十一の一
虎兵衛と泰宗が京都の祇園に消えた。金色の怪しげな雲に巻かれるようにして。
垣間見える妖かしの影。白寿楼を揺るがす一大事に扇たちは京へ降りる。
それはもう一つの京へといざなわれる罠だった……。
「今年は奇妙な年だなあ」
と、言ったのは天原で桜草を商う行商人だった。ソメイヨシノに先立って小さなかわいらしい花を咲かせるこの鉢を一つ十銭で売り歩いていて、主に女衆たちがよく買っていく。
その行商人が奇妙と言ったのは、桜草が咲く頃合が遅く、ソメイヨシノが咲く頃合は早かったことだ。
もう三月の上旬で、梅の見ごろは過ぎていて、空を飛ぶ天原では実感はないが、地上はだいぶ暖かくなってきている。だが、それにしても早い桜の開花だった。
天原の桜は仲町は常咲きだが、それ以外の桜は普通の桜と同じである。花を咲かせ、散らし、梢に新緑を萌やす。その桜が、もう咲いているのである。行商人は天原白神神社の守り神である寿にそのことを伝えた。
「こりゃあ、白神さまのお技ですかね?」
「うーん。違うと思うよ」
そう答えては見たものの、妙に気になることがあって、寿は昼過ぎに時千穂道場をたずねた。
「何かの椿事の前触れかもしれないんだよね」
桜草の鉢が置かれた縁側には道着姿のりんがちょこんと正座して、寿の言葉に耳を傾けていた。寿も縁側に腰をおろし、一人鍛錬に励む扇を見守っている。
扇は道場の楠の枝に木の棒を結んだものを三本垂らして、それを赤樫の木刀で打ち、縄が張って勢いよく戻ってくるものをかわしながら打っていた。ちょうど棒を持った三人の男に息をつく暇もなく攻撃されている状況を再現したもので、ちょっと呼吸か拍子を外しただけでぶら下がった三本の棒に滅多打ちにされるというものだった。
「〈流れ〉の鍛錬は終ったの?」寿がたずねた。
「はい。今日の分は終わりです」りんがこたえた。「でも、道場にいるあいだは体を動かしていたいと言いまして」
「扇も律儀なやつだねえ。ちょっとは休んじゃえばいいのに」
三十分ほどだろうか。扇は打つのをやめて、かがむと三本の棒を一本ずつ木刀で受け止めて、鍛錬をしまいにした。
「やっほー」
寿が手をふった。
扇は近くの柴垣にかけておいた布で汗を拭いながら、
「桜草がなんだって?」
「あ、聞いてたの?」
「少しはな」
「桜草の咲くのが遅くて、桜が咲くのが早いと話していたんです」りんが代わりに答えた。
扇も縁側に腰を下ろした。「確かに早いな。冬ほどきつくはないと言っても、桜が咲くほどの陽気にはまだなっていない」
「これは天変地異の前触れかもしれないよ。地震、雷、火事、親爺」
「地震、久助、すず、火薬中毒者の間違いじゃないのか?」
「そこにおれの名を入れなかったところにキミの友情を感じるよ」
「コトブキって字が韻を崩さずに入れられなかっただけだ」
「また、そんなこと言っちゃって。素直じゃないんだからなあ、扇ってば」
「えーと」と、りんが少しまいったように微笑んだ。「姉さんは天災の一つなんですね」
「すまないが、そうだ。これは外せない事実だからな。ずいぶん前だが、この寿とあいつら三人でつるんで、おれの部屋を地雷原に変えようとしたことがあった。そのとき、すずは、師範代をないがしろにする罰としておれを地雷で吹き飛ばすことは理にかなっていると言ったそうだ」
「言っておくけどね」と寿が人差指を立てた。「おれは地雷には反対したんだよ。踏んだら電気がピリッと流れるだけで十分だって言ったのさ。そうしたら、あの火薬中毒者が凄く反対してね。彼、電気のこととなると容赦がないよね」
「おれに対してだって容赦がないぞ」
「本人曰く、全てはキミを慕ってのことらしいよ」
「そんなことあるもんか。お前、慕っている人間の部屋を地雷まみれにするか? 新年早々呼び出して、空飛ぶ機械にくくりつけて寒空に放り出したりするか?」
