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廓雲と扇の剣士  作者: 実茂 譲
第十話 たたんだ扇と何の変哲のない一日
169/611

十の八

「男ぉ?」

「いかさま左様にござる。楼主どののもとにある春ノ音という娘、それがしの弟に違いありません。おそらく女衒を金で釣って、自分を売らせたのでしょう」

「どうして、また男が女の身なりを?」

 伊織が苦々しく思いながら、告げたところでは春木家は十人の子どもがいて、伊織と音二郎以外はみな女だった。音二郎がまだ子どもだったころ、姉たちがおふざけ半分に化粧をさせ、女物の着物を着せたことがあり、音二郎のほうはそれ以来、女性になるという叶わぬ夢に憑かれてしまったのだという。齢を重ねるごとに音二郎は姉たちよりも女らしい美少年となり、こっそり姉たちの着物を着てみたりしていた。困り果てた父の泰蔵たいぞうがよしと決めて、吉原の遊廓に連れて行ったのが、音二郎十二歳のとき。女遊びを覚えさせるというわけではないが、少なくとも男として美女を愛でる癖をつけさせようとしたのだが、逆効果だった。たまたま総籬の花魁道中が始まり、鳳凰を縫い取った三ツ重ねの裲襠うちかけを纏い、簪で飾り立てた花魁を見ると、音二郎はすっかり惚れてしまった――遊女の衣裳に。それを遊女に惚れたと誤った父親はこれで一安心と思ったのが、二年前のこと。

 虎兵衛の驚きは相当のものだった。少し落ち着いてものを考えるためにエジプト煙草を二本たて続けに吸ってから、

「他の部屋持ちの花魁たちを連れてきてくれ」

 虎兵衛が聞き込んでみると、花魁たちのなかで春ノ音と入浴をしたものがいないことが分かった。さりげなく、彼女たちに春ノ音が男だとしたらとたずねると、

「あはは。楼主も面白いことを言いなんすなあ」

 と、笑われた。花魁たちは春ノ音は根っからの化粧要らずの整った顔と同じ女から見ても惚れ惚れするような素肌の持ち主で、男にはちっとも見えない。

「どうしたもんかなあ」

 花魁たちを帰してから、虎兵衛は肘を卓について頭を支えた。

「呼び出して、この場で裸に剥けばいい」と扇が言った。

「それは粋じゃない」と、虎兵衛。

「それがしが直接問い質します」

「それでもシラを切られたら、そこまでだ」

「しかし、弟を連れ戻すまでは帰ることもできませぬ」

「まあ、待ってくれ。何とかいい手を考えよう」

 しばらくうんうん悩む時間が続いた。もう春ノ音は二日前から張見世に出していて、筋の良さそうな客が三人、早速引手に来ていて、昨日もきちんと裏も返している。それも義理で返したわけではなく、三人とも春ノ音をえらく気に入っているらしく、今夜で三人とも馴染みになるだろう。

「まったくこれじゃあ陰間茶屋かげまちゃやだ」

 軽く握った拳を口に当てながら考えていた扇が、何か思いついたように顔を上げた。

「風呂に入ってるはずだ」

「なに?」

「その春ノ音だ。毎日、朝の風呂に入っているだろ?」

「だが、女衆は誰も春ノ音と風呂に入ったものはいない」

「男湯にどさくさに紛れたんじゃないか? 朝の風呂は込み合うし、湯気がこもって視界も利かない。やろうと思えば、紛れ込める」

「よし。ちょいときいてみるとしよう」

 すぐに使いがやられて、風呂場の老番頭が手探りで姿を見せた。

「親方。わしに用があるときいたが――」

「ああ。ちょいとしたことなんだが、最近、男湯に入る人数が増えたりしてないか?」

「一人増えてるね」

「女湯は?」

「数は変わらない」

「確かか?」

「そりゃあ、確かですとも。この通り、わしは盲だけど、耳はいいし、物覚えもいいつもりでがす」

「よし、春ノ音を呼ぼう」

 扇と伊織は隣の部屋に隠れ、老番頭と虎兵衛が部屋に残った。

 まもなく、春ノ音が呼ばれて、室に現れた。化粧はしていないが、小造りでいて、鼻がつんと立ち、可憐な少女のような顔だった。そして、どことなく伊織とも似ている。

 虎兵衛が言った。「春ノ音、今日で張見世に出て、三日目だ。おそらくお前さんが初めて馴染みを持つ日になるだろうが、何か心配なことはあるか?」

「心配も何もわちきはとうに心からこの道に入る覚悟を決めた妓でありんす。でも、楼主の心配り、この身に染みいんす」

 隣できいた限り、その声は女のもので廓言葉もすっかり板についている。扇が、どうなんだ? ときくと、伊織は顔を真っ青にして、音二郎に違いないが、あのしゃべり方はどうしたことだろう、とつぶやくばかりだった。

「どうだい」虎兵衛は老番頭のほうへ頭をめぐらせ、たずねた。「この声、聞き覚えは?」

「へい、親方。間違いなく男湯のほうから聞いた声でさあ」

「――だ、そうだ。おーい、扇。お客人と一緒に出てきな」

 襖が開き、伊織の姿を見ると、春ノ音は思わず、

「あ、兄上……」

 と、口に出してしまった。

 こうなっては逃げも隠れも出来ぬと春ノ音――音二郎はぷいっと顔をそむけて、

「家には帰りませぬ」

 と、言い出すので大変だ。

 音二郎を連れ戻すまでは家に帰れない伊織は引きずってでも連れ帰ると言って、手首をつかむと、

「何をなさいます」

 と、女言葉でこたえたものだから、伊織はそれが弟ということも忘れて、思わず手を放してしまった。音二郎は開き直って、兄に宣告した。

「兄上はぼくを連れて帰ることはできませんよ。ぼくの身売り代が五十両。突き出しの衣裳代から祝儀まで五十両。あわせて百両の借りが白寿楼にあります。それを返すまでは帰ることはできないのです」

「ああ、女子の衣裳に憧れるとしても、よりによってなぜ遊女に?」

「あきらめてください。兄上」

「だが、それがしはどうなる? こうなっては家におめおめと帰れぬ」

「そのことなら――」虎兵衛が慈悲深い家父長的な微笑で言った。「おれにまかせてくれ。あんたにも音二郎にも良いようにするから」

 扇は伊織を気の毒に思った。虎兵衛がああいう顔をしたとき、やってくるのはとんでもない酔狂だと経験で知っていたからだ。

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