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廓雲と扇の剣士  作者: 実茂 譲
第十話 たたんだ扇と何の変哲のない一日
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十の九

 虎兵衛の申し出にげっそりとした伊織は嬉しそうな弟の音二郎――春ノ音とともに弟の部屋へと戻っていった。伊織の顔はもうどうにでもなればいいという様子だった。

 オモテの中庭に面する三階の回廊から空を見上げると、薄くたなびいた雲がキツネ色に染まっていた。座敷は空っぽで塵一つ落ちていない。

 どこかの柱時計が四つ鐘を打った。暮れ六ツまで後二時間。

 どう過ごしたものかと思っていると、大夜、泰宗、半次郎の三人が一階の回廊からカエシのほうへどすどすと歩いていくのが見えた。大夜が扇に気づくと、降りて来いと手で合図した。

「何の用だ?」一階に降りた扇がたずねた。

「なんか食いに行こうぜ」と、大夜。「何だか、中途半端に腹が減っちまって。夕餉までのつなぎにちょいとばかし何か腹に入れたいんだよ。それにたまには白寿楼の四天王が揃って――」

「待て。なんだ、その四天王ってのは?」

「今、思いついた。とにかく四人揃って雁首並べて、割烹堤へ繰り出そうぜ」

 割烹堤は天原右舷の艫にある飛行船発着場につながる道で、道の両側には二階建ての小料理屋が並んでいた。万膳町ほど店は多くないが、それでも味では引けを取らず、それに飛行船発着場につながる関係から箱鮨などの土産も充実している。

「どうせ暇だろ?」

「まあ、暇には違いない」

「よっしゃ。行こうぜ。今四時だから急げば暮れ六ツに間に合う」

 割烹堤は西日に輝いていた。堤を行く人々の長い影が蒼ざめた空を背負い込んだ飛行船発着場へと伸びていた。空には暮れ六ツと同時に着陸しようとしている飛行船がいくつも浮いていた。みな蜜柑色の光のなかを天原についていく飛行船はまるで渡り鳥の一族のようだった。堤の道の左右には瓦屋根の二階家が一寸の隙もなく並んでいて、軒には屋号を書いた提灯が風に揺れている。大入の赤提灯の店に入ると、そこは支那人の経営する揚げ豆腐屋だった。煉瓦大の木綿豆腐をから揚げにして、客の好みでタレをかける。

「ひき肉豆腐。唐辛子豆腐。海鮮餡かけ豆腐」中折れ帽をかぶった支那人の主人が鍋のなかの豆腐に沸騰した油をかけながら言った。「それに甘辛豆腐。なんでもあるよ」

 内装は畳を敷いている以外は清国風だった。明代の青い壷や老酒を入れた白鑞しろめの甕、店主の首にはうっかり鍋に入れてから揚げにしないよう長い辮髪べんぱつを首に巻いていた。壁には町外れの城門から皇帝の宮殿までの町並みをこぼすことなく描いた非常に長い清明上河図せいめいじょうがずの彩色画が部屋のぐるりを巻いていた。絵の中で人々は反物を染めたり、酒甕の封を破ったり、剣を飲み込む大道芸人に見惚れたりしていた。竃に龍でも隠しているのではないかと思えるくらい強い火力で豆腐がカラリと揚がり、それぞれタレや餡をかけるとジャッと威勢のいい音がした。

「用心番が悪いってんだよ」大夜が言った。三人前の豆腐が下に二つ、上に一つ積まれた状態で唐辛子のタレを豪快にかけていた。「最近、小田巻蒸しが食べられないのはさ。でも、こっちだって、頼まれてもいねえのに客を餌づけさせるわけにはいかねえもん」

「権蔵どのの目利きは確かですからな」と、泰宗。ひき肉豆腐をレンゲで一すくいして吹き冷まし口に入れた。

「うちは茶屋を通さない素上がりもありだけど、最近、権蔵のとっつぁんも用心深くなってるからなあ」半次郎は甘辛豆腐、そして砂糖壷を横に置いて、レンゲで赤い粗糖をどんどんすくって、どんどんかけていた。

