十の四
時千穂道場で扇は驚くべき光景を目にした。
すずがりんと一緒に道場の茅葺き屋根に登って雪かきをしていたのだ。
雪かきを手伝おうと梯子を登った扇はすずにおでこを出せと言った。
「なんでですか?」
「熱があるか確かめる」
「ないですよ。至って健康」
「そんなはずあるか。ずぼらなあんたが雪かきをしてるんだぞ? 万膳町で人の弱みにつけこんで有料道案内をして、何につけてもうまい汁吸って楽することばかり考えて生きてるあんたが雪かきをしてるんだ。どう考えてもおかしいだろ?」
「扇さんが普段わたしのことをどう思っているかよーくわかりました」
すずはつんとした。
「今まで知らなかったのか?」
むきーっ、と悔しがるすずを横目にりんは茅を巻き込まないように注意しつつ、せっせと雪を屋根から落としていた。
雪かきが終ると、すずは、どうせわたしはずぼらですよ、と捨て台詞を残して万膳町につながっている小道へと雪にはまった足を抜き出しては前に踏み込んで、えっちらおっちら歩いていった。
「ちょっと休みましょう」膝の雪の粉をはらいながら、りんが言った。
「おれとしてはすぐに始めたいんだが」
「まあ、そういわずに」
袷から道着に着替えると、刺すような寒さに一瞬身が縮まる思いをしたが、すぐに寒気を気合で跳ね返した。りんは母屋のほうがあったかいですよといい、扇は母屋の縁側を一跨ぎした部屋へと入った。掘り炬燵があり、なかで杉の格子をかぶった瓦焼きの火炉が置いてある。りんがあったかい飲み物を盆に乗せて持ってきた。口をつけるとほのかに甘くさわやかな香りがする。
「花梨と皮の薄い小さな柚子の実を皮がついたまま氷砂糖と一緒にガラス壷に入れるんです」りんが説明した。「二ヶ月くらいすると、氷砂糖が完全に溶けて、溶けた砂糖にゆずの香りと味が移ります。それをお湯で割って飲むんです。お口に合いました?」
「ああ」扇は茶碗を両手に持って、手を温めながらうなずいた。「体がポカポカするな」
「今度は梅の実で同じものを作ってみるつもりです。冷たいお水で割れば、きっとおいしい蜜になりますよ」
「うちの用心番の半次郎に教えてやろう。たぶん気に入るはずだ」
「半次郎さんなら、もうとっくに知っていますよ。あの方の甘いもの好きは有名ですからね」
「あんたも知っていたのか?」
「たぶん天原に暮らす人はみんな知っていると思いますよ。実はだいぶ前にお会いしたときに甘いものの話が出て、柚子と氷砂糖の話をしたんです。でも、結局、作るのには失敗してしまったそうです。ガラス壷いっぱいの氷砂糖があるとつい我慢できなくて、さじで一すくい、二すくいとやっているうちになくなってしまって」
扇は苦笑した。「そんなことだろうと思った」
日が陰った。天原はまた雪雲のなかを飛び始めたらしく、障子の色が褪めていき、目で見えずとも、大きな雪片が舞っているのを感じることができた。
「落ちる雪にも〈流れ〉はあるのか?」
扇がたずねると、りんは口をつけていた茶碗を下ろして、手巾で口を拭って、
「もちろんありますよ。縁側に座って、落ちていく雪一つ一つの〈流れ〉を逆に辿っていくんです。そうすると、雪は雲から産み落とされていくことが分かって、まるで雲が雪のお母さんみたいに思えてきます。そのうち雲のなかで雪の素として、じっと雪になるのを待つことに気づきます。雲のなかには雪の素の兄弟姉妹たちがたくさんいて、雪になるのを待ちわびて、うきうきしています。雪の素は冷たくて澄んだ結晶で、突然結晶のまわりに凍りついた水が何重にも取り巻いて、重くなって、雪になるんです。雪になって、雲を離れるときには少し寂しさを感じますが、でも、雪の素の兄弟姉妹たちが言うんです。気をつけて。また会いましょうって」
「また会う?」扇が首を傾げた。「落ちた雪がまたもとの雲のなかに戻るってことか?」
「そうです。雪は何十年もかかって、もといた雲のなかへ戻っていくんです。溶けて水になって蒸発したり、生き物に飲まれたり、海へ流れたりします。熱帯のほうへ流れたりする場合もあります。でも、いつかは冷たい空気にさらされて、蒼ざめた冷気を秘めた結晶に姿を変えて、空へと昇っていくんです。そのとき結晶が昇っていく雲が――かつて、自分を産み落としたお母さん雲なんです。お母さん雲も風と温度の具合で掻き消えてしまうのですが、やがて、また雲になってこの空に戻ってくるんです。そして、雪は雲と再会するんです」
「必ずそうなるのか?」
「はい」りんは力強くうなずいた。「必ず会えるんです」