十の十一
半次郎も出て行ってしまい、扇は一人、用心番の部屋に残った。一人でいると、妙にこの部屋のごたついたところが目立った。石が置かれたままの碁盤、壁から突き出した涙型のガス灯、マントが引っかかったえもん掛け、赤大名縞のシガレット・ケース、花カルタ、コルクで栓をした洋酒色の研磨洗剤、シャムの商人が作った陶器のコイン、座布団は枕代わりに二つに折られたり、角を揃えずに重ねたりしている。
あくびが出た。掛け時計は十時半を指していた。あと一時間もすれば、見世も静かになる。全員とは言わないが、客のほとんどは遊女の柔肌に沈むために登楼るのだ。そうなると、もう騒ぎは起こらないから用心番もしまいとなる。
今日はどんな一日だったか?
日記をつけるわけではないが、扇はふりかえってみた。今日はさほど大したことが起こっていないような気がした。すぐにその原因が分かった。火薬中毒者と一度も顔を合わせていないのだ。あいつと顔を合わせていないだけで、こうも一日を平穏無事に過ごせるのかとしみじみ思う。
張見世に上った二人の兄弟のことを思う。虎兵衛の言ったことは本当だろうか? 伊織のほうが女人の衣裳を身につけることに目覚めるというが、今日の感触では、今すぐにでも腹を切って死にたがっていた。だが、伊織こと織里、音二郎こと春ノ音は美人だ。同じ男だとは思えない。それに虎兵衛は張見世にきれいな男を置くことに何か懐かしさを感じていた。
逆原。あれは実在しているのか。それとも夢と偶然の産物か。
もし、あるとして、どうやったらいけるのか。
扇は考えるのを止めにした。興に乗るのに物事を知りすぎる必要はないのだ。
だが、考えるのを止めにした途端、昼の羽衣湯のことを思い出した。
その途端、体がかあっと熱くなった。おれはもう少し気の利いたことを言えたほうがよかったのだろうか? でも、りんはおれの師だ。師にきれいだとか言うのは出すぎたマネだっただろうか? 師に気を使わせる弟子というのはどうなのだろう? そもそもなぜおれは気の利いたころを言おうと悪戦苦闘していたのだろう? 最初はただ、いつも昼の食事を馳走になっていたから、そのお返しがしたいと思って――。
ああ、分からない。どうして今日が何もなかった日だと思えたのだろう。扇は腕を組んで、はあ、とため息をついた。これは誰にも相談はできない。相談すれば最後、おもちゃにされる。虎兵衛、大夜、寿、すず、火薬中毒者――絶対に駄目だ。
だが、時乃はどうだろう? 本当がどうかは怪しいが、一応自称未亡人だ。まだ十四かそこらだ。それでも、一度それとなく相談してみればいいかもしれない。
十二時の鐘が鳴った。
扇の悩みにこたえることの出来る多くの男女が愛を交わす時間が始まった……。
扇はまた、ため息をついた。きっとこのことも自分が向き合わなければいけない問題の一つなのだろう。
ただ、不思議なことに分からないことの絶望や困惑は心に浮かんでこなかった。
扇は急に立ち上がると、そのまま部屋を出て、凍てつく廊下をかけ、中庭の一つに向かった。手水鉢が置いてある。薄い氷が張った水に手を突っ込んで冷水で三度、顔を洗った。
それで気持ちが引き締まった。空を見上げた。四角く区切られた中庭の空に星が落ちていた。いや、星のように細かく輝く雪が落ちていた。
扇は両手を空高く伸ばした。今なら星を空から引きずり下ろせそうな気がして――。
「あの、扇さん」
深夜十二時にいるはずのないりんの声がした。
振り向くと、厚着をして襟巻きをしたりんがいた。
「夜分にすいません。これ、忘れ物です」
りんが持ってきたのは扇の道着だった。
「道場に置き忘れられていて。気づかずに洗濯しちゃいました。で、今、気づいて持ってきたんです。ほら、扇さん、なくしものをすると、気になる性格だって言ってたので。深夜でも遊郭なら開いてるかなと思って、届けに来たんですけど――ご迷惑でした?」
「あ、いや……」
扇はきちんと畳まれた道着を受け取った。
「すまない、礼を言う」
「じゃあ、また明日」
りんが笑って、去っていった。
扇のなかで渦巻いていた、あの星をも引き摺り下ろせそうな勢いが縮んで消えた。
これはいったい何なんだ? 扇が途方に暮れて、ついたため息は白く凍えて、中庭にしばらく浮いていた。
第十話〈了〉
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第十一話の十一の一は明日14日午前7時過ぎに投稿いたしますので、よろしくお願いします。