一の十七
議論は仙王寺屋が引いた溝のなかへ流れていった。ひとまず九十九屋にまかせ、様子を見て、その後の趨勢で、天原全体が介入するかを話し合うことになった。
集まった総籬株たちが舟で帰っていった。虎兵衛は番頭の佐治郎とともに桐油引きの紙布を天幕のように張った小早舟に乗り、蓑をつけた半次郎に艪をまかせて、白寿楼に帰った。中郎から太夫まで虎兵衛の容態についてはこの二日何も知らされなかった。だが、今、虎兵衛が遊廓の仲町を蛇の目傘を差して、鼻唄まじりに上機嫌に白寿楼に戻ってくるのを見ると、全員がほっと胸を撫で下ろした。
「半次郎」自室に戻った虎兵衛が言った。「大夜を呼んできてくれ」
半次郎が出て行くと、虎兵衛は誰もいないことを確認してからがっくり膝をつき、そのまま横に倒れた。何とか脇息にもたれかかって、半身を起き上がらせると、
「さすがに痩せ我慢も過ぎるか」
と、つぶやき、包帯から襦袢に滲んだ血を指につけて、それを眺めた。
矢に射られた後、扇が鬼神のごとく戦って刺客を屠ったことは覚えている。体から魂が抜けつつあったが、それを扇がギリギリのところで食い止めた。最後の刺客を斬った扇は自分も重傷を負い地に倒れ伏していながら、虎兵衛のもとへ満身創痍の体を引きずって行き、虎兵衛の短刀を取ると、それで虎兵衛の胸の傷を裂いた。死ぬほど痛かったので、いっぺんに目が覚めた。扇はその後も淡々と胸の傷を開くので、虎兵衛は叫ぶ気力もなく、ただ激痛にさらされた。だが、痛いということは生きていることだった。
しばらくすると、扇は虎兵衛の胸から矢じりを取り出した。矢じりには溝があり、どうやら毒を固めたものをそこに塗りつけてあったらしい。それが溶け出す前に矢じりを虎兵衛の胸から取り出す必要があったのだ。
矢じりを取り出したときの扇のほっとした顔。
そんな顔が出来るようになったか。
それを見て、満足して、気を失った。
大将、入るよ、という声でぼんやり過去に霞んでいた虎兵衛の意識が白寿楼の自室に戻ってきた。虎兵衛は指先の血を懐紙で拭い、脇息を脇に押しやって、何とかきちんと正座することができた。
部屋に入ってきた大夜は小脇に服の包みらしいものをかかえていた。
「そいつぁ、なんだい?」
虎兵衛が問いかけ、大夜はその場に座り、包み紙を解いた。
中身は服――身につけた者の両目以外の全てを隠す、夜色に染められた黒装束だった。
虎兵衛は苦笑いしながらため息をついた。
「おれが何を頼もうとしてたか、もうアタリはついてたってわけか」
大夜はどうってことないと笑いかけ、
「でも、必要だろ?」
「ああ。残念だがな。総籬株たちには興の乗ったやり方で仕返しをすると啖呵を切ったが、どう知恵を絞っても、そいつが出てこなかった。まったく興ざめだよな。情けない」
「そんなことないさ。大将」
「おれはこれから、お前を昔あんなふうに扱った連中と同じことをお前さんに頼もうとしている。もちろん、断っても――」
「前口上は抜きで、誰を殺ればいいかだけ教えてくれ。それ以上はもう大将が気に病むことはないよ。天原を守るためなら、あたしはそれでもう満足だから」
「すまん」
「謝らないでくれよ、大将」
大夜が真面目な顔で迫った。謝られるのが心底嫌だと言わんばかりの顔を見て、虎兵衛は何だかおかしくなってきて、傷が痛むのも忘れて、笑いに身をゆすらせた。
大夜がそれにつられて笑う。
笑みが自然と収まるころには虎兵衛も迷いも罪悪感も断った。
虎兵衛はヤマト国の中央政府直属官房第三部の諜報局長の名を挙げた。ヤマトの暗殺機関の管理と指揮に責任のある人物であり、扇を虎兵衛暗殺のために送り込んだ張本人だった。
「事故に見せかけて殺ってくれ。もちろん、本当に事故だと思われては効果がない。だから――」
九十九屋は自分の腰に差してある短刀を取り、大夜に渡した。
「死体のそばにそれを置いていけ。それで、こっちがどういうつもりでいるか分かるはずだ」
「もし分からなかったら?」
「後任の諜報局長を殺せ。できるだけ惨たらしく」
「わかった。任務はそれだけかい?」
「いや。帰り途中に神戸の外国人居留地に寄って、紙巻のエジプト煙草を箱で二十個ほど買ってきてくれ」
「泰宗が吸ってるようなやつ?」大夜は目を丸くした。「あたし、てっきり大将は煙管派だと思ってたけど」
「おれみたいな身なりをしてるやつは煙管のほうがらしく見える。そうあってほしいというのが場の雰囲気なんだよ。それで煙管を使ってるが、本当は両切のほうが好きなんだ。煙管は羅宇の手入れが面倒で好かん。あの紙のこよりを作るのがうまくいかない。それで、ときどき泰宗から分けてもらってる」
「こよりくらい誰かにつくってもらえばいいじゃんか」
「天原一の大見世の主が紙のこより一つ作れないなんて格好が悪い」
「そうまでして煙管で煙草を呑むのも興のためかい?」
「そうだ。このことは秘密だぞ」
虎兵衛は人差し指を唇にすえて、ニヤリと笑う。
大夜がそれを見て笑い、黒装束を抱えて立ち上がる。
「わかった。ちゃんと買ってくるよ。じゃあ――いってきます」
「ああ。いってらっしゃい」
大夜は廊下に出て、障子を閉じた。
虎兵衛は耳を澄まして、足音が遠ざかるのを確かめてから、少し休もうと仰向けに倒れ、目を閉じた。