十一の十二
大夜とすず、そして火薬中毒者はマホガニーの天板に乗ったまま、幾重ものすやり霞を貫き、蒸し風呂屋の板屋根を貫いて落ちた。桶が割れて、湯が飛び散って、湯女が悲鳴を上げて、裸の黒い影たちがあたふたと外に転がり出て行く。
「いってぇ」大夜は思い切りぶつけた頭をさすりながら、身を起こした。「どこだ? ここは?」
黒い影のような顔をした人々はみな逃げ去って、この状況を説明してくれるものは皆無。火薬中毒者が妙に興奮して何か口走っていた。
「やっぱり思ったとおりだ!」火薬中毒者は棒切れを拾うと金箔の地面に図を書き始めた。「あの図書館は中央の床の下が空洞だったんですよ。つまりですね。図書館の四隅が内側に倒れるように爆薬を設置し、次に図書館の中央の床を吹き飛ばせば、瓦礫はみな全て中央に開いた穴へと落ち込み、六角堂の敷地には塵一つ飛んでいかない。これぞ、発破解体の妙技ですよ。ね?」
「あんたがいい仕事したのはよく分かった」大夜が言う。「で、ここはどこなんだ?」
「さあ?」火薬中毒者は肩をすくめた。「ただ、吹き飛ばすほどの価値はなさそうですね。屋根にあんな大きな穴が開いてしまっては、九十九屋さんの言葉を借りれば、興がない発破解体になってしまいますもんね」
「大将が発破解体に興を感じるかねえ……」
「見つけたら、ぜひたずねてみましょう」
「それよりもここはどこなんだよ?」
いつの間にか外に出ていたすずが半壊した蒸し風呂屋に戻ってきた。
「場所が分かりました。そこの窓から隣を見てもらいますか?」
「どれどれ――」
見ると寺の境内で、大きな鐘が下がっていた。
「でかい鐘だな」
「あの鐘に傷をつけないようお堂を発破解体するには……うーん」
すずが説明する。「あれは革堂です。つまり――」
一八七〇年版の京の地図を広げて、指を差した。
「ここにいるわけです」
「へえ、京のだいぶ北にいるわけか。でも、すず。あんた、よくそんなこと知ってたな」
「実は革堂のそばにはおいしい湯豆腐屋さんがあるんですよ」
「生きて帰れたら食ってみたいもんだ。ところで、この地図はどれだけ正確なんだ? どうみても、あたしらのいるこの場所は一八七〇年の京じゃない」
三人は妖怪にハメられて落とされた金色の京をうろついて見た。通りすがる侍たちがみな弓を携えていて、火縄銃が見つからないところから、火薬中毒者は少なくとも鉄砲伝来前だと見た――と思ったら、三十匁大筒を手にした足軽が姿を見せる。すずはいくつかの屋敷の塀をよじ登って、厨を覗き見してみた。そこでは烏帽子青直垂の包丁師が箸で魚や鳥を押さえてさばいていたが、鶏やふぐが食材としてなく、芋は里芋のみ、そして、醤油がないことから、だいたい室町時代後期と見当をつけた。だが、そう思って、そばの網代傘を差す一服一銭を見ると、お茶菓子にと白糖をかけた白玉を売っている。白い砂糖は江戸もだいぶあとのころの品のはずだ。黒い影の着ているものや家のつくりを見ると、室町ごろの気はするのだが……。
革堂から南へと歩く。道の左は草葺屋根の土塀が続いていて、右は小川が流れていた。板一枚で渡せるくらいの細流だったが、黒い水の動きははやく、ちぎれた水草がくるくる踊りながら流れていく。小川の向こうは見世棚に足袋や錫具、紐を通した宋銭、魚の干物を並べた草屋の並びだ。人の顔が黒影一色、そして開いた口が血のように赤いことを我慢すれば、落ち着いた町並みと言えた。だが、通りはいくつかの木戸と塀で区切られていることがあった。木戸のなかには櫓を構えているものもあり、戦に備えているらしい様子も伺えた。
