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廓雲と扇の剣士  作者: 実茂 譲
第十話 たたんだ扇と何の変哲のない一日
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十の三

 さて、朝餉が終ると、朝の掃除である。

 扇が朝の掃除を免除されるかどうかは五分五分である。中郎などの雇人は必ずしなければいけないが、用心番はしなくてもいい。ただし、お登間に捕まったら関係なく掃除させられる。お登間に捕まると、時千穂道場での稽古の時間がとられてしまう。

 うまく脱け出せそうだ。お登間の金切り声は遠くから聞こえてきている。少なくとも扇の部屋には来ていない。扇は一ヶ月前にあつらえた道着――白の帷子と黒の袴を素早く風呂敷に包み、襖を開けて、左右を見た。中郎たちがよく絞った雑巾で床を拭きながら走っていくのが見えた。そのまま、カエシの裏口へと向かうと中庭で羽織を着込んで襟巻きをつけた虎兵衛が禿たちと雪だるまを作っているところに出くわした。

「おう、扇」虎兵衛が言う。「お前さんもどうだい? 雪だるま」

「生憎だが」と扇はこたえた。「お登間に捕まる前に道場に行きたいんだ」

「流術かい?」

「ああ」

「なら、行ってくるといい。あれはお前さんのためになっているからなあ」

 虎兵衛が気持ちよく扇を送り出すのは、時千穂道場での〈流れ〉にまつわる鍛錬が扇にとっていいほうに働いているからだ。道場に入門して五ヶ月が経ったが、扇は自分のなかの殺すための〈流れ〉を自分の意思で押さえ込むことができるようになっていた。最初のころは自分の瘴気のような〈流れ〉にあたると、意識を失ったり、あるいは理由のない殺気に呑まれそうになったりしたが、そのたびにりんが扇を元の世界へ、〈鉛〉ではない自分でいられる世界へ引っぱり出してくれた。あのころは自分がどんなふうに生きられるか、そのことにただ不安を感じ、いずれ自分が手にかけた〈的〉の遺族か恋人かに復讐され命を落とすのだろうとばかり考えていたが、いま考えているのはいまのこと。それ以上のことは考えなくなった。自分がこれからどうなるかだなんて、誰にもわかりっこないと単純だがなかなか認めづらいことをきちんと自覚できるようになった。いまを精いっぱい生きるのが、結局人のさがで、その精いっぱいのいまを重ねることでしか、忌まわしい過去を克服する術はないのだ。

 カエシの裏口は見世にあるいくつかの厨の一つのそばにあった。行書で「厨」と染め抜いた紺地の打裂暖簾ぶっさきのれんが垂れていて、その日の晩に出す料理の仕込みを始めている。反対側の小さな部屋には仕出し屋に返す予定の器やら皿やら漆塗りの膳やら積まれていて、仕出し屋の使いが取りに来るのを待っていた。そうしたもののなかにはホテル・コスモポリタンの字が印刷された籐の籠――時乃に言わせれば、ピクニック・バスケットも置いてある。異人を納得させることができる西洋料理を唯一出せる店としてホテル・コスモポリタンは令名を馳せている。

