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廓雲と扇の剣士  作者: 実茂 譲
第十話 たたんだ扇と何の変哲のない一日
167/611

十の六

「おいしかったです。ごちそうさまでした」

 りんがぺこりと頭を下げた。

「いや、こっちもいつも馳走になっていたから」

〈盛実〉の店の前で扇とりんは表の瓦家の小さな入れ込みを見た。半分に切った畳が入るだけの小さな空間だが、そこはあの女将がつくったものだった。芸者時代、一晩にあちこちの座敷を受け持つとてんてこ舞いになってしまい、座って休みたくもなるのだが、料理屋で休めば金を取られるし、貸座敷には呼ばれない限り入ることはできない。花街には芸者なり新内流うたながしなりがちょっと気軽に休める場所がない。それで表の瓦家に入れ込みを作っただのそうな。芸者が何も気にせず、少し休む場所として。

 万膳町をぶらぶらと歩いてみると、そうした小粋な心遣いがあちこちに見つかるという。美食と銘酒で奢った舌を初心に返させる一筋の清水、丹念に世話をすれば植えた梅が常咲きとなる小さな土の山、りんが耳の後ろを撫でてやっている、二股尻尾の三毛猫は優しくしてやると縁結びをしてくれるという――。

 扇とりんは特に帰りを急ぐ用もなかったので、三毛猫の後ろをついていった。りんはあまり万膳町には入らないのだが、やはり、すずの妹で素質があるのか、不思議と道に迷わない。料理屋帰りの芸者や振袖新造が猫の喉をなでながら、猫又、猫又、あたしにいい縁結んでおくれ、とケラケラ笑っている。三毛は寒暖に敏感な肉球を労わるように雪の乗っていない築地塀や飯屋の緋を敷いた露台、ときどき荷車や歩く人の肩にちゃっかり乗って、万膳町をあちこちまわっていた。気前のいい親爺の出すハマチの切り身をぱくりとやったかと思えば、ふざけて出された赤鰯を口にして糠の味に驚いて吐き出したりと、猫も猫なりに万膳町を楽しんでいた。

 そのうち見覚えのある場所へ着いた。羽衣湯につながる路地が口を開けていた。料理屋の裏手の細道で、三毛猫のほうは吊り床のように胴を低くして塀の下から牛鍋屋の庭へともぐりこんでしまった。

「羽衣湯か」扇が言った。「何度もここに来ようと思って、うまくいかなかったのに。猫の案内で着くとは妙なものだな」

「ちょっと入っていきませんか?」

「え?」

「鍋焼きうどんの熱もすっかり冷めてしまいました。羽衣湯のポカポカはもっと長持ちしますよ」

 そうは言っても、手拭い一本持ってない。と、思ったころにはりんは女湯のある路地のほうへ立ち去っていた。まあ、いいか。扇は路地の裏口に声をかけて、手拭いと拭くものを借りようとしたが、返事が返ってこない。店の表のほうが賑わっているから人がいるのは間違いないのだが、扇の声は届かないらしい。いつのまにか、扇は羽衣湯に通じる廊下の前に立っていた。どうとでもなれ。狭い廊下を進むと、脱衣所があった。棚に籐の籠が十二個ほど置いてある。棚と向かい合う形で石鹸の自動販売機が置かれていた。以前はなかったものだ。朱塗りの背の高い箱に黒塗りの屋根をつけたもので、表には金メッキの縁のなかに牡丹の花が三つほど西洋画風に描かれていて、下のほうにある白鑞のボタンのそばには天保銭と十銭玉を入れる穴が開いていた。

 布巾の自動販売機だったら良かったのに。

 天保銭一枚を入れてボタンを押したが、何も出てこなかった。蹴飛ばしてから、ボタンを強く押すと、紙に包まれた石鹸が取り出し口に落ちてきた。

 これで石鹸は確保できた。棚に目をやると、一番上の一番右端の籠に縁から手拭いが垂れているのが見えた。籠を手にとってみると、手拭い、体をふく毛羽立った布、それに石鹸が六個入っていた。扇は風呂場を覗いたが、誰もいなかった。出入り口へも戻って、布巾の持ち主がいるかどうか見てみた。