「まあ、表現もいろいろあるってことさ。ほら、和尚さんが修行中のお坊さんを叩くのは憎くて叩いてるわけじゃないでしょ?」
「あれは適当に叩いてるだけだ」
「ああ、扇。キミってば、本当に冷めたものの見方をするねえ」
二人と分かれて、遊廓へと戻る道をとった。天原は今、畿内のヤマシロ国の上を飛んでいた。ヤマシロといえば、扇にとって厄種のヤマト国と同盟を結んでいる国家だ。だが実際のところ、京の都では明治新政府と室町幕府が両立していて、内裏と花の御所にそれぞれ公家と武家が集まって、どうしたものかと国政を舵取っている。ヤマシロ国は朝廷と幕府が存在する自国こそが三国同盟の盟主だと思っていたので、大きな顔をするヤマト国とのあいだに折り合いが悪い。
そんなヤマシロ国へ三人の総籬株が降りていったのが、昨夜のこと。同じ遊廓同士の交流ということで、天原を代表して総籬の楼主三人、白寿楼の九十九屋虎兵衛、宝鶴楼の左文字屋勘十郎、華仙楼の仙王寺屋閑斎らがそれぞれの用心番を連れて、祇園の遊里へ向かったのだ。
虎兵衛には泰宗が同行していった。自分の命を狙った国の同盟国へ降りていった理由は遊里同士の挨拶の他にヤマシロとヤマトの離間を狙ってのことかもしれない。ヤマシロ国の心はセッツを中心とする貿易国家の関税協商へと動きつつあるという知らせも届いていたのだ。
遊廓の惣門が遠くに見えた。仲町の桜が華やかで青い空によく映えた。通年の常咲きとは言っても、やはり春が近づくと仲町の桜もいつもよりも勢いのようなものがついている。白寿楼へ帰る道を歩きながら考えてみると、扇は一度、京の町へ降りたことがある。天原白神神社の宮大工を雇いにいくときについていったのだ。そういえば、大夜が清水寺の欄干を歩いて、六代実篤に見初められたのもあのころだった。
思い起こせば、極端な形で新と旧、迷信と進歩が入り乱れていた。武家屋敷から高烏帽子の奉行人が現れ、公家屋敷からシルクハットの華族が現れる。二階建ての乗り合い蒸気自動車が馬借の行列と並んで千本通りを走っている。祗園の犬神人が武具屋から持ち込まれた弓に弦を張る向かいには銃砲店があり職人がラッパ銃に油を差していたりする。仏僧たちがキリスト教の聖人サンタクロスなるものを菩薩として、南無目理居栗洲摩須と唱える散多宗という一派がいれば、やはりキリスト教から拝借した最後の審判なる閻魔もどきをネタに信者たちから寄進を脅し取り、時宗道場の近くの洋書屋が小遣い稼ぎに木片を削って、小さな卒塔婆を売っていた。
ガス灯を立てた惣門を通り抜けて、仲町を歩く。まだ午後三時で客はいない。白寿楼の脇道へ入り、カエシの裏口へ向かおうとすると、張見世のわきの本番口に刈り上げた白髪頭の男が立っていた。総番頭の佐治郎だ。扇は何か起きたのかと思い、思い浮かべた京の都を早々に吹き払った。妓夫太郎の筒袖権蔵が立つべき位置に楼主の右腕である総番頭が狼狽した顔で立っている。何かあったに違いない。佐治郎の目が合うと、勝手口のほうを指差して、声に出さずに、用心番部屋、と大きく口を開いてから、見世のなかに入っていった。
嫌な予感がした。扇はすぐにカエシの裏口を通ると、用心番部屋には大夜と半次郎が既にいた。二人とも深刻な顔をしている。いよいよただならぬことが起きたのかとも思えるが、この二人は腹が空いたときもこんな顔をする。佐治郎の姿を見なければ、気にしないところだ。
やがて、佐治郎がやってきた。
大夜がたずねる。「電信所から知らせは?」
佐治郎は首をふった。
半次郎がたずねる。「その後のことは? 何か分からないのか?」
佐治郎が重い口を開いた。「何の知らせも入ってこない」
扇は大夜と半次郎を見てから、佐治郎のほうを見た。
「何があったんだ?」
「楼主と泰宗が――」佐治郎の目は潤んでいた。「姿を消した。行方が分からない」