「そんなに人気があるなら――」と、干し海老たっぷりの海鮮餡かけ豆腐をレンゲですくいながら扇が言った。「いっそ見世の品書きに入れればいい」

「分かってねえなあ」大夜は一つ目の豆腐をぺろりと平らげた。「たまに、それも不規則に食えるからありがたみが増すんじゃねえか」

「でも、それが最近はないから、困ってるって話なんだろ?」

「まあ、そういうことですね」泰宗が引き取った。「ただ、客がみな大人しいのばかりだと、用心番としての仕事に張り合いがなくなります」

「そういえば」扇は豆腐を食べる手をとめてたずねた。「あんたは餌づけをしたことはあるのか? あまり話にきかないが」

「泰宗はな」と半次郎が代わってこたえた。「すごいぞ。上背があるから、そいつを生かした投げ方をする。泰宗に投げられた客は屋根より高い位置まで飛んでいって、そっから真っ逆さまに池に落ちるんだ。その水柱の派手なこと、派手なこと」

 半次郎はレンゲで豆腐をすくおうとしたが、すくったのは豆腐の上に山盛りのなった粗糖だけだった。まあ、いいや、と半次郎は笑って、砂糖の山盛りをおいしそうに食べた。

「そういやさ」大夜が言った。「大将がこないだ一人部屋持ちを張見世に入れたじゃん。春ノ音っつったっけか? それにまた一人新しい妓をいれるんだってさ。それも突き出しなしで、いきなり張見世なもんだから、珍しいこともあるもんだって、見世の連中が騒いでた」

「どんな方です?」

「それがえらく別嬪で、ちょっと化粧部屋を垣間見た中郎たちが天にも昇る心地とはこのことかって言い合ってた。権蔵のとっつぁんもお登間ばあさんもいい客をつけてやろうって張り切ってるよ」

 扇はなんとなく胸騒ぎのようなものを感じた。誰かが虎兵衛の興狂いに巻き込まれているときに感じる同情、そして自分が巻き込まれなくてよかったという安堵感と巻き込まれてみたかったという感覚が入り混じった非常に複雑な感情の綾取りが心のなかでこんがらがってしまうときに感じるものだ。

 暮れ六ツの鐘が鳴り、飛行船が次々と着陸して、客を吐き出す。そのころには四人は新しく入れたという花魁を見ようと張見世のある表へ出た。

 確かにいた。一人は春ノ音。本名は音二郎だが、これが実は男だといっても、誰も信じないだろう。朱に黒船と南蛮船の縫い取りした裲襠を纏い、鼈甲の櫛と簪を挿してすました顔をするその姿は傾城けいせいの美少女だ。

「はあ、これは何と――」

「きれいどころを連れてきたねえ。気質は柔らかそうだけど、芯の強さが目にあるね」

 大夜たちが口々に評する。

 泰宗が言った。「でも、その娘もそうですが、隣に座る花魁もまた――」

 絶世の美女だった。ぬえを射落とす源三位げんさんみを刺繍した衣裳に鶴と亀の簪。春ノ音の隣に恥ずかしそうに座った花魁は――間違いなく伊織だった。

「いつまでああさせる気だ」扇は見世に戻ると、早速、表の一階の広間にいた虎兵衛にたずねた。

「そう怖い顔するな」虎兵衛がアハハと笑った。「二週間か、長くても三週間だ。そうしたら、兄弟二人で年季明けの分だけ稼いだってことにして証文を破る。こっちの見立てが甘くて騙されたのが悪いのもあるが、ただ何もなしで終らせると示しがつかなくなるからなあ」

「あの二人が男だってことを知っているのは?」

「おれとお前さん、それに八郎だけだ」

「八郎?」

「風呂の番頭だ」

「せめて権蔵とお登間には言っておいたほうがいいんじゃないか? 万が一、客が敵娼あいかたに指名したら面倒なことになる」

「だがねえ、伊織の気持ちを考えれば、白粉塗って張見世に座ったなんてこと、知ってるやつが少ないほど、心安らかなんじゃないかなあって思うんだよ」

「そう思うんなら、最初から張見世に出さなければいい」

「なあ、扇」虎兵衛は手でちょいちょいと誘って、神棚の下に座った。「人間、万事何がどうなるのかってのは分からないもんだ。おれの見立てでは、あの伊織という若いの、弟に手伝わせて着付けているときも、まんざらでもない感じだった。今でこそ、恥ずかしくて死にそうな様子だが、まあ、三日も経ってみろ。兄貴のほうが弟よりも深くはまり込むんじゃないか」

「まさか」

「だから、人間何が起こるか分からないって言ったんだ。子どものころから、女装癖のある弟がいて、それを見ているうちに自分も着たらどうなるだろうと、ふと考える。もちろん体面があるから、そんなことはするものかと思うんだが、それは地上での話。天原に来ると、こう頭がクラクラするんだよ。で、普段は考えもつかなかったことを試したくなる。あの伊織の場合、それが弟のようにきれいな着物を着てみる、ということなのかもしれない」

