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廓雲と扇の剣士  作者: 実茂 譲
第十一話 洛中洛外図扇と梟雄悪御所百鬼夜行
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十一の八

 歌舞伎小屋の囲いのなかは真ん中に入母屋屋根の舞台があり、笛と太鼓を前に控えた少女たちがずらりと並んでいて、三味線を手にしたほっそりとした少年が二人、みな青に白の桜花散らしで朱の帯を結んでいる。主役の太夫たゆうはまだ見えない。舞台の左右には桟敷があり、その下は土間だった。桟敷の下では三枚の瓦を使った小さな竃がありちまきや饅頭が蒸され、糖蜜を塗ったサツマイモの素揚げやきな粉をふった山芋の甘味噌煮が蒔絵の剥げた重箱に詰められて売られている。俥夫や職人、女子や童たちは芝居の始まるのを待ちながら、ベタベタした甘味を手づかみでむしゃむしゃ食べていた。

 太鼓の音がどんどんと耐えない。櫓を見上げると、太鼓打ちの少年は寝そべっていた。それで先ほどから絶えず鳴り続けているのが遠雷だと気づいた。舞が食べ物売りの蓆囲いを離れると、観客でいっぱいの土間席から白髪を茶筅結びにした老人が立ち上がり、雉の尾羽根を手にして右の桟敷席を指した。

 そこに半次郎と時乃が座っていた。おそらく二人も老人にそこを指されて座ったのだろう。老人は白い眉毛が長く垂れ下がり、目を見ることができなかった。うつむきながら、ただ雉の羽根をゆらりゆらりと揺らすだけで、これ以上のことはわかりそうにない。

 板敷きの桟敷に上ると、下の土間よりは立派に見える客たちが座っていたが、ここも二つの異なる時代が錯綜しているようだった。薬草師らしい直垂姿の男が扇子で顔を隠してあくびをしていた。トップコートと呼ばれるラクダ色の軽めの外套にピカピカのシルクハットをかぶっている初老はしきりに懐中時計を取り出していた。頬髯を生やした海軍士官らしい異人とその連れらしい青い目の女性が観劇用にスイスで買った切り換え式望遠片眼鏡をいじっている一方で、高烏帽子に素襖の上に袈裟をかけた老侍とその娘らしき打掛小袖うちかけこそでの花模様がいじらしい姫が手に赤い小さな実をつけた枝を手にしている。

 時乃と半次郎は櫓のそばの席に陣取っていた。

「おう。きたな」

 どうやってせしめたのか、半次郎は甘味売りの重箱を二つそばにおいて、竹串でひょいと刺し上げて、頬張っていた。

 時乃に手招きされ、舞は半次郎と時乃のあいだに座った。板張りの床に藁で編んだ円座が置かれていて、そのうえにちょこんと座った。舞はいざというとき、時乃を援護できるよう、円座を五寸ほど後ろへずらして座った。

 土間にひしめく頭の海に竹の子皮の笠、向かい鉢巻、山高帽、侍烏帽子、シルクハットの長いものが浮いている。土間の頭はゆらゆらきょろきょろと落ち着かず、水面から出る杭のように立ち上がる町人もいたが、出る杭は打たれるのことわざの通り、まわりの客に座れときつく言われて、町人はしぶしぶ座った。

 船が機雷に触れたようなくぐもった雷の轟きが数度続いた。空は雲一つない青空で雷がどこに落ちているのか分からない。これから雨になるのか、嵐がくるのかすら、分からなかった。だが、銃声と同じで客たちは雷にも無関心だった。

「この土間に爆弾を投げたら、さぞ楽しかろう」

 物騒な物言いは舞のすぐそばに座っている子どものものだった。見た目は十か十一くらいの裸足の童が年寄りのような声で言ったのだ。いいかげんな染めの衣の腰を縄で結んでいて、顔は青白く、大きな目がキラキラ光っていた。少年は続けた。