 自分は今からすず並みに図々しいことをするのだと、自分自身を咎めてから、布巾の借り賃に一朱銀一枚を置いて、服を脱ぎ、手拭いを持っていった。小さな湯室では鬼瓦の口から熱い湯が流れ出し、湯船からあふれた湯けむりが籠っていて温かった。以前は天井は葦簾よしず張りだったが、寒い時期には板を張ることになっているらしい。壁の上の明り取りの窓から差す光だけで程よく薄暗い湯室には自分一人しかいない。外が明るいうちから薄暗い温泉でかけ流しの湯に体を浸からせるのはさぞ気分も良かろうと思った扇はとりあえず、桶ですくった湯を体にかけた。冷たい肌が一転熱い湯を浴びせられて、全身がちくちく痛んだが、二度、三度とかけるうちに体は湯の温度に慣れてしまった。

 腰掛けて、桶の湯に浸らせた手拭いをせっせと石鹸を擦りつけて、泡立たせると、それで体を擦って、また湯をかけた。泡がまとまった山となって流れ、鋳鉄で格子状に閉じた排水口の上で溶けるように徐々に小さくなっていく。身ぎれいにした扇は足からそっと湯に入った。湯をかけるのと、湯に浸かるのでは熱の入り方が違うらしい。扇は肩までしっかりつかると、頭を縁の石に預けて、

「うー、あー」

 と呻った。クスクスと忍び笑いが聞こえてきて、扇は思わず左右を見回した。いるのは自分と鬼瓦だけだった。

「扇さんもお風呂に入るときは、うー、って言うんですね」

 りんの声がした。湯室を仕切っている板壁のすぐ向こうからだった。

「隣にいるのか?」咄嗟のことで、声が少し裏返った。どういうわけだか扇の心臓がバクバクと派手に音を鳴らしていた。

「はい」りんの声が聞こえた。「羽衣湯って男湯と女湯は隣同士なんですよ。知らなかったんですか?」

 ということは初めてここに入ったとき、隣には大夜が入っていたことになる。何か大夜に聞かれるとまずいこと――からかいの種になることをあのとき言っていなかったか、思い出そうとしていると、

「あー、うー」

 りんの声がきこえてきた。

「真冬の温泉はこたえられませんね」

 何と言ったらいいのか分からなかった。心臓が胸のなかで暴れまくって、肋骨を破りそうだった。今この場にあの悪魔の機械〈火薬機関〉があれば、不本意とは思いつつも、それに乗ってこの場をあっという間に離れていただろう。

「どうですか? 私の呻り声」りんはクスクス笑いながらたずねてきた。

 どうと言われても。どうすればいいのだろう? 男と女が手練手管を尽くしてやり取りする遊廓に九ヶ月以上いながら、扇は何とこたえればいいか分からず、途方に暮れてしまいそうだった。

 そんなとき、泰宗の言葉がふと脳裏に甦った。

 ――女性に何かを見せられて、どうですか、と言われたら、それは客観的な評価を求めてるのではなく、きれいだ、と言ってほしいのです。

 ――マヌケみたいに見えても、きれいだ、と言うのか?

 ――それは、まあ、事と場合によりますが……

「きれいだ」

 たぶん間違いないだろうと思いながら、扇はそうこたえた。

「……本当に?」

 りんの声が心持ち沈んだ。間違えたかもしれない。

「あ、う、その……」

 言葉が喉に突っかかった。扇の困惑もいよいよ極みに達すると、もう全て白状して楽になろうと決心した。

「よく、分からないんだ。実は以前、泰宗に女が何かを見せるか何かしたら、とにかく、きれい、と言っておけば間違いないって言われて……正直なところ、何と言ったらいいのか分からない。いや、おれが思ったのは、あんたも湯に浸かるときはそんなふうな声を出すんだなと思ったんだ。あんたはすずと違って、しゃんとしてるから意外に思えたし――気を悪くしたなら謝る。ただ、あんたがそういうふうに無防備な状態を晒したことに悪い感情を抱いてはいない。信用はされてるんだなと思えるから。ああ、くそっ。どう言ったら――」

「ありがとうございます」りんが優しげな声でこたえた。「それに、ごめんなさい。ちょっとからかってみたくなっただけなんです。扇さんはあまり自分を人前に晒さない人だから、どんなふうに思うんだろうと思って。とても、真面目な人ですね、扇さんは」

「不器用なだけだ」

 ああ、おれは本当に不器用だ。自分でも鈍いと思う。

 扇は深く湯に沈んで、息をぶくぶくと泡立たせた。

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