十の七
山のように大きな雲の底が瓦屋根の底をかすめるように通り過ぎていく。万膳町の大部屋町は文字通り、一階を厨にし、二階を一切の仕切りも衝立もない大部屋にした一膳飯屋が軒を連ねている。夜になると、俥夫や芸人、仕出し屋の丁稚などが暇を見つけてここで海苔をかけた茶飯をささっと掻き込み、仕事に戻るのだが、昼間の今では砂絵描きや一人相撲の大道芸人たちが竹羅宇の煙管を吹かしながら、稼ぎ時の暮れ六ツが来るのをのんびり待っている。
十月ごろにつくられた時計櫓が遠くに見え、午後二時を差していた。扇は大部屋の一膳飯屋町をりんと歩いている。この道は万膳町の西の貸座敷のある道につながっていて、そこをさらに歩いていけば出口だ。
「鍋焼きうどんもおいしかったし、温泉も温かかったし、今日はありがとうございました」
気を使われているようで、扇は何だか居辛さを感じる。
「どうも気の利いたことができなくて――」
「十分、気が利いてますよ」
「気を使わなくてもいいんだ」
「扇さん」りんの視線が伏目がちの扇の目を自然とりんのほうに向けさせた。「今日の扇さんは、とっても扇さんらしいです。こんなふうに誘ってもらえて嬉しいです。お風呂のことは――ごめんなさい。わたしもちょっとからかったところがありました。扇さんは真面目だから、きっと慌てるだろうなって思って。やっぱりわたしも姉さんの妹なんですね」
「そんなことはない。あんたはずっと立派にやってる」
「あはは。姉さんがきいたら、いじけそう」りんが微笑んだ。「でも、それがいいのかもしれません。姉さんの姉さんらしさ、わたしのわたしらしさ、そして、扇さんの扇さんらしさ。自分らしさを大切にして生きることは難しいし、人に嫌われちゃったのかなって思って不安になることもあるかもしれませんけど、でも、やっぱり大切なことだと思うんです」
「不思議に思う。おれとあんたは齢は変わらないのに考えていることが全く違う」
「実はほとんどがおじいさまの受け売りです」
「あんたのじいさんに会ってみたくなった」
「おじいさまもきっと扇さんに会ってみたいと思ったでしょうね」
万膳町を出て、天原堤が道場へそれるところで、りんと別れた。扇は遊廓まで帰りながら、自分らしさについて考えた。最近思い始めたこととして、自分が鈍かったり気が利かないのは〈鉛〉だったせいではなく、そもそもの生まれついてのものではないかというものがあった。今日はそれを確信し、どうしたものかと困り果てていたが、それを自分らしさと認めることで何だか安心できる気がしてくる。遊廓の惣門へと入ると桜の仲町を見世の中郎たちが必死に雪かきをしていた。うかうかしていると、屋根から落とされる雪の下敷きになりそうだった。虎兵衛からきいた話では総籬株たちは天原をもう少し暖かいところへ移動させてみたいと思っているらしい。琉球は無理だが、サツマかトサ。いい客筋はトサにかなりあるから、おそらくトサになるだろう。
空っぽの張見世をいくつか通り過ぎると、見世の角を曲がった先、中見世が並ぶあたりで遊女たちが奇妙なことをしていた。弁柄塗りの格子戸を手に持ち、簪打掛白粉で格子のあいだから煙管を差し出して、ちょっと一服あがりなまし、と声をかけている。相手はよその見世の雇人か器を取りに来た仕出し屋の膳役だ。これがまた強引で、煙管の雁首を相手の袖口に突っ込んで、一ひねりにして逃げられないようにして、銭をねだる。小見世の遊女たちの小遣い稼ぎだ。あまり余裕のない小見世では遊女にお茶を挽かせるだけではやっていけないということで、遊女たちがこの茶目っ気のあるイタズラで少しでも稼がせろと楼主を突き上げたらしい。ただ、一服一服というだけでなく、高尾ざんげを調子をつけて唄ったりもする。ああ、あたしたちははかない遊女さ。どうか一服寄ってくれ、と。もちろん、客がその場でその遊女と遊ぶ気になれば、格子戸は放っておいて、さっそく見世に登楼る。よその見世の前で客を引く、しかも遊女が客を引くわけだから、いろいろと決まりがあり、まず、この〈ちょっと一服〉は小見世の遊女にのみ許可することと通行の邪魔になるから仲町では行わないことが約定として決まっていた。
