十の五
午前十一時くらいまで、扇はりんとともに降る雪の〈流れ〉を追っていた。〈流れ〉に対する感覚はいつもはさほどではないが、りんのそばに来ると研ぎ澄まされ、いつも感じないものを様々なものに感じる。それは扇さんに素質があるんですよ、とりんは言う。人殺し以外に素質を見つけると扇も最近は素直に苦笑いと微笑みの混じった表情を浮かべるようになった。
扇が追った雪の〈流れ〉は海の上へと流れ去った雲へとつながった。それは日本海の冷気が南下し山々を越えるとき、突然、つながって雪を孕んだ雲となって現れたのだ。その様子を見て、天気の変わり目を目ざとく見て取った鉄砲猟師の視線まで感じることができた。雲は尾根をかすり、杉林に影を落とした。雪の積もった地面がだんだん遠ざかっていくように見えるが、それは雲が上昇しているからではなく、山裾へと土地が下がっているからだ。だんだん人の住む家が増え、櫓のある民家や四方を築地塀で囲った屋敷、倉を構えた商家が小さな町をなしていた。町と町をつなぐ鉄道に黒い機関車が書家の達筆のような黒煙を吹きながら走っている。人の営みはどんどん豊かになる一方で気の早い雪の一団が早速鉄道駅の屋根目がけて落ちていった。扇が〈流れ〉を追った雪はまだ雲のなかにいた。天原が見えた。巨大な空を飛ぶ遊廓は白い雪をかぶっている。あそこに落ちるのか。そう思った瞬間、〈流れ〉が解けた。
りんがきゅう太郎と名づけた鳩時計が鳴り出したのだ。緑の羽に桃色の頭、胴は八月から九月にかけて流行ったバナナのような黄色のきゅう太郎が十一度鳴いて、小さな時計のなかへ帰っていった。
「そろそろお昼の時間ですね」
「ああ」
りんが仕度をしようと立ったのを扇が止めて言った。
「今日はおれがおごろう。いつも、ここで食べさせてもらってるから。たまにはお返しもしたい」
見世からお呼びがかかったり、すずに邪魔されず最後まで稽古が出来た後は、ここで昼食を取っていた。
「そんなに大したものは普段お出しできてないんですけど――」りんは微笑みながら、舌をちらと出した。「でも、お言葉に甘えさせてもらいますね。扇さんが誘ってくださるなんて珍しいですし」
二人とも道着から普段着に着替え、綿を入れた羽織をつけて、万膳町へと歩いていった。雪は相変わらず、小さな降り方をしていて、すくい取れそうな淡い光に満ちていた。天原堤の遠くには民家が数軒寄り添っていたり、陶器を焼く窯小屋が薪の山によりかかるようにして立っている。白い銀世界に黒い影が盛り上がっていたが、それは雪に負けじと立っている遠方の松や潅木の幹の陰だった。
万膳町の入口は熱い鍋から立ちのぼる湯気の白い壁ができていた。その壁を割って入ると今土焼の焜炉にはまった栗ご飯や餡かけうどんがほくほくと香っていた。売り上げ帳を桁に下げた汁屋では酒粕をといた熱い湯に短冊に切られたこんにゃくと大根、塩ぶりがひしめいていて、辻行灯には〈かす汁〉とあった。高張や箱提灯は夜にだけ出すらしく、空はすっきりとしているが、通りや横町には芸者や見世の雇人、職人連が体の温まる食べ物を求めて、人が込み合っていた。茶飯やにしんそばは出来上がるそばから売れていく。鉄火や柚子味噌を塗ったカマボコ田楽は香ばしく人の鼻っ面をとらえ、大きな焼き台では水炊きの鍋が五つ並んで、白く湯だった鶏がぶくぶくしている。向こう鉢巻を巻いて襷がけにした娘が、瀬戸物の大鉢についたばかりの熱い大きな餅を入れて、つぶあんと混ぜ込んでいる。あるおでん屋は辻の真ん中に五右衛門風呂のような大鍋を据えて、ちくわ、玉子、がんもどき、巾着、蛸の桜煮、大根を煮て一串いくらで商い、客の好みに応じて、山椒粉や青海苔、辛子、柚子をかけた。
「どれもおいしそうですね」
「そうして食べ物を見ていると、やっぱりあんたはすずの妹なんだなって気がする」
「あはは。まあ、否定はしません。おいしいものを食べることが嫌いな人はいませんもの」