見上げれば黒い空に金の雲。松の青さが見事に映える。この光景も見慣れれば、そう悪いものではない。誓願寺や弁財天の社からはお囃子の音が聞こえ、縁日のようなものもやっているらしい。
「なんでかなあ」大夜が言った。「あたし、ここが嫌いになれない」
妖かしが跋扈するにしては寺社が多いのは京ゆえか。名のある寺院も小さな祠も周囲に店や商人を集めていて、大道芸人も寄ってくる。都人が見世物に弱いのは妖かしの京でも変わりはないらしく、出店や品玉を扱う田楽のまわりは人だかりになっていた。
まるで屋台堤のようだ。
塀が尽きて、板葺きの町家が見え始めた。葦や蒲が鬱蒼と茂る水場が河原のほうまで続いていて、いくつかの武家屋敷が堀の水をこの水場から引き込んでいる。霞のあいだを縫うように歩いているうちに人で賑わう縁日のような石畳の道を歩いていた。禅宗寺院の門前市らしく、蓆一枚広げて欠けた硯や瀬戸物を並べた女商人や端折傘を差し薬草茶を煎じる翁がいる。
「お煎じィーもの、お煎じィー」
「天竺の奇術ぅー。南蛮の幻術ぅー」
葱の羹を出す店がある。蓆の屋根をつけた屋台の見世棚には赤黒い大鯉や飴をかけた饅頭、雁や鶉、つるつるした青い瓜が並べてある。唐子を操る女傀儡師、銀の砂で仁王や山水を描く老人、鼠除けの猫の絵描きといった芸達者たちが銭を乞うている。小素襖の侍の一団が刀の鍔が並んだ店の前で品定めをしていて、小さな女の子を連れた若い夫婦は風車を一つ買ってやっている。墨染めの衣を着た稚児。どこかの屋敷の雇人。質流れの古い小袖をどっさり背負った蔵まわりの商人。
影のような人々にも生活があるようだ。
「あっ」
大夜は思わず、声を上げた。
「どうかしました?」
すずがたずねると、大夜が、
「大将がいた」
と、人ごみを指差していた。そこは広い道に屋台が三列にならんでいて、一番込み合っている場所だった。左右の外れは濃い藪である。すずと火薬中毒者は目を凝らしたが黒い影の人ごみはかなり分厚く、それに金色の霞がかかるので、大夜が見たという虎兵衛の姿はほんの一瞬しか見えなかった。
「どこです?」
「あっちだ。左の屋台の並びのほう」
そのとき、ふいに結んでいない長い髪の男が立ち上がった。直垂姿で烏帽子はかぶっていない。
「いたぞ! 大将だ!」後姿を見つけた大夜がすずと火薬中毒者にあそこだと教える。「――って、あれ? 大将は何をやってんだ?」
虎兵衛は人ごみのなかで歩いては金箔の地面から砂を拾っては小首を傾げて、捨てている。ときおり、砂を選り分けて、結び紐に玉をつけた袋のなかに入れている。
大夜が大声で呼ぼうとしたとき、屋台の後ろの藪の人影に目が行った。藪から筒先が出ている。
咄嗟の判断だった。大夜は刃渡り六寸の鎧通しと抜くと、その藪へ放った。ぎゃあ! と声が上がり、藪から斃れてきたのは覆面で顔を隠した侍らしい黒い影。鎧通しは賊のこめかみを深々と捉えている。その手には毒を仕込んだ吹き矢が握られていた。
途端に賊が湧いて出た。侍烏帽子をかぶり、覆面、籠手、脚絆、直垂を赤でそろえた侍が十八人。小太刀を低く構えている。烏帽子と覆面のあいだの顔は黒い影だが、赤い目が禍々しく光っている。
買い物客や見物人の悲鳴が上がった。赤い賊は虎兵衛に襲いかかろうとした。そのとき、虎兵衛が太刀を抜きつつ振り返った。
それは虎兵衛ではなかった。もっと若い、華奢で目がぱっちりと大きい童顔の美青年だ。