「おれには分からないな」

「ためしにお前さんも張見世に出てみるかい? 白粉塗って簪差して――」

「冗談じゃない」

「おや、残念」

 虎兵衛はカラカラ笑ったが、その後、ふと、物思いにふけるような顔をして言った。

「それにな、張見世にきれいに仕上がった若衆が座ると思い出すこともあるんだ」

 それは逆原のことだろうか? 扇は口には出さないが、頭のなかで何度かこの考えを玩んだことがある。夢と片づけるには見たもの聞いたもの味わったものがはっきり記憶に残っていたし、あの、ハレルヤ! という叫び声や、楼主の夜叉の悲しげな顔もはっきりと浮かんでくる。

 言葉が途切れて、過ごしやすい沈黙が虎兵衛のないしょうに下りてきた。ところが、それの余韻に浸る間もなく、権蔵が慌てた様子でやってきた。

「親方。しくじりやした」

「どうしたい、権の字。珍しく慌てて」

「タチの悪い田舎侍どもに押し切られたんでさ。こっちが声もかけねえのに絡んできて、登楼あがれないのなら、その恥をお前もろともぶった切るなんて言われて。生きた心地がしませんや」

「こりゃ、久々の餌づけになるかな」虎兵衛がフムと腕を組んだ。「で、その浅葱裏ども。敵娼は誰だ?」

織里おりざと花魁です、親方」

「あちゃあ、こいつぁ……」

 虎兵衛は額に手をやった。扇がたずねる。

「まさか、その織里――」

「そのまさかだ。扇。お前さん、権蔵についていって、その座敷の様子を見に行ってくれ」

「わかった」

 織里こと春木伊織が田舎侍たちに連れて行かれた座敷は大きな池のある中庭に面した四階の座敷だった。無粋な武家たちがどやどやとやってきたので、今日は餌づけ間違いなしだ、久々の小田巻蒸しだ、と客も遊女も雇人の若衆も口々に言い合って、中庭を囲む廊下は見物人たちでいっぱいだった。四階の問題の座敷に着くと、どったんばったんと物々しい音がした。

 襖を開けると、屏風が倒れ、膳は引っくり返り、田舎侍は三人がかりで織里こと伊織を裸に剥こうとしていた。

「そこまでだ、この馬鹿ども」

「ぬうっ」

 侍の一人が大刀を抜いた。

「言っておくが、そいつは男だ」

「そんなこと百も承知よ!」侍が言った。「だが、辛抱たまらんのだ!」

 言い放つなり、侍が上段から斬りかかった。左右にかわすかわりに、むしろ懐に飛び込んで、自分の腕を相手の肘にぶつけて斬り込みを防ぎ、がら空きの胴に当身を一撃くれてから、長着の襟と袴腰をつかんで、そのまま背負い投げにした。まず一人がドボンと落ちて、歓声が沸いた。残り二人は伊織を座敷へ放り、それぞれ抜刀して突きかかった。扇は身を沈めて、侍たちの足を次々と蹴り払った。侍たちは自分の突きの勢いもそのままに廊下から欄干にぶつかって、そのまま真っ逆さまに落ちた。

 扇は剥かれた着物を掻き合わせて縮こまっている伊織のそばにしゃがみこみ、たずねた。

「おい、大丈夫か?」

「ああ、扇どの……かたじけない」

「あいつら、あんたが男でも構わないって言ってたそ」

「それがし、もはや家には帰れませぬ。ここで腹を切ります。介錯を」

「早まるな。楼主は二週間か三週間であんたたちの証文を破るつもりだ。もしあんたが自害したら、弟が悲しむぞ」

「うう」

 そのころ、座敷の外から声が沸いた。

「いよっ、扇屋おうぎや!」

「見事、見事に餌づけたり!」

 客や見世のものたちがわあわあ騒ぐ。虎兵衛が下のカエシのほうから姿を見せて、餌づけの口上を切った。

「当楼の至らぬところをお見せしましたこと、楼主より詫び申上げます。平にご容赦くだされ。ささやかながら、詫びの品をお座敷、お部屋に取らせました。どうぞご賞味ください」

わあっ。声がした。座敷の外では興の乗った熱気が冬の冷気を押しやっていた。

「三ヶ月ぶりの小田巻蒸しだ」扇は伊織に言った。「ここの小田巻蒸しはうまいから、それでも食べて元気を出せ。こんなふうに興が沸いたら、それに乗ったもの勝ちだ」

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