見慣れない若い侍を見かけたのは総籬の宝鶴楼の前を通り過ぎたときのことだった。誰もおらず、煙草盆一つ置かれただけの宝鶴楼の張見世の前をもじもじと行ったり来たりしている。普通、登楼った客は午前十時か十一時くらいに帰るものだが、ときどき万膳町の貸座敷に泊まって、こうして昼の仲町に現われるものがいる。二十歳を超えているかも怪しいすっきりした顔の侍はツギハギのある御召縮緬の少し色褪せた仙台平の袴、今は零落しても、かつてはそれなりの武家の子息らしい。
これはひょっとすると、嫌な話をきかされるかもしれない。零落した武家の娘が借金のカタに女衒に売り飛ばされ、今はこの宝鶴楼で客を取っていて、この侍はその遊女の兄で、身請けする金はないが、しかし、このままではやるせない。腰の大刀を抜き放って、妓楼に乱入し、楼主中郎をぶった切って、妹を助け出そうとするかもしれない。そういう話は好色物のなかだけで起こるものだと思っていたが、それでもこう怪しいのを見つけると放ってもおけなくなる。しかも、見世番がいないのだから、扇が話しかけるしかない。
扇はわざと雪を蹴飛ばして、音をさせながら歩いた。ここに来て、気づいたのだが、他人には扇の足音はとても小さくて聞きにくいらしく、いきなり話しかけたら驚かれたことがあった。確かに考えてみると、喉を掻き切るために後ろから忍び寄ることばかり考えて生きてきたのだから、そういう歩き方の癖があっても不思議ではない。そこで最近、扇は意識して、自分の足音をやかましく鳴らすようにしていた。
しかし、件の侍はそんな扇に目もくれず、張見世の前をうろうろと歩き回っている。もう足元の雪が踏み固められた蒼い氷になっていた。
「この見世に何か用か?」
若侍がはっと顔を上げて、扇を見た。
「そなた、ここの見世のものか?」
「いや。違う。おれは白寿楼の用心番だ」
「ここは白寿楼ではないのか?」
「違う。白寿楼はあっちだ」
侍はがっかりしたように肩を落とした。それでも気が変わったのか、侍は扇のほうを向くと、
「そなた、白寿楼の遊女で春ノ音という娘がいるはずだが、何か知らぬか?」
扇はそんな名前の遊女の名をきいた覚えがあった。ある女衒が仲介した少女を見て、虎兵衛がこれは十年に一度の逸材と見込んで、振出新造の突き出しを飛び越えて、部屋持ちの花魁にしたという話だ。その花魁の名が春ノ音だった。十日ほど前の話だ。
「その春ノ音がどうかしたのか?」
「実はその、言いにくいのだが、春ノ音と申す花魁、拙者の――」
妹か許婚か。ああ、自分でも無益な面倒事に足を突っ込んでいることを自覚しつつも、白寿楼の用心番である以上は仕方がないと話をきくことにした。
「――拙者の弟であってな」
「そうか。気の毒だが、廓にも掟がある。身請けか年季明けがしない限り、あんたの弟はここから連れ出すことはできな……弟?」
侍は恥じ入ったように頭をがっくりと下げた。扇は目の前の若侍をじっくり観察してみようと顔を覗きこんだ。すると、今でこそすっかり狼狽していたが、細面の顔立ちは端整でいて、繊細だ。澄ましていればさぞ美しい――女性に見えたことだろう。きっと弟も兄に似た顔なのだ。
「そうなのだ。そなたの妓楼の主が買ったのは娘ではない。男なのだ」
それが本当だとしたら、虎兵衛はとんでもない間違いをしたことになる。
「ああ、申し遅れた。拙者、春木伊織と申す」
「弟の名は?」
「音二郎と申す。突然のことで心苦しいが、どうかお頼み申す。そなたの楼主に取り次いではくれぬか?」