 すると、勝手口から舞が現れた。黒の洋服に白い前掛けの女中姿で扇の顔を見ると、

「何をしている?」

 と、たずねてきた。

「遣手のお登間を覚えてるな?」

「ああ」

「あいつから逃げようとしているところだ」

「そうか。どこに逃げる気だ?」

「天原堤と割烹堤のあいだの開けた土地に道場がある。そこで鍛錬しにいくんだ」

「まだ訓練はやめてないのか?」

「これでも用心番だ。腕っ節で雇われてる。〈鉛〉をやめてからも、隠密行動や潜入の方法だのが役に立ったこともあるから、カンは鈍らせないつもりだ。そっちはどうだ?」

「銃の撃ち方を習っている」

 そう言って、舞は白い前掛けをめくり揚げた左側の下腹部に回転拳銃を差した革の銃嚢と短剣が一本ある。

「時乃とうまくやっていけているようで何よりだ」

「じゃあ、わたしは行くぞ。これでも仕事が山積みなんだ」

 舞はホテルの食器が詰まった籐の籠を抱えて出て行った。

「つまり、舞はコスモポリタンの膳役ってことか……」

 扇がひとりごちた。仕出し料理屋において必ず雇っておかなければいけないものにこうした仕出し料理を運ぶ膳役というのがいる。膳役は料理を盛った猫脚膳ねこあしぜんをいくつも重ねたものを頭の上に置いて手で支えることなく茶屋や妓楼に持っていかないといけない。仕出し料理屋ではどれだけ高く膳を重ねられるかを競い合い、それが遊廓の仲町に粋を添える。膳役というのはまた身なりが粋で、腹掛に白股引に白足袋、着物の裾を尻からげにして、弁慶縞の唐桟半纏からざんはんてんをさっと引っかけ、髪ですべっては面白くないと月代を剃り落とした昔気質の髷姿。五重塔のごとく重なった膳を頭に置くのだが、鯛の尾頭つきや牛鍋、カツレツとヲムレツ、車海老の茶碗蒸しが三十人前ときて、それが十個も重なればその重さは三貫は軽く超える。それを涼しげな顔をして歩くのが粋なのである。首が太ければ楽な仕事だが、この膳役はとにかく粋を大事にする仕事だから、そんな当たり前はつまらない。普通の首でどれだけ重ねられるかが大切なのだ。膳役は非常に技と生まれ持った釣り合いが大切な仕事であり、言ってみれば仕出し屋の看板でもある。万膳町の稼ぎ頭となるのもうなずける。

 さて、扇がカエシの出入り口からうまいことずらかって、仲町のほうへと出て行こうとすると、山高帽にフロックコートを着て、大きな革カバンを提げた鬚の男とすれ違った。革カバンのなかには小説がぎっしり詰まっている。最近流行っている貸し洋書だ。世界の大家の小説が日本の言葉で読めるとあって、非常に重宝がられている。この天原でも二、三ヶ月前から屋台堤のそばにある二階屋を借り切って商売をしていた。相手は楼主や遊女、それに万膳町の料理屋の持ち主と高級どころを狙っている。だが、実際のところ、この貸し洋書屋はペテン師だった。本邦初訳と偉ぶっているが、その実は近松の時代物や西鶴の好色物を登場人物や地名を異国のものとすり替えて、それをユゴーだ、ドストエフスキーだと臆面もなく吹いて、割り増し料金で貸すのだ。すると、それを読んで、読書通ぶったものが、ふむ、やはり近松や西鶴はすごいな、異国の毛唐がやっと今日書き上げた物語を、百五十年前に先手を打って書いてしまうのだから、と馬鹿を丸出しにする。

 だが、こういう怪しげなものも面白いといって住まわせてしまうのが天原という場所なのだ。それを言えば、扇だって元暗殺者じゃないかということになる。艫側の惣門から遊廓を出て天原堤を下っていく。こんもり雪の積もった道をざくざくと切って進んでいると、堤から外れた右のほうで寿が白い帷子袴で神社の屋根に登って雪を下ろしている場面に遭遇した。うっかり目を合わせたのがいけなかった。

 おれが知るもんかと道を急ごうとすると、寿は切なげな微笑みを扇に送ってくる。扇が彼の首を刎ねる前に見せたあの微笑みだ。

 あいつめ、事あるごとにそういう表情でおれをこき使うつもりかと思いながらも、道を右へ取って天原白神神社へとゆく。

「はやく巫女を雇え」屋根に登った扇は雪を蹴り落としながら寿にピシャリと言った。「あと困ったときにあの表情をするのはやめろ」

「あの表情ってこれのこと?」

 寿は唇を尖らせ、寄り目をして見せた。

「ふざけるなら、おれは行くぞ」

「冗談だよ、冗談。おれは幸せ者だよ。ウン。雪かきしてくれる友達がいて。きっと扇の今年は大吉だよ」

「都合のいいことを言う」

「ホントだって。そうだ、うちのおみくじ引いていってよ。お礼に一回タダで引かせてあげる」

「興味ない」

「まあ、そういわずに」

 雪かきの後、引いてみたおみくじは末吉だった。微妙なおみくじは失せ物や待ち人についてどうとでも取れる玉虫色の文句を並べていた。扇はそれを境内の梅の枝に結びつけると天原堤のほうへと戻っていった。

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