十の十
用心番部屋では既に大夜、半次郎、泰宗が小田巻蒸しをたぐっていた。扇は自分の分の膳の前に座ると、蓋を開け、さっぱりとした風味の蒸した玉子をうどんと一緒に食べた。白いどんぶりは全部食べると底に『寿』と行書が焼き染められているのが見える。それぞれ食べ終わると、時間をつぶし始めた。厄介事が起こるまでは待機するのが用心番なのだ。泰宗は書卓に向かい、顔料を入れた小皿をいくつも並べて何か描いていた。大夜はゴロリと横になり、衣の前に腕を突っ込んで、脇腹をボリボリと掻いていた。色気もへちまもない光景だと思ったが、扇は黙っておくことにした。そもそも大夜の長所は色気や女らしさではない。半次郎はきちんと膝を揃えて、自分の刀に打ち粉を叩いていた。
「ああ、足りねえなあ」大夜がぼやいた。「もう一杯食いてえなあ」
「総籬の大見世が一日に二度も餌づけしたら、いい笑いものだ」と、刀の手入れをしながら半次郎が珍しくまともなことを言う――おそらく、後ろに山と積まれた大福餅のおかげだろう。甘味さえあれば、半次郎は頼れる男なのだ……甘味さえあれば。
「んなこと言っても食いてえもんは食いてえんだ。あー。小田巻蒸しが食いたい。もう一杯食いたいよー」
「駄々っ子じゃあるまいし。我慢しろ」と、扇が言った。
すると、ごろんと転んで顔を半次郎から扇へと向けて、
「元はといえば、扇、あんたのせいなんだぞ」
と、言ったからたまらない。
扇は思わず、は? と言いそうになった。この小田巻蒸しは扇が客を池に叩き込んで得られたものなのだ。
扇が大夜にたずねる。
「あんたの『おかげ』の間違いじゃないのか?」
「いーや。あんたのせいだね。あんた、昔は小田巻蒸しが出ても食わなかったじゃん。それであたしが二杯食べられたんだ」
「それ、おれが〈鉛〉をやめる前の話だろ?」
「うるへーっ! あー、食いたい食いたい食いたいよお! 小田巻蒸しが食いたいよお!」
大夜がジタバタしているとき、一階の行灯番が、大夜姐御、出番です、と慌しくやってきた。
「おっしゃあ!」大夜は立ち上がると、早速上衣をたすき掛けにした。「で、相手は何人だ? もちろん、中庭沿いの座敷だよな?」
「いえ、そうじゃなくて――」
行灯番の後ろから洋装姿の若者が微笑みながら、ひょっこり現われた。
「お久しぶりです。大夜さん」
「げっ、ヒョーロク玉……」
薄灰色の軽外套を着た若い紳士――大夜を贔屓にしているセッツの六代実篤だった。
「仕事で近くにいたので、ご挨拶をと」
大夜は、小田巻がふいになったとか、食い出のあるもんをよこせとかぶつくさいいながら、ニコニコしている実篤に連れて行かれた。
しばらくすると、半次郎が手入れを入れた刀を鞘に納めた。そして手入れのあいだ我慢していた大福餅を次々と飲み込み始めた。書卓に向かっていた泰宗が「できた!」と嬉しそうに声を上げた。泰宗が扇に見せたのはエジプトのピラミッドと椰子の木、ラクダに乗った隊商の彩色画だった。
「なんだ、これは?」
「エジプト煙草の箱の図案です。煙草会社が新しい図案を公募していて、図案採用者にはエジプト煙草一年分がもらえるんです」
泰宗の懐から出したエジプト煙草の箱はカーキ色に白い紫煙が流れるような英字でEgyptian Cigaretteとあるだけだった。
「早速この大作を世に出さねば。少し出かけてきます」
泰宗は見た目や雰囲気が落ち着いているように見えるが、へんなところで子どもっぽいところを見せることがあった。泰宗の足音が遠ざかるころには皿にいっぱい盛られていた大福餅がきれいになくなっていた。半次郎が大きな体をもぞもぞ動かした。
「ちょっと甘味を仕入れてくる」