだし、時乃も自分のホテルを木賃宿にするつもりはなかった。舞は口や表情には出さなかったが、その自分の領域を強く守る気質はいいことだと思っていたし、機関に捨てられて狼狽した自分にもそんな強さがあれば、実にいいことだと思っていた。
その矢先にこれである。時乃はあの賑やかさが欲しいと言い出した。
時乃が言った。「ねえ、舞。気づかなかった? 見世物小屋のあの小さなねずみ木戸をくぐったとき、どこか別の世界へ行くような感覚」
それは確かに覚えがあった。竹矢来と蓆という貧弱な材料で区切られた外と内。その内の世界へと入るのをわざわざ小さな戸口を使うところに、何か面白そうな、尋常ではないものが待っているような感覚を与えていた。
「まあ、確かにそんな気はしたが――」舞はぼそりとこたえた。
「でしょ? それをコスモポリタンで再現させる。どうやってかはまだ未定だけど」
と、話しているうちに舟は四条大橋の下をくぐった。頭上から幾百の履き物が板を踏む音が降ってくる。
「もうじき祇園会がある」道三が言った。「そうなると、このあたりはかなり騒がしくなる」
「妖かしの京でも祇園会はあるのか」半次郎がたずねた。
「妖かしといえど、そこは都人。祇園会はある。町衆ごとに山鉾を用意するが、悪御所の力が強くなると、どうだろうなあ……」
四条大橋を過ぎて、そのまま流れていき、今度は五条大橋が見えてくる。橋の袂はすやり霞に隠れていて、川面にも濃い霞が金色に照り輝いている。
「五条大橋が大橋になる前――」道三が言った。「五条の橋は中島という中洲を経由してかかっていた。そこには大黒堂があって、陰陽師の墓があって、家や店だのも数軒あったが、この通り、大橋が出来上がると廃れて、どこかに消えた――いや、消えたんじゃない。見えなくなって忘れられただけだ」
五条大橋をくぐり、霞の濃い場所へ漕ぎ進む。そのうち舳先から密に生い茂った蒲や葦の擦れる音が鳴り出した。すやり霞に隠れた中州は人の背ほどある葦に取り囲まれていた。船べりをかすっていた葦のおしゃべりはそのうち舞たちの頭上から降ってくるようになり、舟は葦でこさえた洞窟をゆくように中州の岸辺を目指すことになった。色は恐ろしく冴えていて、緑と灰が目に染みるようだった。
船底が、ごり、と砂洲をこすると、いよいよ下船となった。葦蒲が擦れる音と霞で見えない五条大橋の賑わいがぼんやりと聞こえる。お堂も民家も道も草木に埋もれていた。土壁は崩れ、屋根に葺いた苫からは分厚く菖蒲に似た葉が生えていた。白い花をつける緑樹がお堂を取り囲んでいて、屋根に葺かれているはずの青銅は売るためだろう、残らず引き剥がされていた。
「これでも清水寺への参詣路だったんだがな」道三は緑の蔓を千切って捨てた。「ウーム、どこに隠したか?」
「忘れちまったのか?」
半次郎の半ば驚き、半ば責めるふうな問いに、
「前に来たときはこんな森みたいになっていなかったのだ」
と、道三は言った。
とりあえず探そう。そういうことになった。
しばらくして、斉藤道三はその矜持を少し傷つけられてふくれることになった。というのも、物を隠す場所として中島は誰も思いつかない場所だろうと思っていたのだが、全員で雑草を引きちぎり、瓦礫をどかし、怪しげな床を刀の鞘や銃床で叩くうちに、盗賊が隠したらしい宝物、守銭奴が隠したらしい銭の詰まった甕が三つ、それに謀反を考えている輩の隠した武器がどっさりと出てきたからだ。
「人は結局、人が考える以上の知恵は出せないということか。みな同じ策を企てているのだからなあ」
道三は見つかった火縄銃を眺めていった。それが謀反のことを言っているのか、隠し場所のことを言っているのか。武器はその他にも備前太刀、弓、薙刀。武器は桐油張りの紙で包み、小屋の裏手に埋められていた。
盗賊の宝物はお堂の屋根裏に隠してあった。お堂は天板が全部抜け落ちていたから、この宝物が一番最初に見つかった。どこかの寺から盗んだのであろう贅を凝らした仏具、茎に三条小鍛冶宗近と銘打たれた太刀(道三は偽物に決まっていると言った)、鯨からとれる貴重な龍涎香など。一人仕事ではなく、それなりの人数がいる盗賊団の仕事だろうと推測した。隠したはいいが、全員侍所に討たれて、宝物だけがこうして宙ぶらりんになっていたのだろう。
銭が詰まった三つの甕が一番手の込んだ場所に隠してあった。守銭奴は恐れ多くもお堂の仏像をくりぬいて、なかに隠したのだ。それが知れたのは舞が恐れ多くも仏像を蹴飛ばしてなかが空洞になっていることを確かめたからなのだが――。守銭奴は三つの甕にそれぞれ七貫ずつの宋銭を隠していた。一つの壷が七千枚の銭だから、全部合わせて二万一〇〇〇枚ということになる。おそらく土一揆や戦による略奪、幕府の撰銭令を免れるために隠したのだろう。銭は磨り減り具合で等級分けされているようで、銭に通した紐の色で区別がしてある。私鋳銭や永楽銭は一枚も混じっていなかった。守銭奴の執念を感じる代物だった。
「肝心の能面が見つからない……」
舞は誰も言わなかったこと、言おうとは思ったがあえて言わないでおいたことをつぶやいた。こうして盗賊だの守銭奴だの謀反人だのの隠した物を見ていると、もう誰かに見つけられてしまっているのではないだろうか。
「いやいや。待て。一つ、思い出したことがある」道三が言った。「大黒堂は真言宗の寺なのだが、ここには平安時代の陰陽師たちの墓がある。五条橋の中島がすたれる前に墓を移しているかもしれん」
「じゃあ、あんた、よりにもよって陰陽師の墓に隠したのかよ?」半次郎が呆れた様子で言った。「よく祟られなかったな」
「馬鹿馬鹿しい。すでに祟られてここに落ちたのだ」道三は開き直った。「この上、祟って何が出来ようか」
「取りあえず洛中に戻りましょう」時乃が言った。「墓を移した先を調べればいい」
「やれやれ」半次郎は羊羹をもぐもぐやりながら葦の茂みを掻き分けていった。
「舞。どうしたの?」
お堂の入口でしゃがみ込んで靴をいじる舞に時乃が声をかける。
「靴紐がほどけそうだ。先に行っててくれ」
時乃が葦の茂みに消えると、舞は靴をいじるふりをして、右手に一本、左手に五本の棒手裏剣を握った。
コトリ。
物音へ手裏剣を放った。喉を押さえながら、赤い直垂姿の忍びが斃れる。気づかれていたとは思っていなかったらしく、残り二人が身を翻そうとするが、舞は左に握った棒手裏剣を一本ずつ送りこみながら右手で放った。二人の賊はそれぞれ二本の手裏剣を頭蓋と首の付け根に受けて、声もなく息絶えた。
これで時間は稼げる。音一つさせなかった。上出来。腕はまだ落ちていない。おそらく時乃たちも気づいていないだろう。なぜか分からないが、今、時乃たちに自分が人を殺すところを見られたくなかった。雰囲気の問題か、それとも興がかかわっていたりするのか――。
迷いに似たものを断ち切るように、ふるふると首をふると、舞は靴の爪先を地にとんとんと二度軽く打って、そのまま舟のほうへと駆けていった。