人違いだったが、賊の一人を討ったのは間違いない。
赤い衣の賊たちは大夜たちにも襲いかかった。
隠れてろ、と火薬中毒者に言って、大夜は孫六兼長一尺六寸の脇差を逆手持ちにして右で持ち、左手には分厚い鉈を握る。低い位置からの切り上げで喉を狙う賊の攻撃を脇差で受け止め引き外しつつ、鉈を叩き込む。肩口をしたたかに斬り割られた賊を蹴り倒すと、見世棚が巻き添えを食って、饅頭が転がった。
だが、大夜の目は立ちはだかった次の賊を捉えていて、がら空きになった横鬢に殴りかかるような腕さばきで右の片手打ちを見舞う。
頭から黒い血を噴きながらのけぞる賊の横をすずが二刀を抜いて駆け抜け、新手の二人を飛び違い様に斬り捨てた。
すずは虎兵衛と間違えられた侍の援護に向かった。その侍は剣はあまり使うほうではないらしく、三人の赤直垂に次々切り込まれて追いつめられている。徐々に剣が浮き上がり、もうじき胴に逃がしようのない致命的な隙が生まれるだろう。
その前に斬る、とばかり、すずの剣閃が風を切って、赤直垂の覆面首を一拍遅れて、切り離す。さらに跳んで、刃がぶつかり、火花が散って、体をめぐらせる。一人の烏帽子に梨割りの一撃を打って頭蓋を斬り割り、もう一人の胸を左の刀で突き通し、素早く刃を蹴り外した。
大兵の赤直垂がすずの前に立った。四尺はあろうかという長巻を大上段から振り下ろす。
「うおっ」
「つぇええい!」
二人の気合が大気を衝く。すずは敵が切り込んだ一太刀を右へかわしつつ、二刀で胴を払った。刀身が肉を抉った響きが肩に伝わる。大兵は斃れた。
すずは眼前に三間の間合いを開いて、二人の赤直垂と向かい合っていた。どちらも脇差を抜いての二刀である。あわせて六の白刃が慌しく閃く斬り合いのすぐ後ろでは火縄をつけた短筒がすずの背中を狙っていた。
賊の指が引き金にかかろうとした瞬間、死角から飛んできた鉈が賊の手を切り落とす。
腕を失った賊が大夜の追い討ちで喉を切り裂かれ、返す手で脇腹を抉られる。
鉈を拾った大夜がすずの加勢に入る。
鉈が閃く。指が飛ぶ。
兼長の脇差が閃く。刀が落ち、腕がそれに続く。
大夜は脇差を両手を失った相手の喉元に真っ直ぐ向け、トドメの突きを繰り出した。
もう一人はすずの両手から絶え間なく繰り出される突きと斬撃をいなしきれず、顔、首、胸をたて続けにやられた。
賊は骸を残して、退いた。だが、すぐに増援を得て、逆襲に転じようとするだろう。賊の身なりと身ごなしを見る限り、人を隠密に屠るためことを専らとしているらしい。こんな世界にも〈鉛〉のようなものたちが居るのだと思うと、大夜は自分の業の筋金の入り具合にため息の一つもつきたくなってくる。
「ここはいったん跡白波を決め込むか。ただ、その前に――」
虎兵衛と間違えた侍と面と向かってみた。背は同じくらいだが、ずっと若く、顔が違った。虎兵衛は役者顔だが、こっちは同じ役者でも、幕府発禁の若衆歌舞伎で女形をしそうな童顔の可憐な美青年だった。
「ありがとうございます」澄んだ声で青年が言う。
「なに、人違いで助けたんだ。礼を言われる筋合いはないよ」大夜は言った。
「人違い?」
「そ。人を探しててあんたの後ろ姿が似ててね」
「失礼ですが、お名前をうかがっても?」
「大夜。そっちは」
「ああ。申し送れました。わたしは松永弾正少弼久秀と申します」
主家乗っ取り、南都焼討、公方弑逆。戦国乱世でも指折りの大悪人が邪気のない微笑みを添えてこたえた。
それは天魔のごとき美貌で、天魔のごとき狡猾だった。