十一の三
籬は見世前から入口脇土間まであった。
「前に来たときには半籬だったな」と、扇。
「春王を失った悲しみを仕事に打ち込んで忘れようとしたのさ」
二階の内証へ上ると、夜叉は襖を閉じた。和風の意匠の机と椅子があり、外の廻縁には尺腰障子が開いていて、見世前の声と音が聞こえてくる。机の上には鮫鞘の脇差が一振り置いてある。
「悔しいけど、逆原を出て行った春王はどんどん素敵になった」椅子に腰かけた夜叉が言った。「春王はやっぱり、どこに行っても春王だ」
「事情について、どこまで知っている?」
「春王が京で金色の雲に巻かれて姿を消したってところを、あの白拍子の格好をした、寿って言ったっけ? 彼にきいた。彼に感謝しなよ。普通の人間だったら死んでるところだ。あっちとこっちをつなげるのは相当なことなんだから」
「ああ。あいつには感謝しても、し切れない」
「さてと。とりあえず――」
夜叉は机の上の脇差を手に取った。
「これは脇差型の酒筒。ほら、柄頭に栓があるでしょ? これには特別な御神酒が入ってる。春王を探しに行くつもりなら、これを必ず口にするんだ。でないと、〈あっち〉の世界から戻れなくなるからね、春王たちを見つけたら、もちろん飲ませてね」
「今度の事件はいったい何なんだ?」扇は脇差型の酒筒を腰に差しながらたずねた。「金色の雲が楼主と泰宗をさらっていった。これじゃまるで――」
「物の怪の仕業みたいだ」
「ああ」
「実際、そうなんだよ。そっちからこっちの世界を見ることはできないけど、こっちからそっちの世界を見ることはできる。まったく見てられないよ。産業革命だかなんだか知らないけど、薪欲しさに森を伐り尽くすわ、石炭のために山を吹き飛ばすわ、ひどい臭いのする泥を川に流すわ。気の脈、地の脈、水の脈が乱れきって、いつ怪異の類が噴き出してもおかしくない状況になっている。しかも、京の都だ。平安京があの地に千年以上あるのは、それなりの理由がある。さっき言った三つの脈がうまい具合に集まるところ。それが今の京なんだ。これまでは三つの脈はうまく作用し合って、護符の役目を果たしていたけど、今はめちゃくちゃな脈がぶつかり合って、これまで息を潜めていた邪な怪異たちでもその力を簡単に利用できるような状態になってる。今だって、京の町はいろいろ物騒でへんてこな信仰が流行って、それがさらに乱れた脈を悪化させている。そこに春王がやってきた。春王はこっちの人間だ。きみたちの世界にはないものが宿っている。その春王を利用して、妖怪変化どもは京の町の封じられた世界からきみたちの世界へいっせいに噴き出して悪さをするつもりだ。それも洒落にならない悪さだ。そっちの世界がどうなろうと知ったこっちゃないと言いたいところだけど、春王が愛した世界とあっちゃ、捨て置くわけにもいかない。だから、ぼくからの贈り物。その御神酒、ちゃんと使ってよね」
「恩に着る」
「そう思うなら、春王を返して欲しいもんだ」
「それは無理だ。虎兵衛は――」
「そう、向こうの興に乗っている。こっちのじゃない」
「すまない」
「ふん。別に謝られるようなもんでもないさ。春王はどこにいても、いくつになっても春王だ。もちろん、お返しはしてもらうつもりだからね。さあ、もうそろそろ帰る時間だ。そこの襖を開ければ、元の場所に戻れる。必ず春王を助けてね。必ず。絶対に」
「ああ。約束する」扇は襖の取っ手に手をかけて言った。「命に代えても助ける」
扇は襖の向こうへ足を踏み出した。