「真っ赤に燃えたイナゴの群れが飛び込んだら、さぞ楽しかろう」

「桟敷が倒れて下敷きになれば、さぞ楽しかろう」

「誰かが血反吐を吐いて病が流行れば、さぞ楽しかろう」

 この空間は異常だ。ここで一戦ありそうだと、舞は思い、警戒している。が、半次郎はきな粉をふった芋菓子を食べるのに忙しいらしく、周囲の異常な気配に備えるつもりはないようだった。重箱が空になると、白い水干を着たわらべが現われて新しい重箱を持ってくる。そのとき半次郎は代金を払っているのだが、この調子で食べ続けると、半次郎は小屋の表にそばにある銭見世に和泉介親衡の名刀を売り払ってしまいそうだった。だが、どういうわけだか、半次郎の所持金が減ることはなかった。懐のカクシに手をやると、宋銭が必要なだけ出てきた。

「この小屋全体が妖怪変化のこしらえた罠だとしたら――」半次郎は口のまわりをきな粉だらけにして幸せそうに言った。「なかなかいい心がけの妖怪だな。ぶった切るときは痛くないよう頭からケツへ一刀両断にしてやろう」

 せめてもの救いは時乃が現状を認識していることだった。時乃は相手に向かって引き金を引いたのに弾が出ないという銃使いならだれでもみる悪夢を防ぐため、銃の撃針を調べたり、薬室一つ一つを開けて、弾丸の薬莢にきちんと雷管がはまっているか確かめたりしていた。

 話し声が止んだ。太夫が現れたのだ。梅に鶯の青い小袖に赤の袖無しを長く着流し、朱塗り金の蛭巻太刀ひるまきだちを肩に担ったカブキモノの装いで早速、甲高い笛の音が流れ出し、ゆっくりとした拍子で鼓が打たれた。そこに三味の清掻が加わると、流れる楽の音にあわせて、太夫が踊る。

 その脇には姫小袖をまとった美しい少年が一人目を伏して座り、澄み切った声で唄う。


  誰モ浮世ノ仮ノ宿 サノミ人目ヲツツムマジ

  ヨヤ君シャラリ


 太夫の髪を結び上げる紐から鈴の音がきこえ、少年の声と競うように笛が鳴く。男女が引っくり返った見世物が怪しく膨れ上がるような風をどこからか招き寄せる。

 舞はふと気づいた。澄み切った声の持ち主である少年はあの不吉な出来事をしゃがれ声で口にしていた少年と同じ人物だ。


  花ノ都ノ経緯タテヌキ 知ラヌ道ヲモ心シテ

  問エバ迷ワズ恋路ナド 通イ慣レテモ迷ウラン


 ごろごろと雷の鳴る音が大きくなり始めた。そのうち舞台の上に黒い雲が盛り上がり、青空を食い尽くしている。

 囃子はやしがかぶいた太夫を舞い踊らせ、少年の声が澄んだ清水のように流れていく。

 ついに黒雲は空を覆い尽くした。雲のなかで飼われている雷が轟音を鳴らしながら光る。だが、決して落ちることはない。日がなくなったにもかかわらず、人や物は色や光を失わず、むしろますます鮮やかになっていた。土が金箔を塗ったようになり、金色の霞が丸く伸びたその輪郭を芝居小屋のなかへ浸し始めた。これが虎兵衛を隠した金色の雲かと思ったとき、客が正体を現わし、異形の様を晒し出す――ぽっかり黒く大きな穴の開いた顔、歪んでねじれる顔、海草のようにゆれながら融合し合う体たち――みなトカゲのような鱗に覆われていた。

 舞台の上では歌舞伎が続いている。笛を吹く六人の少女がどろりと溶けて一連なりになり、三味線を弾く少年は二つの胴に三本の腕を生やして、頭が二つ調子を取るように狂うように揺れている。

 姿を変えずに舞い続ける太夫と唄役の少年を半次郎と時乃は見据えつつ、それぞれの得物の鯉口をゆるめ、撃鉄を上げていた。


  余所者三人 アヤカシニ喰ワレタラ サゾ楽シカロウ


 少年の声と同時にあたりにいた異形の妖物が三人に襲いかかってきた。

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