「一応、誘った手前、一つ店を見つけてある。あんたの口に合えばいいが……」
「そうなんですか。あ、いえ、言わないでください。着いたらのお楽しみということで」
二人は万膳町を歩いた。この数ヶ月で扇も万膳町の化け方のようなものを勘と肌で知った。すずほどではないが、何とか自力で脱け出すこともできた。万膳町といい、逆原といい、この天原はやたらと不思議なところのある場所だ。そして、あとどのくらいの不思議があるのか楽しみにしている自分がいる。初めてここに来たときは大夜と棒でさんざん打ち合ってのことだった。あれから万膳町へ羽衣湯を探しに入ったことがあったが、見つかったことはない。万膳町はまだまだ扇を化かしている。町のほうが一枚上手ということだ。
ただ、〈盛実〉まで行くくらいの道は扇もちゃんと辿っていける。大夜絶賛の鍋焼きうどんの店で数ある鍋焼きうどんのなかでも特にうまいと誉めていた。〈盛実〉は道の表には入れ込み一つあるきりの低い瓦家があり、土間の真ん中に衝立があり、行書で「盛実」と大きく書かれている。その向こうには小さな中庭があった。梢に蒼い氷をつけた古梅と車井戸のあいだに飛び石の道があり、奥の茅葺きの店の入口につながっていた。漆喰塗りの戸口をくぐると、芸者上がりの女将がいて、卓と椅子のほうへ案内してくれた。品書きはなく、ただ鍋焼きうどんが出てくる。鍋焼きうどんといえば、具はかまぼこ、海苔、季節の蔬菜、と相場が決まっているが、〈盛実〉では卵ともう一つ、必ず立派な車海老の大きいのが天ぷらになって乗っている。茹で方に工夫があるのか、うどんは柔すぎない。席は十か十二ほどだが、だいたいいつも八か九は埋まっている。店の親爺は若いころは博徒だったが、ある賭場でのいさかいで人を刺し、逃げた先で当時の芸妓、今の女将と知り合い、今は大それた野心も持たず、夫婦二人、子は出来なかったが、健啖家を相手に店を盛り上げていこうとしているとつつましく暮らしていた。
熱々のうどんを吹き冷ましながら食べるうちに体が温まってくる。二人のそばでは女将が身を落ち着けてまっとうに暮らすことについてあれこれ述べ並べていた。女将は子のない寂しさか、生まれついてのおせっかい焼きなのか、若い二人連れの男女を見るたびにうずうずしてきて、自分と旦那を例に挙げるのだ。
「まったくねえ。芸妓と博打打ちが所帯を持ってどうなるものかと思ってみたけど、こうやって落ち着く場所にちょいと落ち着けるんだからねえ。いいご時勢さ。鍋焼きうどんサマサマさね。子どもがいたら、苦労はしたけど、きっと楽しいだろうねえ。でも、心配事も多いかもしれないよ。子どもがいたらねえ、学問をつけさせて、立派にしてやりたかったんだけど。ねえ、あんた!」
厨の親爺は無口に天ぷらを揚げていた。
「あんたたちも落ち着いた暮らしをしなよ。それが一番さね。まあ、まだ若いから弾けるような生き方もできるけど、年を食ってまで弾けるんじゃ身が持たないよ。鉄砲玉じゃあるまいし。店一軒手に入れるのはしんどかったけど、やってよかったと思うよ。やっぱり自分の店と家がないと、根無し草の苦労はあたしも旦那も散々してきたし。ところで、あんたたちどこの見世のもんだい?」
「わたしは見世じゃなくて、道場を開いてます」
「おや、そうかい! そっちの兄さんは?」
「白寿楼で用心番をしている」
「おや。虎兵衛さんとこの。ということは昔、人殺してた用心番ってのはあんたってことかい。若いのに苦労したねえ。でも、まあ、そんなことどうってことないさね。あたしの旦那を見ておくれよ。あれでも、昔は恐ろしく喧嘩っ早くて、人を刺しちまったことがあるけど、今じゃこうしてお天道さまに顔向けできる暮らしができる。あんたも頑張りなよ」
女将がくるりと背を向けて、どこかの見世の若衆らしい客たちへ励まし話をしに行った。




